私にとっての戦争話いのっち









どうも皆さんこんにちは、いのっちです!
いや~、今年も半分終わりましたね(絶望)
九州は既に梅雨が明け、気温もぐいぐい上がっています(絶望)
さて、夏の足音が近づいてきた(というかグイグイ迫ってきた)ので、
今年で80年目を迎える「あの戦争」を振り返ってみたいと思います。
といっても、当然私は生まれていません(平成生まれ)ので、
戦前生まれだった祖父母たち(全員既に他界)から聞いたお話を、
祖父母たちの冥福を祈り意味も込めて記していきます。
【父方の祖父】
私が生まれた頃には既に定年を迎えており、杖を突きながら趣味の畑に勤しむ姿しか記憶にありません。
ただ子供の頃にいじめられた時、父親から日本刀を渡されて「仕返しするまで帰って来るな!」と言われた話(当然未遂)を笑いながら語ってくれたので、後述のエピソードからも合わせて「豪胆な人」だったのかなあという今更ながら考えています。
終戦時は20歳だった祖父は、理系出身だったためか徴兵を免れ、
戦時中は九州のとある工場に動員されていたそうでして。
ある時、工場内での待遇に不満を抱いた同僚たちを引き連れて勝手に実家へ戻ったというエピソードを教えてくれました。
(そんなことしたらただでは済まない気がするのですが…)
あと、広島や長崎に「原爆」が投下された頃は「小倉(福岡県北九州市の地名)」にいたそうでして…
有名な話ですが、小倉は原爆投下の候補地になったいたのですが、たまたま雲に覆われて街が視認できなかったため難を逃れた場所です。
もし小倉が晴れていたら、私は生まれていなかったでしょう。
この世に生を受けるのは将に奇跡の積み重ねだと実感します。
【父方の祖母】
祖母は結構裕福な家庭だったらしく、戦争中は「満州」に一家で移住しており「鞍山女学院」という学校に通っていたそうです。
(晩年まで女学院の同窓会に出席していたので、やはり思い入れが強かったんでしょうね)
終戦間近、満州にはソ連軍が北から侵攻してくるのですが、幸いなことに祖母一家がいた場所は南側だったため、終戦時は直ぐに本土へ引き上げることができたそうです。
もし、満州の北側にいたら…
この世に生を受けるのは将に奇跡の積み重ね(二度目)
【母方の祖父】
祖父も「満州」に縁のある人でして、農家の次男だったため「口減らし」の意味も込めて、父親から無理やり「満蒙開拓団」に入れられたと語っていました。
毎晩、親を恨んで泣いていたという思い出話には胸が締め付けられました…
因みにその影響で、晩年足腰が弱り、今朝の朝ごはんを思い出せない状態でも満州の地名はハッキリと覚えていました。
両手に杖を突き、行進曲?を口ずさみながら自宅の庭を散歩していましたね。
幸いなことに終戦前には九州に帰還しており、玉音放送は農作業に出かけていたため聞いていなかったとか
(帰宅して戦争が終わったことを知ったと言ってました)
もし開拓団として満州に残っていたら…
この世に生を受けるのは将に(三度目)
【母方の祖母】
祖母はとても優しい人で、私の誕生日に亡くなっています(切ない)。
一時期は「満州」の女学校に通っていたこともあるとか。
(つまり私の祖父母は4人中3人が満州関係者)
因みに身内で出征していたのは祖母だけで、南方に出征していたその方も無事に帰ってきたそうです。
父親が海軍の軍人さんだった影響で、当時田舎では珍しい(祖母談)「カレーライス」を作れたそうで。
祖父はお見合い後に、初めて食べたカレーに感激して結婚に踏み切ったとか。
もし祖母がカレーを作れなかったら…
この世に生を(四度目)
…と以上見てきた通り、私の祖父母は四者四様に戦争に翻弄されて人生を歩んでおり、歴史好きな私に様々な話を教えてくれました。
今日、私がこのように徒然なるままにブログを書くことができるのも「当たり前」ではない、戦争の話を聞くたびに、「自分の人生は必然ではなく、偶然の積み重ねで成り立っている。」と実感するのでした。
日々の出会いに感謝!
戦後80年の節目、皆様も平和と人生について考えてみませんか?
以上、いのっちの自分ルーツ語りでした。
それでは失礼致します!
(追記)私を可愛がってくれた祖父母たちへ。
皆さんから教えてもらったお話を風化させないために、このブログを捧げます。
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