海軍さんの嗜好品 戦争において士気などを維持するのに嗜好品は貴重なものでした。なにせ、やる気がない中仕事をしてもなかなか捗らないように、士気が低いと兵士も弱くなるのです。 第一次世界大戦でもフランス軍は、兵士1人につき毎日4分の3リットル(通常のワインの瓶1本に相当)のワインを無料で支給し、イギリス軍も一日一口程度のラム酒を支給して士気の維持に努めたほど。 第二次世界大戦では救国戦闘機のスピットファイアがフランスにいるイギリス軍の為に落下タンクにビールを詰めたり、仕事熱心な米軍のおにいさんが最前線の小島にアイスクリーム製造機を配備したりと……これらは「兵士を甘やかすため」ではなく「効率よく兵士のやる気を出させるため」に用意されたのです。 WWIでガリポリに上陸したフランス軍のワイン そういう意味では、昨今のミリタリーオタクの皆さんが小馬鹿にしがちであるイギリス軍の現代戦車に搭載されている電気式湯沸し器も士気の維持という点では侮れない装備です。敵の砲爆撃の嵐の中でも安全な装甲に包まれた戦車の中で火をたかずに暖かい食事や飲み物が楽しめたり、布の消毒ができたりするのです。皆さんだって冷たいコンビニ弁当ばっかりだと少しは暖かいものが恋しくなるでしょう?それが安全にできるのですごいんですよ。 とてもつおいイギリス軍の湯沸かし器 ……っと少し話がそれてしまいましたね。 それでは士気向上の嗜好品を大日本帝国の海軍さんはどうやっていたのかというと、甘いものでやる気を出させていました。 泊地などではかの有名な給糧艦間宮の間宮羊羹などの甘味の補給が有名ですが、巡洋艦以上の大型艦には自分たちでそう言ったものを作る手段がありました。 それが「ラムネ製造機」です! 海軍艦艇には、火災の時に火を消すために「二酸化炭素消火装置」というものが備え付けてあり、それを転用して「ラムネ製造機」というものを設置したのです。 この装備の設置については戦前からであり、昭和三年の「艦舷「ラムネ」製造機装備の件」という訓令が出されており、横鎮、呉鎮、佐鎮長官あて(舞鎮がないのは、当時軍縮条約により要港部に格下げされていたため)に海軍省大臣官房から 『其府麾下所属ノ既成戦艦、巡洋戦艦、巡洋艦、航空母艦、潜水母艦、給糧艦及其他必要ヲ認メタル艦舷ニシテ「ラムネ」製造機ヲ有セサルモノニアリテハ此際艤装品トシテ装備方取計フベシ 右訓令ス(後略)』 とあり、要約しますと 「横須賀、呉、佐世保の各鎮守府長官は、自分の部下所属で竣工済みの戦艦、巡洋戦艦、巡洋艦、航空母艦、潜水母艦、給糧艦そのほか必要な艦船でラムネ製造機を取り付けていない艦があるのならば、この機会にすべて取りつけるように」 というものになります。ここで駆逐艦や潜水艦等がないのは、ラムネ製造機を設置するにはスペースなどの制約があるからなのでしょうかね?実際に駆逐艦島風や駆逐艦山雲といった艦にはラムネ製造機は設置されていなかったという記述を見たことがあるのでそういう事なのでしょう。 ちなみに火を消すための炭酸ですので、そう無闇に使う事もできません。なので停泊時は「ボンベに入った炭酸ガスを陸上から買って製造」していたそうです。 なおその頃、仕事熱心な米軍さんは大型艦にアイスクリーム製造機を導入しており、米空母艦載機が不時着した際に駆逐艦などがパイロットを回収して引き渡せば、お礼にパイロットの体重分のアイスが貰えたそうな……やっぱり格が違うなぁ……
Category: 日本
近代中国研究のススメ
https://youtu.be/EONxJgy2WFc さて、先日私の投稿した↑ 「社会主義の中国伝来」ですが、 取り上げたほとんどの人物が日本に亡命または留学していました。 外国研究の難しさ どんな学問であっても研究をするとなったとき、そこでは積み上げられた先行研究を踏まえた上で、どんなに小さいことでもいいから、その山にプラスすることが求められます。 これが外国の歴史、文学、思想となると難しい。 どんな学問であっても 大抵、日本のことを対象とする学問であれば日本が研究の本場であり、アメリカのことを対象とする学問であればアメリカが研究の本場となるでしょう。 中国研究の場合 中国研究においては、日本が最も研究が進んでいるという時代がありました。 要因をパッと思いつくものをあげると 日本 ・前近代までの漢学の伝統の積み重ね ・近代以後の西洋的な学問の受け入れの早さ ・民主化の早さ 中国(大陸) ・民国期の政治的混乱 ・共産党による言論統制 台湾 ・国民党による言論統制 こんなところですかね。 現在は台湾は言論が自由となり、大陸もかつてと比べるとかなり緩和されました。 大陸の50年くらい前の研究を見ると意味もなくマルクスが引用されていて、初めて見たときは閉口したものです。 さて、いまや日本の中国研究は人も予算も減る一方。大陸の研究成果を見ずに研究することは不可能となりつつあります(多少分野の違いはあります) 日本人が近代中国をやるメリット さて、母国でない国のことを研究する意義という点では、近代中国は穴場なのです。 先述のとおり、重要人物の多くが日本に滞在していました。 では日本でどんな情報を得ていたのか?となると、 明治期の日本語文献を読みこなす必要があります。多様な形式の文語文や変体仮名といった、日本語を母語としていないと(していても)非常にとっつきにくいものを読めなければならないのですね。 日本人であることが、非常にメリットとなるのです。 ところが、日本においては、中国近代は研究者の人数が他の時代に比べて少ないのです。(文学は唐、思想は宋が多いかなと思います。歴史学の方はよく分かりません) 卒論のことをこれから考える中国学徒におかれては、近代にも目を向けていただければと思います。 (私も興味を持っていただけるための発信をがんばります……)
グラント大統領の記念碑を上野へ見に行こう
上野公園の南北戦争スポット!? 読者の皆さんは上野恩賜公園を訪問した事があるでしょうか? 博物館や動物園で有名な公園ですが、このブログを書いている3月末なら桜が見頃なお花見の名スポットでもあります。 しかしこの公園、日本では数少ない(?)米国史を感じられる場所となっています。と言う事で今回は南北戦争を北軍の勝利に導き、戦後に大統領を務めたユリシーズ・グラント、彼の訪日を今に伝える上野公園の植樹碑訪問ブログです。 この記念碑自体への行き方は結構簡単、上野駅公園口から直進して動物園正門の前で左手に見れば到着です。 ただし結構ひっそりした見た目なので、そこは注意かもしれません。記念碑のレリーフは中央はグラントの肖像、左右に英語と日本語で植樹碑設置の来歴が記されています。 (日本語の碑文は塗装が消えかかっててちょっと読み辛い……) グラントと言えば1865年に北部の勝利で幕を閉じた南北戦争で北軍の最高司令官に上り詰め、南軍のリー将軍を破り一挙に英雄となった人物です。その後1868年の大統領選に参戦すると、対抗する民主党の候補を獲得選挙人で大差を付け当選し第18代大統領として8年勤めます。 (彼が任期中に取り組んだ南部の再建も南北戦争後の重要な出来事でした) 1877年に大統領任期を終えたグラントは世界各国への訪問へ出発、1879年には日本を訪問し明治天皇への謁見を行い、足を延ばして日光へも訪れました。そしてこの訪日の際に記念植樹を行った場所の一つがこの上野公園なのです。 ちなみに肝心の植樹した木は記念碑から左に向くと今でも姿を確かめられ、二本のうち左側はグラント夫人による泰山木で、右側がグラント本人による檜です。そして明治時代に植樹された由縁が時代と共に薄れる事を憂いて昭和4年に記念碑が建立されました。 今回の訪問記はこの辺で終わろうと思いますが、有名な文化スポットが並び立つ上野で公園に佇む銅像や記念碑にも、普段は意識しない由緒が見つかるかもしれません。
ヤンデレの道真好きに徹底的に恨まれて眠れない防府天満宮縁起
道真以外道真じゃないの こんにちは、※(米印)です。 ひょっとしたらご存じの方もいるかもしれませんが、実は私、菅原道真が大好きなんです。 それはもう、世界史べーた(仮)で最初に出した動画がこれですもの。 (ただ、一応免罪符として置いておきますが、私はあくまで「好き」なだけで専門家とかではありません。その点は十分ご注意ください) この漢詩……道真のじゃないよね。誰の? さて、そこで問題になるのが海鳥さんのこのブログ記事です。海鳥さんは旅行に際して防府天満宮を訪問されたようでして、その由緒などを載せています。まだ読んでいないという方はぜひぜひ。 天満宮の参拝者が増えるのはいち道真ファンとしてとっても嬉しいことで、去年のくないさんの太宰府天満宮訪問を聞いたときと同じく踊り狂いました。 ところが、落ち着いて肩で息をしながら改めて記事を読んでみますと、そこにはこんな文がありました。 「此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ」 頬を冷や汗がつたいました。「これ、知らない」と。 言葉遣いや音の数からして、和歌ではなさそうです。それなら漢詩か、しかし見覚えがない。「菅家文草」や「菅家後集」に収録されている漢詩なら、見かけたことくらいはありそうなのに…… 瞬間、脳内に死ぬほど愛されて眠れなくなりそうなどこぞのヤンデレがインストールされ、「道真のこと世界で一番わかってるのは私なの! 他の誰でもない、私!」と叫び始めます。いやさすがにそれは思い上がりにもほどがある。ガチ研究者とかに勝つのは無理じゃん。そも専門家じゃないし。ただのファンですら私より上がいくらでもいるし…… ともあれ、脳内のヤンデレ妹(妹要素どこ?)をなだめるために、私はこの文について調べなければならなくなったのです。 道真は優しくてかっこよくて、でもちょっと脚色が多すぎるところはわかってた 最初に元文を確認してみましょう。防府天満宮さんのHPによりますと、「九州大宰府への西下の途中」に、「防府の勝間の浦に御着船」し、「『此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ』」と願ったのだといいます。 つまり、昌泰の変により左遷された際のものと考えるべきでしょう。 あれ? 「御着船」なの? 陸路じゃなくて……? 早速雲行きが怪しくなっていますが、ともあれまずは一般のご家庭にある川口久雄校注『菅家文草 菅家後集』を引っ張り出してみます。 道真の左遷後ですから、もし収録されているとすれば年代的に『後集』しかあり得ません。 しかして、川口本を見る限り、昌泰四年(左遷はその年初)の最初の詩は「自詠」で、 離家三四月 とあるのですが、「離家」(=左遷)から数か月経っていると言っているわけで、これは時期的にも既に大宰府に着いてから詠まれたものと思われます。 実際、他の詩を見てもそれらしいものはありません。したがって、『後集』には載っていないことがはっきりしました。 次に確認すべきは『大鏡』です。大鏡も地味にいくつか漢詩を載せており、有名どころでは「一栄一落是春秋」(一応川口本も載せている)はこちらに引きます。 が、駄目……っ! やはりそれらしきものはナシ。念のため和歌も確認しましたがやはり無い。 ひとまず、脳内ヤンデレ妹は「やっぱり私の知らない詩……」と、お兄ちゃん(道真)の浮気を恨みつつも、自分の記憶違いではないことの安堵をわずかばかり含んだ声色に変わりました。よしよし。この調子で頼むぞ。 でも菅家伝さんって面白いっていうより信頼性がないよね 薄々察していたのですが、やはり『後集』や『大鏡』にはなかった。実はこの辺であのツイートをしています。ヤンデレ妹を必死に抑えながら。 となると、次に見るべきはおそらく菅家伝。なお、「菅家伝」というのは俗称でありまして、基本的には『北野天神御伝』というものがそう呼ばれます。 しかし、残念ながら私のような一般家庭にはそんなものは置いてありません。デカい図書館か逸般の誤家庭を訪ねて見せてもらうほかない。 ちょいと出かけまして、一番参照される(と思われる)真壁俊信校注の神道大系本(『北野』(神社編11))を用意しました。 さて、分厚い本をひっくり返してみた結果は……ない。ここにもない。念のため頭から後ろまで漢詩は全部チェックしたのにそれっぽいものがひとつもない。 脳内ヤンデレ妹はこんらんしている! いや、まぁこれも薄々気づいていたんですよ。防府天満宮の話なんだから防府天満宮の縁起読まなきゃ出てこないかもな~って。なので、読みます。読みました。 用意したのは『防府天満宮縁起集』、ここに『松崎天神縁起絵巻』の詞書が載っています。 で、パラパラめくって漢詩らしきものを探すと……ない、ない!? マジで? そんなの道真じゃない!! ヤンデレ妹がいまにも暴発しそうなのですが、なんとかKOOLになって考えます。 こういうときは元文に戻るのがセオリー。「此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ」ともういっぺん睨めっこをしてみます。 にーらめっこしーましょ。わーらうっとまっけよ。 ……これ、ほんとに漢詩か?… Continue reading ヤンデレの道真好きに徹底的に恨まれて眠れない防府天満宮縁起
『翔ぶが如く』はいいぞ。(おすすめ大河ドラマ紹介 第3回)
※今回は、とある大河ドラマ紹介文です。 ネタバレ注意! こんにちは、いのっちです! いよいよ「23年度(令和5年度)」が始まりましたね。登録者も1000人を突破し、新メンバー(メ塩さん)も加わった新たなスタートをきる世界史べーた(仮)を本年度も何卒よろしくお願い致します! 最近は春らしい陽気が続き、ほんわか過ごしている私ですが、今日も歴史好きになった理由の一つ「大河ドラマ」の御紹介をさせて頂きたいと思います(今回で3回目!)。 過去ブログはこちら ⇒ 第1回「草燃える」 第2回「花神」 今回御紹介させて頂くのは、幕末の動乱から「西南戦争」・「紀尾井坂の変」に至る明治維新の激動と葛藤を主に薩摩の人々の目線で描いた作品『翔ぶが如く』(1990年[平成2]放送)を御紹介します! (放送当時、まだ生まれていたわけではないのですが💦) 本作は前回御紹介させて頂いた「花神」と同様に、司馬遼太郎さんの長編小説『翔ぶが如く』が原作になった作品です。 ただし、明治以降が舞台の原作に対して、ドラマは主人公の「西郷隆盛(演:西田敏行さん)」と「大久保利通(演:鹿賀丈史さん)」がまだ若かった時代から始まっており、「第一部(幕末編)」「第二部(明治編)」の二部構成になっています♪ (大河史上初の『二部構成作品』) 因みに「翔ぶ」という言葉は本来「とぶ」と読むことは出来ません(当て字ですから)。それにも拘わらずこの当て字を使っていることをよく目にするので本作の影響力は計り知れませんね♪ 本作は舞台が九州(「鹿児島」や「熊本」)ということもあって、九州出身の私にとってはかなり身近に感じられる作品です。父も「司馬遼太郎ファン」ですので西南戦争に関する史跡(熊本城や田原坂)をよく一緒に回ったものです。 本作の名シーンとして有名なものは、征韓の是非を議論する会議の場における「西郷と大久保の激論」でしょうね。 遣欧使節の一員として諸外国を視察し新たな国家体制の構築が急務だと痛感した合理主義者の大久保と、その留守を預かる中で新時代に取り残された人々の嘆きや怒りを一身に引き受けてきた情に厚い西郷は、たとえお互いを最大の理解者だと認めてあっていても激しく衝突せざるを得ませんでした。 (両者とも最期の瞬間は共に過ごした青春時代を思い出していました。(泣)) 議論が白熱する中で、普段は標準語を使っていた大久保も薩摩弁(鹿児島弁)に戻り、まるで若かりし頃のように激情をぶつけ合う二人の姿が非常に印象的です。 結局、政争に敗れた西郷は下野(鹿児島へ帰郷)するわけですが、それを告げられた大久保は「赤子にように始末が悪い!」と激怒します。それが二人の別れとなるわけです… かつて同じ夢を追いかけていたはずの幼馴染二人の悲劇的な決別は、「明治維新」という新時代を創造する一大事業の困難さを象徴するものだと思います。 その過程で生じる矛盾や歪みを二人はハッキリと理解しており、西郷に至っては「(新しい世の中を創る為に行った倒幕の戦で)もっともっと人が死ぬべきだった。公家も大名も士農工商全てを焼き尽くして、その焼け跡の中から新しい日本を築くべきだった。(要約)」と今の大河ドラマでは絶対主人公が言えないような「かなり過激なこと」を言っています(戦後の日本を彷彿とさせる台詞ですね)。 様々な役を大河ドラマで演じてきたことで有名な西田敏行さんですが、その懐の深い将器を有する好人物ながら、時に謀略も厭わず狂気じみた革命論を吐露する本作の西郷隆盛役が個人的には一番好きでね♪(会津を有する福島県出身の西田さん的には複雑な役どころだったみたいですが…) 本作には他にも、実務能力や先見性を評価されながらも急進かつ攻撃的な性格が災いして新政府内で孤立、後に反乱の指導者となる「江藤新平(演:隆大介さん)」。野心家で保身のためには同志も切り捨てる冷徹な面がある一方で、厳しい局面においては身分の低い公家から成り上がっただけの度胸・胆力を見せる「岩倉具視(演:小林稔侍さん)」。若い頃は軽率な面が目立ったものの、経験を積むうちに見識高く成長、後に「敬愛する兄・隆盛」と「尊敬する先輩・大久保」との板挟みで苦しむことになる「西郷従道(演:緒形直人さん)」など様々な魅力的な人物が登場しますよ! 是非御自身の眼でお確かめください! それでは今回はここで筆をおかせて頂きます。 これからも機会があったら好きな大河ドラマを紹介していきますね♪ それでは失礼致します! 〇(><)
【呼び名の違い】”儒教”か? それとも”儒学”か? : ついでに”儒家”も
儒教・儒学・儒家の呼び方の違い 「儒教」は「儒学」と呼ばれることがあります。この両者はほぼイコールであり、「儒教」と書いてあるのを「儒学」と書き換えても差し支えのないことがほとんどです。そのほか「儒家」と書き換えてもいい場合も多いかと思います。 日本史・世界史・倫理・国語等の教科書や資料集・便覧でも、これらは統一されず、場面場面によって異なる名前で登場します。 私が1月に投稿したこちらの動画においても、呼称は統一していません。「儒教」「儒学」「儒家」の3つすべての名を場面場面で使いわけています。 この呼称の問題については儒教全般の入門書である以下の2書でふれられています。 ・宇野 精一 『儒教思想』講談社(学術文庫) 1984 ・土田 健次郎『儒教入門』東京大学出版会 2011 「儒教」「儒学」については、両書ともに以下のような使い分けをする傾向があるとします。 宗教的側面を強調する場合……「儒教」 学問的側面を強調する場合……「儒学」 本のタイトルで「儒教」を使っているように、一般的な呼称は「儒教」の方になります。 とはいえ、近代以前においては「儒」の一字で指し示すことが多く、富永仲基も『翁の文』において「儒教」「儒学」「儒家」のどれも全く使っていません(「儒道」「仏道」という語はみえます) 「儒教」と「儒学」使い分けは上述の宇野・土田両氏の言うとおりだと思いますが、両氏があまり触れていないが、敬仲個人がよく使う「儒家」を加えて使い分けを考えてみたいと思います。 (「儒教」の言い換えは他にもたくさんあり、魯迅はよく「礼教」を使いますね。近代には「孔子教」と言うこともありました。土田氏は現代中国では「儒学」の呼称をよく使う旨を述べていますが、「儒家」も日本よりも現代中国の書物のほうが使用頻度が高い気がします。) ここで「儒家」の語を用いた場合の例示をしておくと、 「儒教では~」と同義で用いる場合は「儒家の説では~」「儒家思想では~」となります。 敬仲の普段やっている使い分け 具体的には対比するものによって使い分けするのがしっくりくると思います。 仏教・道教・神道・キリスト教等の他宗教と並べた場合……「儒教」 江戸期において「国学」「蘭学」と並べた場合……「儒学」 古代において「道家」「法家」「墨家」と並べた場合……「儒家」 富永仲基の動画においては、基本は仏教・神道と並べますから、「儒教」を使いました。 しかし、仲基当人が学んだ学問としては「儒学」と言い、 仲基の中国思想の考察の際には、墨家や道家と並べますから儒家と言いました。 (まあ儒家は人や学派を指す呼称ですから、「儒教」「儒学」とイコールにするより、「儒学者」の方が意味としては近いかもしれませんね) 董仲舒以前を「儒家」、以後を「儒教」とする見解について メンバーのいのっちさんの「世界史ザックリ解説part3/12」では 漢の武帝の時代に行なわれた董仲舒による儒教の「官学化」について触れられています。 前漢においては、「黄老の術」(道家)が流行したり、法家的な官僚がいて、儒家の勢力は強くありませんでした。しかし董仲舒の献策によって、儒教が王朝の正式な学問と認められたことで、以後の歴代王朝では基本的に、官僚=儒教を学んだ人物となります。 これも「国教化」というべきだとか、実際に儒教一尊となったのはもっと後だとか様々な議論があります。 (董仲舒の研究者である鄧紅氏が諸説を整理しています。) https://kitakyu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=394&item_no=1&page_id=13&block_id=431 その中の一つに、儒家を中心に諸子の思想が統一され、儒教が成立したという説があります。 私は大学の講義においてこの見解を聞き、この立場をとる板野長八氏の著書を読んだものだから、ずっと董仲舒以前を「儒家」とし、以後を「儒教」と区別するのが通説だと誤解していました。 (板野長八『儒教成立史の研究』岩波書店 1995 ) (そのためいのっちさんには大変な迷惑をおかけしました。当初を「儒教の官学化」だったのを、余計な私の指摘で「儒家が官学となり儒教成立」に変更。さらに私がそれが通説でないことに気が付いて「儒教の官学化」に戻していただく、ということがありました。)… Continue reading 【呼び名の違い】”儒教”か? それとも”儒学”か? : ついでに”儒家”も
海鳥腰慰安旅行 ~in 湯田温泉~
皆様お疲れ様です!海鳥です! 先日、私のサークルで旅行に行きました。今回はJR西日本さんの「サイコロきっぷ」を利用しての旅行でした。 「サイコロきっぷ」とは、5000円で新大阪から西日本各地の決められた場所への往復切符が手に入る切符です。今回の目的地には福岡県「博多」、島根県「出雲」、山口県「湯田温泉」、石川県「加賀温泉」の四か所でした。 いざサイコロ! さぁ回すぞ!とのことで 私ともう一人で回し、私が「出雲」。もう一人が「湯田温泉」でした。 温泉好き二人は迷わず湯田へ。まさかの一週間前に決定。金無し二人による限界旅行が始まりました。 旅一日目 集合は新大阪。マジで毎週新幹線乗ってる生活を過ごしているおかげか、集合はすぐでき二人で喫煙所へ。 紫煙を交えつつ近況報告を済ませ、我々はホームへ。 ヤニカスの海鳥の為に指定席は喫煙ルーム目の前に。最高な気遣いである。 新山口到着!! 新山口について時刻は12時過ぎ。新山口で一度改札を降り昼食へ行きました! 私はピザを、連れはステーキを注文し、昼からのお酒で気分は最高!いざ湯田温泉へ! ところが… 車社会山口が我々に牙を向けました。 なんと次の列車は一時間後。新山口周辺で遊べるようなところは見つけることができませんでした… 逆方向!防府へ! 私たちはとりあえず防府へ向かいました! 防府といえば「防府天満宮」! 防府天満宮は「日本最初の天神さま」と言われています。 防府天満宮が祀っているのが菅原道真公 時は平安時代。承和(じょうわ)12年(845年)~延喜(えんぎ)3年(903年)を生きた平安貴族であり学者、漢詩人、政治家だったそうですね。 昌泰4年(901年)、時の権力者藤原氏によって無実の罪を着せられ、九州大宰府へ左遷されることになりました。その2年後、大宰府で薨去されました。 その後、都では天変地異が続き左遷にかかわった人々が次々に亡くなりました。このことから人々は「道真公の怨霊の仕業に違いない」といい、京都で神として祀られたらしいです。今の北野天満宮ですね。 「いや、じゃあここいつできたねん」って話ですけど。道真公が薨去された翌年にできたみたいですね。 道真公は、九州大宰府への西下の途中、時の周防国(山口県)国司である土師氏(道真公と同族)を頼り、本州最後の寄港地となる防府の勝間の浦に到着。 「此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ」(解釈:この港を出発すれば次はいよいよ九州であるが、この防府の地は天皇のいらっしゃる京の都とまだ地続きである。願わくはここ松崎の地に住まいを構え「無実の知らせ」を待っていたい。) と願い九州へ向かったそうです。そしてそれから二年後、道真公が薨去された丁度その日、府勝間の浦に神光が現れ、酒垂山(現・天神山)に瑞雲が棚引き人々を驚かせたそうです。 国司を始め里人たちは道真公の御霊魂が光となり雲となって「此地」に帰ってこられたと悟り、翌年の延喜4年(904)道真公の願われた通り、御霊魂の「居」を「この所」である松崎の地に建立して「松崎の社」と号したのが始まりだそうです。 これで私は「太宰府天満宮」、「北野天満宮」、「防府天満宮」の「日本三大天神」すべてへ訪れることができました! なんだかんだ忙しくて行けなかった初詣ということで、おみくじを引かせていただきました。 おみくじ「恋愛:ちょっと待ちなさい」 いやいやいや、ちょっとまて。そんな直球あんの!?マジで笑いましたわ笑 これ以外は普通で「今年も努力しましょう」って感じだったので頑張りたいと思います! そして我々はホットチョコで体を温め湯田へ… 湯田温泉到着! もうマジで最高でした。 温泉大好き海鳥ちゃんたちは即温泉へ!温まりながらここまで来て一生サークルのことを話し続ける物好き二人。のぼせかけたころ我々はお湯から上がり、居酒屋へ! 鯨や馬刺しなどを食べながら酒を飲み交わし、またサークルの話。 もうめちゃくちゃよかったですね。 これだけで終わるはずもなく二軒目へ… 記憶ないです。 旅二日目 なんだかんだ朝早起きすることができました。速攻朝風呂へ向かい、ホカホカになった後「狐の足あと」へ向かいました。 この悪魔配合を食しました。 プリンもお酒もめちゃくちゃおいしかったですね! 一階には中原中也のコスプレがあったのでパシャリ 帰るわよ 新山口へ戻りまた居酒屋へ… 海鮮居酒屋でしたがめっちゃおいしかったですね~ おわりに 山口でも湯田と防府は初めて訪れたのですが、めちゃくちゃ楽しかったですね。山口はお酒もおいしいしまた行きたいですね!今度は「獺祭」をいただきに行きたいと思います! ではこんな適当なものを読んでいただきありがとうございました!… Continue reading 海鳥腰慰安旅行 ~in 湯田温泉~
戦時中の鉄筋コンクリートについて、お話します。
まず、鉄筋コンクリートとはなんぞや。 明けましておめでとうございます。2023年もよろしくお願いしたりしなかったりしますね。 そんな新年の挨拶もほどほどに、今回の主題である鉄筋コンクリートについてますは話しておきましょうか。 鉄筋コンクリートとは、コンクリートの芯に鉄筋を配することで強度を高めたものを指し、コンクリートは圧縮力に強い反面、引張力には弱く、一度破壊されると強度を失う一方鉄はその逆で、引張強度が高い反面、圧縮によって座屈しやすいが、容易には破断しない粘り強さ(靱性)を持つを両者を組み合わせることで互いの長所・短所を補い合い、強度や耐久性を向上させるものが鉄筋コンクリートであります。 これは現代の鉄筋コンクリート 戦時中の鉄事情 さて、そんな鉄筋コンクリート君ですが、戦時中はどうだったのでしょうか? 戦時中で鉄と言えば、ある程度ミリタリーや近代史を齧っている皆様でしたら、昭和16年に公布された金属類回収令による金属供出によって寺の鐘やら学校や公園やらの銅像が撤去されて溶かされて資源化、軍事転用されたというのは良く知っている事でしょう。 何を隠そう、戦前の日本は鉄鋼産業に問題を抱えていた国でした。 まぁ、仮想敵国である米帝から屑鉄を輸入していた時点である程度は察してください。 鉄鋼産業は、鉄鉱石を製錬して鉄を作る「製鉄」と、鉄鋼製品の元である銑鉄を加工して鋼鉄や特殊鋼を作る「製鋼」に分けられます。 そして、鉄鉱石を製鉄して鉄にするよりも、屑鉄を溶かして鉄にするほうが、ずっと安く鉄を作れます。 戦前の日本は、後者の製鋼はそれなりの水準でしたが、前者の製鉄はイマイチでした。 で、屑鉄を買ってくれば「製鉄」する必要が無かったので、日本は屑鉄需要がとても高かったのです。 実際、日本は鉄鋼は80%程度を自給していましたが、その元となる銑鉄の自給率は60%に届きません。 さらに、日本の製鉄産業は経営が苦しくて技術革新が進まず、その製品である銑鉄の品質もイマイチでした。 そんな中で、船、自動車、鉄道、建築材などで大量のスクラップを出し、比較的品質の良い屑鉄をたくさん出すアメリカからは禁輸、果てには戦争までしようというのです。頭を抱えたくなりますよね。 鉄不足の中での鉄筋コンクリート建築 なので戦時中の日本は鉄不足に悩まされました。それは戦時中に建てられた鉄筋コンクリート建築にも見るとこができます。 例えば、「戦争」で「コンクリートの塊」と言えばまず頭に浮かぶと思われるのが、トーチカ、特火点とか言われる奴ですね。 私は昔、北海道に住んでいたのですが、北海道はその土地の広大さからか、あまり戦争遺構が撤去されずに放置されているパターンが多く見られます。そのため、苫小牧や網走といった米軍の上陸が予想された海岸線には未だにトーチカが多く残っています。 北海道に今も残るトーチカ跡。こういうのが多いのが北海道のいい所である。 その中でも私は厚真町の海岸線にあるトーチカを5年ほど前に見に行き、天井に登ったりしたのですが、崩れた壁面からは一本も鉄骨が出ていない。 少し離れたところにあったトーチカの基礎らしき場所も鉄骨が30センチ間隔で1本ずつ出ているといった状況。完全に鉄不足から鉄筋をケチったり使用しないでこれらを乱造していたという切羽詰まった当時の状況がこういったところからも見て取ることができます。 これだと鉄筋の引張力と粘り強さの恩恵を受けられない訳ですから、強度の落ちたトーチカで米軍の砲爆撃に耐えられるのかとても心配です。 また、去年の夏に南相馬市に行った時……と言っても本来の目的は相馬野馬追と南相馬市博物館に静態保存されているC50形蒸気機関車を見に行くのが目的だったのですけれど。 南相馬市博物館に静態保存されているC50。大正の傑作8620形を再設計したものの、その優秀な点を再設計でほぼほぼ潰してしまった悲しい子である。 この103号機はC50の特徴の一つであった調子の悪い本省細管式給水温め器を取り外してあるようだ。 その南相馬市博物館には戦時中に製造されたコンクリート柱の断面があり、それには鉄筋の代わりに竹が骨組みとして使われていたのです。鉄筋ならぬ竹筋コンクリートです。竹のしなやかさを鉄筋の代用としようとしたのでしょうがそれでも強度は落ちているであろう事と、腐食に弱い事は想像に難くありません。 これが博物館内と、静態保存されているC50の隣に腰掛けとして置いてあるのです。 「こんな貴重なものを腰掛けにするだなんて……なんて贅沢なことをしているんだ」と思いながら腰掛けてきました。 いい歴史成分の摂取になりました。 C50の隣に腰掛けとして設置されている竹筋コンクリート。環状に空いた穴の部分に竹が通っている。 鉄道レールと鉄筋コンクリート建築 さて、交通面では同じく昭和16に、不要不急線と指定された鉄道は線路がはがされ、レール等の金属が軍事転用されました(札沼線や白棚線など) 鉄道レールは不要不急線から引っぺがされた後は、もちろん溶かされたものもあったでしょうが、レールは入ってしまえばまっすぐな棒。なので鉄筋コンクリートの鉄筋として建材に流用されたものもありました。 例えば、厚真町にある共和トーチカでは崩れたコンクリート壁面からレールが見えるところがあり、レールをそのまま建材として流用したのが分かります。 このように戦時中の日本は深刻な鉄不足に悩まされながら、あるものを節約したり流用したりして、今の建築基準ではお粗末と言わざるをえない鉄筋コンクリート建築をして祖国防衛をしようと奮闘していたのです。
『花神』はいいぞ。(おすすめ大河ドラマ紹介 第2回)
※今回は、とある大河ドラマ紹介文です。 ネタバレ注意! こんにちは、いのっちです! 年末の忙しい時期にも関わらず、私のブログを読みに来てくださって本当にありがとうございます! 「世界史べーた(仮)」開設からもうすぐ1年が経ちます。 先日はVtuber様との出張コラボ生放送が実現するなど、活動の幅が益々広がってきて非常に嬉しい限りです♪ 今日は私が歴史好きになった理由の一つ「大河ドラマ」の御紹介をさせて頂きたいと思います(季節感なし!)。 今回御紹介させて頂くのは、幕末の長州を描いた作品『花神』(1977年[昭和52]放送)を御紹介します! (例によってリアルタイムで視聴していたわけではなく、総集編を観たことがあるだけですが💦) 本作は司馬遼太郎さんの小説『花神』を中心に、『世に住む日々』『十一番目の志士』『峠』などの小説を組み合わせた物語が原作になった作品です。 主人公は原作と同じく日本近代軍制の創始者である「大村益次郎(村田蔵六)(演:中村梅之助さん)」です。ただし、本作は長州藩を中心とする群像劇なので、「吉田松陰(演:篠田三郎さん)」や「高杉晋作(演:中村雅俊さん)」など松下村塾周辺の人々についても大きく取り上げています。 ドラマの中でも、変革の時代は三種類の人間によって成されると紹介されていました(思想家:吉田松陰、戦略家:高杉晋作、技術者:村田蔵六[大村益次郎])。 因みにタイトルの「花神」ですが、「花咲か爺さん」という意味だそうです。幕末という短くも激動の時代に命を燃やして一花咲かせた人々を描いた本作に相応しいタイトルだと思います♪ 長州の村医者出身の村田蔵六が蘭学修行の為、大阪にある緒方洪庵の「適塾」(同窓には福沢諭吉・橋本左内などがいる)の門を叩くところから本作は始まります。 好学家で優秀だった蔵六ですが、特段野心があるというわけではなかったので、平穏な時代であれば故郷の町医者として一生を終えていたはずでした。しかし時代がそれを許しません。蔵六は技術者、そして軍人として故郷長州の動乱に巻き込まれていきます。 あと開明的で合理的な学者肌の印象が強い蔵六ですが、本作では少し違う一面を垣間見ることが出来るシーンもあります。 恩師・緒方洪庵の弔問の席において、蔵六は福沢諭吉に「なんで(蘭学を学んだあんたが、無謀な攘夷を主導している)長州なんかにいるんだ?」と問われす。 それに対して蔵六は憤然として答えます。 「攘夷の何が悪い!福沢のように物分かりのいい奴ばかりでは日本は滅びる。確かに俺たちは蘭学を学んだがそれがどうした。小さい国の癖に横柄な面をしている奴を討ち払うのは当たり前だ!(要約)」 ただの冷静な合理主義者ではない村田蔵六の熱い内面がほとばしる名シーンだと思います。(実際に『福翁列伝』に似たようなエピソードがあるとか) 他にも魅力的な人物はたくさん登場しますが、個人的なお気に入りはやっぱり「高杉晋作」ですね。 どこまでが史実なのかは存じ上げませんが、本作では高杉の破天荒エピソードがこれでもかというくらい採用されています。 例えば… ・将軍の行列にやじを飛ばす。 ・突然出家する。 ・講和会議の席で古事記を暗唱して相手の要求を有耶無耶にする。 などなど(これでもごく一部です) しかし、「強質清識凡倫に卓越す(吉田松陰)」「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し(伊藤博文)」と称された高杉晋作。 勿論ただの問題児というわけではなく、「維新回天の原動力」として要所要所で大活躍していきます! 個人的に一番好きなエピソードでは「功山寺挙兵」ですね。 京都での戦い(禁門の変)に敗れたうえに、列強の連合艦隊にも完膚なきまでに叩きのめされ、窮地に立たされた長州藩。藩の上層部は幕府への恭順を決定、隊の存続を優先する奇兵隊の同志たちもその方針に理解を示そうとします… Continue reading 『花神』はいいぞ。(おすすめ大河ドラマ紹介 第2回)
紫電改part1 参考資料兼一部詳しく
紫電改part1参考資料兼一部詳しく 今回は紫電改解説動画part1の参考資料や動画ではマニアックすぎた内容の一部をご紹介します。 参考資料 ・碇義朗「最後の戦闘機 紫電改 起死回生に賭けた男たちの戦い」光人社 ・野原茂「海軍局地戦闘機」潮書房光人新社 ・海鳥の今までの取材内容一部 非公開の内容 紫電改の改造前機「紫電」では元になった十五試水戦(強風)から多くの変更点がありました。こちらは動画でご紹介しました、発動機、カウリング形状、側面形、垂直尾翼周辺など多くの変更点がありましたが動画で紹介していないものでは、「水銀式センサー自動空戦フラップ」、「操舵比変更装置」はさらに改良を重ねたものを搭載していました。 水銀式センサー自動空戦フラップ 水銀式センサー自動空戦フラップとは、フラップを空戦時に下ろし揚力を高め、旋回半径を小さくする、すなわち運動性能を向上させる空戦機動を”自動的に”最適の舵角をとれるようにしたものです。 作動のメカニズムは、発信機と称した、センサーの下部にある水銀槽の中の水銀が、ピトー管から入る静圧、動圧、および、旋回時の機体にかかる重力によって、上方に伸びる硝子筒の中を上下動します。 この上下動により硝子筒内の二つの電極に水銀が触れると電流が流れ、フラップが作動するメカニズムになっていました。 ちなみに、フラップの最大下げ角は30度となっており、零戦の60度に比べると半分ほどしかありません。 この自動空戦フラップに加え、川西技術陣が、操縦系統に採り入れたメカニズムがもう一つの技術「操舵比変更装置」です。 操舵比変更装置 通常、航空機は高速になるにつれ、各動翼の受ける風圧も強くなり、操作が重く、強い力が必要となります。速度が上がれば舵の動きが少しでもよく効くようになります。 逆に低速飛行時は、舵の受ける風圧が弱いと、操作が軽く、強い力を必要としなくなります。しかし、舵を大きく動かさなければ舵は効きません。 零戦の場合、各操縦索を通常よりあえて細めにし、剛性を低下、つまり伸びやすくし、一定の操縦感覚にしていました。 これを零戦より1tも重い紫電、紫電改で採用するのは不遇であったので、川西航空機は「操舵比変更装置」を作りました。 これは、操縦桿、および方向舵踏棒と昇降舵、方向舵操作索の間に、油圧で連動桿の固定位置を移動できる操舵比変更部を組み込み、フラップの動きに連動し、離着陸時(低速)、飛行時(高速)の二段階に切り替わるようにしたメカニズムです。 これにより、低速飛行時は操縦桿。方向舵踏棒を少し動かすだけで大きな舵角がとれ、高速飛行時はその逆になる、まさにパイロットにとって理想的な操舵感覚が得られました。 実はこれらの「自動空戦フラップ」、「操舵比変更装置」は当時の欧米各国に例がなく日本航空技術として十分誇れるものでした。すごいね 武装 強風 7.7mm機銃二梃 20mm機銃二梃 紫電、紫電改 20mm機銃四艇 上記のように20mm機銃四艇に武装が強化されていました。 まとめ 紫電改part2は紫電→紫電改まで行ければいいなって思ってます。頑張ります。 今週土曜日は神戸に撮影に出かけ「神戸戦跡巡り動画」を作ります。こちらはリアル映像なので私のチャンネル「海鳥のカフエラテ(カフェラテ)」で投稿します。こちらのチャンネルでは毎週土曜日21時から競馬予想配信してるので是非~ 紫電改part1もぜひご覧ください!