世界史小話~十分の一税とはなんぞや~チレキスキー

中世のヨーロッパでは、すべてのキリスト教徒は収穫や収益の十分の一を神への献げ物として洗礼を受けた教区教会に支払うことが義務付けられていました。これが十分の一税と呼ばれるものです。ただし聖職者や俗人領主層は支払いを免れていたので、実際に支払ったのは農民や商工業者だったといえるでしょう。また、十分の一税は旧約聖書の律法に由来するにもかかわらず、制度として定着したのはローマカトリック圏に限られ、その起源はカロリング朝のピピンやカール大帝の時代にあったとされています。
課税対象は、穀物・野菜・果実などの農産物、商取引や手工業品の売り上げ、家畜・乳・卵・羊毛・皮革など実に広範囲に渡りました。それらの十分の一を教区司祭もしくは代理人の徴税請負人が取り立てたわけです。徴収の実態については史料的な制約から必ずしも明らかではありませんが、十分の一を算出すること自体はそれほど難しくはなかったでしょう。ただし厳密に十分の一を算出したというより、各時代の各農村・都市ごとの慣習によったということ、また、算出するのは常に取り立てる側だったということに留意するべきです。
さて、十分の一税を支払うことができないとどうなるかというと、 「教皇が贖宥を濫用するため、教区民が司祭をあなどり十分の一税を払おうとしない」 といった苦情からもうかがえるように、零細な教区司祭の場合、徴収に困難をきたす例もあったと思われます。
しかし、多くの場合、教区教会は俗人領主が創設し、司教や修道院に寄進したものでした。俗人領主はその見返りに十分の一税の徴収権の一部または全部を貸与されました。つまり十分の一税の徴収には 「神への献げ物」 という観念と共に領主権力が大きくかかわっていたのであり、支払いを拒否することはかなり難しかったといえます。
罰則規定に関しては、まず支払いを拒否した場合、贖罪と何倍かの罰金が科されます。一例として、十一世紀初期に流布したヴォルムス司教 ブルカルドゥスの贖罪規定書には 「神のものであるべきものを四倍にして神に返し、二十日間パンと水で贖罪しなければならない」 と記されています。さらに度重なる警告にもかかわらず従わない場合は、破門され、財産を没収され、追放に処されることが教会会議の教令に記されていますが、しかし、それがどの程度実施されたかは不明です。 

チレキスキー

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