AIは仕事を奪ってくれない、という話

chat gptはマジですごい  お久しぶりです。※(米印)です。  今回はちょっと軽めでお送りします。もともとはもうちょっとちゃんとしたブログを書く予定だったのですが……まぁその、だいたい花粉が悪い。  あれなんなんですかね。仕事してる間はまったく気にならないのに、娑婆に出た瞬間に悶絶する羽目になる。そのことを友人に話したら、「会社は換気がちゃんとしてるからでは?」とのこと。明日から24時間会社で過ごそうと決めました。  ……なんて話はさておき。今日は最近あちこちで話題沸騰、千客万来、会社人口、じゃねえ、膾炙人口、のAIについてちょこっと触れようかと思います。  実際すごいんですよ、最近のAIは。たとえば、私はプログラミングがあんまり得意じゃなかったんですけれども、AIちゃんのおかげで効率が爆上がりしました。  ……いやまぁ、「○○のコード書いて!」って聞いた結果を丸写しして、怒られたらエラーメッセージをまた丸コピして「chat gptえもうん、また[任意の言語]に怒られたよお」と泣きつくだけなんですが。  これがかなーりすごいんです。なんなら、コメントとかもちゃんと書いてくれますんで、過去の自分が書いたコードよりも数億倍意図がわかりやすい。  それでも、けっこうちゃんとプログラミングとかやってる友人に言わせると、「それはもう昨年には通り過ぎたんだが」とのことで、私はたぶん相当周回遅れらしく。こんぴーたーの時代はすさまじい速度だなぁ、と思うなど。  とはいえ、そういうすさまじい変化を後々から見て、「いやぁ、こんなの当然のことで」と偉そうにご高説を垂れることこそ経済学の本領です。今回もそれに倣おうじゃありませんか。  やってみせろよ、ピケティ! なんとでもなるはずだ! ダルトンだと!?(ピグー・ダルトン条件)  あっはい、まじめにやります…… えっ、上司のお世話をかわってくれるんですか?  ○○年後には××%の仕事が奪われる! みたいなニュースを目にしたことがある方は、かなり多いんじゃないでしょうか。  安心してください、それは事実です。  「いま」私やあなたが行っているお仕事は、多くの場合、AIやロボット、あるいはほかの何かによって、置き換えられることでしょう。  なんとなれば、このブログさえ、私の文章を大量に学習させたAIや何かを作ってしまえば、容易に用意(ここ激ウマギャグ)できてしまうものです。 あ、一応言っておくと、私はこのブログはAIやらを使わずに書いていますよ。自分の手で「激ウマギャグ」とか打ち込んでいるわけです。悲しくなってきたな。やっぱ今からでもAI使ってたってことにならんか?  話を戻して、AIの話です。もちろん、今のAIはいっくらすごいすごいと言っても、だいたいは「入社1日目の大型新人」みたいなものです。贔屓目に見ても、「今日きたばっかりの有名コンサル」あたり。  とにかく、「その会社」やら「その状況」で何が求められているのか、ということをまったく理解してくれません。AIとやらは、ネ申エクセルの使いかたも学ばなければ、上司の不機嫌のサインを発見することもできないのです。だから、今はまだ私たちも、満員電車に揺られてはブルシット・ジョブにいそしみ、上司にぺこぺこしてお賃金を貰えているわけです。  しかし、たとえばAIにも「社員教育」ができるようになったらどうでしょう。ちょうど新入社員にやるのと同じように。  そうしたら、もはや人間とAIの間に、違いはほとんどなくなってしまいます。どころか、ほとんどの領域では、AIの方がうまくやるかもしれません。彼らは、パソコン入力にキーボードとマウスなんて前時代的な遺物は不要です。他人と話すよりも、アレクサと話す方がストレスは溜まらない、という人も少なくないでしょう。  とにかく、大事なのは、私やあなたのやることは、将来的にはAIにもできる可能性が高いということです。経済学者らしい、小難しく嫌味ったらしい言い方をすれば、AIは人間と代替的な関係になり得るのです。  これを経済学的に理解すれば、人間とAIが同じ市場(労働市場)で競争する羽目になる、ということになります。  であれば、問題は労働の「価格」――賃金です。  もしもまったく同じ商品、たとえば明治のヨーグルトとしましょう。これが右の棚では150円。左の棚では100円で売っていたら、誰だって左の棚のヨーグルトを手に取ります。  もちろん、世の中にはヨーグルトにお金を払うことに快感を覚える人もいるかもしれませんが、それは相当な少数派です。せいぜいは、やたらめったら疑り深い人が、「何か違うものがあるんじゃないか」と右の棚からも1つ買うかどうか、というくらいでしょう。  労働についても、同じことが言えます。企業は、もしもまったく同じ人が2人いたら、少しでも安い給料で雇える方を選びます。  それが、「まったく同じ人」でなくて、「まったく同じAI」でも、「まったく同じ(仕事ができる)人間とAI」でも、結論は変わりません。  つまり、あなたの仕事を、あなたが今貰っている賃金よりも安く行うことができるAIが生まれたら、あなたの仕事はAIに奪われるのです。  そして、その可能性は決して低くはありません。なにせ、chat gptは1か月あたり20ドル(3000円程度)なのですから。 ろうどうからは にげられない!  では、仕事を奪われたら、どうなるのでしょうか?  「ひょっとしたら、働かなくてよくなるんじゃないか?」とか、期待しましたか?  しかし まわりこまれてしまった!  残念ながら、そうは問屋が卸しません。その理由は、やはり賃金です。  たとえば、神の舌を持つAIがあらわれて、ヨーグルトソムリエ100人全員が職を奪われたとしましょう。  そうしたら、今度は職にあぶれた人間が100人世の中に増えるわけです。(いったん、失業保険などの社会保障を無視すれば)彼らは、そのままではご飯を食べていくこともできませんから、それまでよりもずっと安い賃金でも働きたがることになります。  そうすると、「もう少し安い給料でなら、追加で雇ってもいいかな」と思っていたヨーグルト工場が手をあげるわけです。「うちにおいでよ!」と。  こうして、元ヨーグルトソムリエはヨーグルト工場員として再就職を果たすわけです。もちろん、どんな産業でも、同じことが起きます。  ヨーグルト工場がロボットを導入して人間が要らなくなったら、今度はまた別の仕事を探します。これの繰り返しです。そのうち、またヨーグルトソムリエに就くことになるかもしれません。  だから、あなたも私も、今の仕事をAIが奪ってくれたとしても、次の仕事を探して働き続けることになるのです。  安心してください、仕事はいくらでもあります。私たちの欲望は底なしで、AIがどんなに多くを作っても、さらに多くを求めます。新しい仕事がいくらでも生まれます(記憶に新しいところでは、ウーバーイーツなんかがそうですね)。  最低限度の生活でなくて、「便利な世の中」とやらで暮らし続けたいのであれば(というか、そう思っているからこそ、あなたは今日も職場に足を運んだのでしょう)、そうした仕事たちから、少しでも自分にとってマシな働き口を探して、ずっと働き続けなければならないのです。  知らなかったのか……? 労働からは、逃げられない…………!! とはいえ、暗い話ばかりでもなくて  ところで、AIに仕事を奪われる、というと、なんだかとても嫌なことに感じるかもしれません。  しかし、よくよく考えてみると、そうなったとしてもどうせ働き続けるのですから、昨今の皆さんが励んでいる転職とたいして変わらないのです。  むしろ、AIが急速に進歩して、私たちの仕事を次々に奪っていく時代は、私たちにとって定期的に転職の機会、つまり、より自分に合った仕事へと移る機会が与えられるということでもあるかもしれません。  何も、元ヨーグルトソムリエが全員ヨーグルト工場に勤める必要はないのです。その舌を活かして別のソムリエになったり、あるいは料理人になったり、それともまったく別の仕事をはじめたり。選択肢は山ほどあります。  彼らが最初にヨーグルトソムリエになったのは、たとえば大学の卒業直後で、自分の適性を何も知らない状態で就いたものだったかもしれません。そうしたら、転職するタイミングでは、ヨーグルトソムリエとしてのキャリアを積む中で、自分のことをもっと深く理解できていることでしょう。  その上で、星の数ほどある仕事から、いちばん自分にあっている(と思う)ものを選ぶわけですから、「私にはヨーグルトソムリエしかなかったんだ!」という六花みたいな例外を除けば、だいたいはそう悪くない結果になるはずです。… Continue reading AIは仕事を奪ってくれない、という話

ウィリアム1世は正しかったのか

イングランド史を学ぶととりあえず大きなターニングポイントとしてノルマン征服を習うと思います。その実行者であるウィリアム1世は武力で王位をもぎ取り、武力で住民を従わせ、戦争の最中に亡くなった、まさにヴァイキングの末裔、天国ではなくヴァルハラが似合う王だったことでしょう。 現代の価値観からすればとんでもない乱暴者とさえ思われるウィリアム1世ですが、そう決めつけてしまうのは全く想像力に乏しく、我々はなぜ彼がその圧倒的パワーを持ちえたのかを考察しなければなりません。多くの地域を支配した歴史を持つイングランドの歴史教育では、この点で執拗に問いを立ててきます。少なくとも私が持っているコリンズのKeyStage3段階の教科書では執拗です。この段階は11-14歳を対象にしたものですが、学習の目標は説明ができるようになることで、例えば「王はなぜ力と対話を用いる必要があったのか」と言う話題について話すことができる、といったものです。少年時代から支配とは何かを学ぶわけですね。 ウィリアム1世がなぜ王位を狙ったのかは聞くまでもないでしょう。私たちが際限なく価値を追求するように、中世の王たちも際限なく価値ある土地を追求します。むしろ狙える土地があるのに狙わなかったことの方が疑問とされるべきことです。戦争を起こしたら犠牲者たちへの説明はどうなるかなど考えません。むしろウィリアム1世はそれによく配慮した側です。彼は教皇から直々に支持を得た聖なる軍を率いたのです。この戦いで死ぬことはキリストのためになり、倒れた相手は不信心者なのです。それに加えて、後継者亡くして死んだ王の親戚かつ友人であり、後継者指名を受けていた(と言う主張)のであり、中世ではウィリアム1世のイングランド王位請求は悪いことなど一つもないでしょう。 神のご加護(彗星の出現、ドーヴァー海峡の天候変化のタイミング、先に競争相手が別で戦う羽目になったことなど、様々な幸運はそう呼ぶほかないぐらいです)で土地を得ましたが、問題はその土地をどう維持するかです。なんと当時のイングランド人500,000人程度に対してウィリアム1世の同胞ノルマン人は10,000人程度、1人で50人の異民族を支配しなければならなかったのです。50人の外国人が働く工場をあなた一人が任されて、彼らに仕事を最大限させるにはどうすればいいのでしょう。機嫌を取ればなめられるだけで相手は要求をエスカレートさせるでしょうし、いつの間にかあなたが彼らの下僕となります。かといって苛烈に扱えば、あなたは工具を片手にした50人から報復を受けるでしょう。ノルマン人は自身の安全を確保するためにまず城を作りました。当時イングランドにはノルマン人が「城」と呼ぶような城はありませんでした(アングロ=サクソン人からしたら城と呼べるものはあったかもしれませんが)。ノルマン人のモット・アンド・ベイリー方式の城郭は当時としては防御が固く、不意打ちを受けないよう住民からは離れて建てられました。こうした恐怖によってウィリアム1世はがちがちに構えてイングランドを支配しました。 優しくスマートに統治するのが理想でしょうが、時には恐怖に頼らざるを得ないこともあるものですというお話です。ウィリアム1世はそのせいか、あまり評判がいい王様ではなく、どちらかといえば侵略者として記憶されていると思います。

フォンスティ音楽教室③ 小澤征爾様について超ざっくり

おひさしぶりでっす。フォンスティーヴ(タコP)です。 大分間が空いてしまいましたね……。 さて、早速前回の続き……と行きたいところなのですが、これを書こうとしたちょうどその時、私の元に衝撃的なニュースが飛び込んできました。あの日本が誇る大指揮者、「小澤征爾」様がご逝去されてしまったと……。 ということで久々の執筆なのですが、少々話題を急カーブさせ、今回は先日お亡くなりになった小澤征爾さんについてお話ししようと思います。 ※この記事には独断と偏見、主観的意見が多分に含まれます。ご了承ください。 先日の小澤征爾様の訃報はネットニュースやメディアでデカデカと掲載されたので目に入った方は多いと思いますが、その中ではそもそも小澤征爾様が何者なのかご存知ない方もいらっしゃったと思います。 小澤征爾(以下敬称略)自体、主に20世紀に活躍された方で、近年では癌の影響であまり表舞台に姿を現していなかったので、おそらく昨今の10代20代の方々は特に知らない方が多いと思います。 小澤征爾は1935年に誕生した日本の指揮者で、おそらく近代日本音楽史の中で最も偉大な人物のうちの1人です。 彼はその生涯で日本人としての様々な偉業を成し遂げていますが、その中で特に偉大なものはやはりニューイヤー・コンサートの指揮でしょう。 クラシック音楽の本場であるオーストリア、ウィーンでは毎年元旦に「ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート」と評してコンサートが開かれています。 元旦の「ニューイヤー・コンサート」という名目ではウィーンだけでなくヨーロッパ各地、それこそ日本でも行われていますが、その中でもウィーンフィルニューイヤーコンサートだけは別格で、その場に指揮者として呼ばれるということはクラシック界の中では最高峰の名誉として扱われます。 そして、今までの歴史上そのコンサートに呼ばれた日本人は1人しかおらず、その人こそが「小澤征爾」なのです。 また、それと同じように数十年にも及ぶ長い伝統を誇るフランスのブザンソン国際指揮者コンクールでも日本人として初めて優勝。またドイツやアメリカなど、世界の様々な機関から勲章やメダルを授与されています。現代でも世界で活躍する日本人指揮者は多くいますが、これほどの功績を持った日本人は未だに現れていません。   また、ナチス政権のドイツを生き抜き、20世紀最高の指揮者とも名高い「ヘルベルト・フォン・カラヤン」、同時期のアメリカに生まれ20世紀のクラシック業界の最先端を走り常にリードしてきた「レナート・バーンスタイン」といった偉大な指揮者たちとも親交が深かったことも理由の一つに数えられます。   昭和当時の日本の音楽文化を西洋と対等まで押し上げた立役者の1人だと、筆者は考えます。   小澤征爾様、約半世紀、ありがとうございました。   それではみなさま、ご拝読ありがとうございました。

ホームページの更新が面倒だった

はじめに  最近は、DKIMやらDMRACを設定していないメールの存在価値がなくなりつつあります。このブログサイトことWordPressから送られてくるメールについても例外ではなく、なんなら結構前からメールが届かない状態でした。それでも、新しいメンバーが増えたときや、メンバーがパスワードを忘れたとき以外はメール機能を全く使用しないので、そこまで問題はありませんでした。  けれども、影響がないからと言って放置しておくのも問題と考えたため、メールの問題は外部のメールサーバーに転送してもらうことで解決を図りました。まあ、今回の本題はメールではないのですが。     FTPってめんどう  私がこのサイトの運用を担当することになってから、そろそろ1年になると思います。精力的に運用に取り組んでいたかと言われれば全くそうではなく、強いて言えば「革命祭」のページを追加したくらいです。  ページを更新するときはどのような作業を行うのか、簡単に説明します。   1 ダウンロード済みのページソースを編集する 2 ローカルで仮想環境を立ち上げ、動作を確認する 3 サーバーの管理画面からFTPでアクセスできるようにする 4 FTPソフトを立ち上げて、サーバーに接続する 5 該当のページが格納されているフォルダまで移動し、アップロードする 6 本番環境で動作を確認する    そんなに難しくなさそうと思った方もいるかもしれません。私も最初の方は面倒ではありませんでした。しかし、最近になって急にこの開発フローが面倒に感じるようになってしまったのです。一番面倒なのは、サーバーのパスワードをパスワードマネージャーからいちいちコピーしてこないといけないことでしょうか。  私は断片的かつ曖昧な知識で突っ走る人間です。しーあいしーでー(CI/CD)とか、えすえすえいち(SSH)とか、どこかで聞き齧った言葉を引っ提げて、どうにかならないか考えることにしました。ただ、借りてるサーバーのプランによると、SSHでの接続はできないようでした。最初にローカル開発環境を作ったときに、データベースの中身を引っこ抜くのですら、すさまじく面倒だった記憶がよみがえりました。ところどころでVPSよりAWSやGCPが便利なことがわかる気がします。でも、スケーラビリティと使いやすさを犠牲にしても、グループで運用する場合は定額課金であるメリットはめちゃくちゃ大きいです。     git-ftp が良さそう  最初は、GitHubのメインブランチにマージされたコードが自動でアップロードされてくれないかなと考えていましたが、色々と難しそうだったので、「git-ftp」というソフトを使用することにしました。設定方法などは下記を参照ください。   『【Git】git-ftpを使ってFTPアップロード』 https://qiita.com/narcolepcy_/items/621986bfe0c2183781a1 (閲覧日:2024年1月16日)    おそらく、すべてをgitで管理させると不都合が起こるので、トップページやメンバーページのソースコードが置いてあるフォルダのみを管理することしました。あとは、gitignoreを使って面倒そうなものを弾いてよしです。     どのように便利になるのか  これの便利なところは、動作確認後は 「git ftp push」 のコマンドで自動的に差分をアップロードしてくれるところです。なので、ローカルでの動作確認からアップロードまでの面倒さがかなり少なくなります。上記の手順だと、4と5を一つのコマンドでやってくれています。  

共通テスト(世界史)を解いてみた 2024

どうも、いのっちです!    今更ですが、新年明けましておめでとうございます!✨ そして、年末年始に開催した動画投稿祭「革命祭」の応援、本当にありがとうございました♪      多くの動画投稿者様に御参加いただき、ニコニコ動画をはじめ多くの方々にもサポートをいただき、何より多くの視聴者の方々に動画を御視聴いただけたということで、べーた一同大感激✨です。   重ね重ね、本当にありがとうございました! (また似たような企画をやれたらいいなあ)   近いうちに「まとめ動画」や「生放送」という形で振り返りをさせて頂きますので、またご覧いただけると幸いです♪   あと私事ですがまだ投稿できていない後編も頑張って作成します…💦 (年末年始は体調を崩していたので勘弁してください)      さて、「世界史べーた(仮)」お祭り開催中にチャンネル登録者が2000人を超え、チャンネル開設2周年を無事に迎えることが出来ました。   そんなめでたい年始に行われるといえば「共通テスト」! 私の頃は「センター試験」と呼ばれてましたが(懐かしいなあ)   高校時代、世界史をほとんど履修出来なかった私ですが、去年までに世界史通史動画を半分(全12本予定の内6本)投稿したわけですし、 今なら半分以上解けるはずだ(皮算用)!     ということで、早速「世界史B」に挑戦してみました! 結果は…               88点!(ドドン) おお、意外と解けているではないか(33問中4問不正解) 「オットー大帝」や「ノルマン・コンクェスト」など前回の動画で触れた人物や事件が出ているのも嬉しかった♪  知識が無かったとしても、しっかり文章を読めば考察できる問題が増えている印象でした。(完全なグラフ読解問題とかもありましたし)   しかし、やはり近現代が苦手…💦 それに読解で正解したような問題も知識でスパスパ答えられるようになりたい…! ということで後半の世界史動画もコツコツと制作していきたいと思います♪   そして、いつかは「世界史検定」を受けてみたい! そんな目標を語りつつ、今回のブログはここまでにしたいと思います。     本年も「世界史べーた(仮)」をよろしくお願い致します!!

『葵徳川三代』はいいぞ。(おすすめ大河ドラマ紹介 第5回)

※とある大河ドラマの紹介文です。ネタバレ注意!   こんにちは、いのっちです! お久しぶりです! 何だかんだで2023年も終わりが見えてきましたね。 登録者数も1900人を超え、年末年始には投稿祭「革命祭」を開催と益々勢い盛んな「世界史べーた(仮)」をどうぞこれからもよろしくお願い致します!    さて、今回も好きな「大河ドラマ」の御紹介をさせて頂きたいと思います(今回で5回目)。   過去ブログはこちら  ⇒ 第1回「草燃える」 第2回「花神」    第3回「翔ぶが如く」 第4回「毛利元就」   今回は、現在放送中の「どうする家康」に因んで、「徳川家康(演:津川雅彦さん)」とその子の「徳川秀忠(演:西田敏行さん)」、そして孫の「徳川家光(演:尾上辰之助 [現・4代目尾上松緑]さん)」の親子三代が主人公を務める作品『葵徳川三代』(2000年[平成12]放送)を御紹介します!   余談ながら、筆者が初めてリアルタイムで観た大河ドラマです (世代がバレちゃう💦)   太閤・豊臣秀吉の死から始まり、「関ケ原の戦い」「大坂の陣」などの戦乱を経て「江戸幕府」が盤石になっていく時代(約40年間)を描いた作品です。よって前半は華々しい合戦シーンがある一方で、後半は幕府や朝廷を舞台にした政治劇が中心となります。   主役の津川さんや西田さんたちをはじめ、多くのベテラン俳優がキャスティングされていることでも有名ですね(当時は「老人大河」と揶揄されたとか💦)     本作の見所は何といっても映画並み(億単位)の予算を投じて撮影された「関ケ原の戦い」でしょうね♪(「どうする家康」ももうすぐ関ケ原だ!) 現在でも他の大河作品や歴史番組にも流用されている迫力満点の合戦シーンはまさにNHKの本気といった感じです。   九州出身の私としては、やはり「島津の退き口」のシーンはワクワクしますね♪ (史実なのかは存じ上げませんが)     あと、語り部が有名な「徳川光圀(水戸黄門)(演:中村梅雀)」というのも面白いですよね♪ (「今宵も、お馴染みの顔でござる」のフレーズは癖になる)   歴史の研究者である彼が、祖父(家康)や伯父(秀忠)の業績を視聴者に紹介していくというのが本作品の基本的な構成になっています。   知名度が高いだけではなく、学問に精通しており、何より家康たちの時代から離れすぎていない彼が語り部に選ばれたことはまさに適材適所といえるでしょう。 (物語の終盤では彼自身が誕生するエピソードが描かれています。)     まあ、本作の光圀は「サッカー」や「ホームラン」「スキャンダル」「プライバシー」など外来語をここぞとばかりに多様する一方で、「関ケ原の合戦の前哨戦」や「父親(徳川頼房[水戸藩の祖])の誕生シーン」に自ら顔を出すなど時空を超えて縦横無尽に駆け回るコメディ担当なんですがね(笑)   これは本編がガチガチの「武家ことば」や「公家ことば」で固められているため、歴史に詳しくない視聴者が置いてけぼりにならないよう配慮したからだそうです。 温度差が凄い。   因みにまたまた余談、光圀の側にはこれまた有名な「助さん・角さん」のモデルとなる二人が控えているのですが、彼らは「女性」が演じています。天下泰平の時代が続いた結果、武士たちも華奢になった事とを表現するためだとか。 温度差が凄い。     さて本編に話を戻しますが、今作の中心人物(というか実質的な主人公)といえばやはり何といっても「二代将軍・徳川秀忠」でしょう。   本作は、説明不要の有名人である父親の徳川家康に比べると影が薄い彼の成長物語と言えます。   実際、ドラマ序盤ではどこか頼りなく迂闊さが目立った青二才といった感じでしたが、父や家臣たちの薫陶を受けながら徐々に身内や重臣、朝廷や大名にも一切容赦しない強かな天下人へと変貌を遂げていきます。(家族想いの面では一貫していましたが)… Continue reading 『葵徳川三代』はいいぞ。(おすすめ大河ドラマ紹介 第5回)

アフリカ史のすゝめ

アフリカ史の魅力  はいはーいアフリカ推しのまりさです。  突然ですがアフリカ史というと皆さんは何が思い浮かびますか?  そもそもアフリカ史とは歴史書においてちら裏にしか載らず、試験やテストにも出てこず、知ろうと思ったり、知る機会がなかったりするため、自発的に興味を持つことは難しいと思います。  そこで今回はアフリカ推しの私がアフリカ史の魅力をご紹介させていただこうと思います。 各地に存在していた交易国家  アフリカというとサバンナにジャングル。閉鎖的な場所で、ヨーロッパ人が足を踏み入れるまで外部との接触がなかった遅れた地域…そんな風に思われがちです。  しかしそれはいわゆる偏見であり、例えばインド洋交易の要衝となっていたアフリカ東部のザンジバル島を中心とした商業都市連合「キルワ王国」や西アフリカと北アフリカの中間貿易で栄えたサヘルの王国、マリ王国やソンガイ王国。ザンベジ・リンポポ川に跨る鉄器農業社会の早期形成や金の加工品輸出で栄えた「グレートジンバブエ」といった国々が存在していました。  彼らは元々この広大なアフリカの地で多種多様な文化を形成。  閉鎖的なアフリカというのはまさにヨーロッパ的な見かたであり、ヨーロッパ人到来以前から外部との交渉はすでに行われており、いうなれば開放的なアフリカがそこにあったのです。 ヨーロッパという仇敵  ヨーロッパ諸国というのはアフリカ史を話すにおいて切っても切れない関係です。  16世紀から始まった大西洋奴隷交易において、アフリカは南北アメリカ大陸への奴隷供給地としての役割を担わされ、働き手と兵士を失い、さらには大量の加工品の輸出攻勢を受け現地の製造業が壊滅。19世紀に イギリスが奴隷貿易を禁止にするまでの間、奴隷貿易はアフリカに深い傷跡を残しました。  また1878年にドイツ・ベルリンで行われたベルリン会議にてヨーロッパ列強によりアフリカ大陸は分割・植民地統治を受けることになります。  ヨーロッパとアフリカとは搾取する側と搾取される側であり、幾度となく対立してきたのです。  そんなアフリカ諸国が独立するまでの過程というのは、西欧諸国という”敵”との戦いであり、ある種の我慢比べでもありました。  最終的に1960年以降多くのアフリカ諸国が独立を達成するわけですが、この独立までの過程というのもまた面白い。  独立運動家らは国や地域も関係なく、全員横の繋がりを持ち、独立したアフリカを目指し、全員で独立を達成しようと連携していたのです。 独立の光と影  独立を達成することが出来たアフリカ諸国のその後というのは苦悩と絶望の連続でした。  多くのアフリカ諸国が独立した1960年の翌年には、同じく独立を果たしていた現在のコンゴ民主共和国(昔だとザイールとも)にて分離独立を掲げるカタンガ国が反乱。さらにはソ連に接近した中央集権派の首相 パトリス・ルムンバとアメリカ寄りの大統領ジョゼフ・カサブブとの対立をも生み、コンゴは混乱に陥っていきます。  またアフリカ諸国はどちらを支持するかと2つの派閥に分裂してしまったのです。  さらに苦難は続きます。  政治的に独立できたアフリカ諸国ですが、それは必ずしも経済的自立を伴うわけではありません。  独立時のアフリカ諸国の経済構造は、植民地期から継承した植民地経済でした。そのためこれはヨーロッパ人が生産・流通に大きく踏み込んでいた経済体系であり、イギリスやフランスといった宗主国の経済に必要な原材料を調達し、また廉価な工業製品を輸出しうる市場を確保するための搾取の経済構造です。  この結果アフリカ諸国は経済開発の財源確保のために、植民地時代に開発された少数の輸出産品の輸出を増大して外貨を獲得せねばならず、植民地期からの経済構造から脱出するために植民地経済に依存するという矛盾を抱えることになりました。  また多くのアフリカ諸国の基幹産業は農業であるにもかかわらず、食料自給が困難。というのも食糧作物の開発が植民地期になおざりにされ、コーヒーやカカオといった輸出用換金作物の生産が食糧生産を圧迫していたのです。  本来自国で供給可能なはずの食料を輸入すれば、その分、他産業の開発に振り向けるべき外貨が減少することになるのです。  こういった不利な状況が宗主国により押し付けられたことにより、皆さんも知るようなアフリカ諸国の低開発化を招くことになってしまったのです。  そんなわけで今回はここまで、また機会があればお会いしましょう。ばいばいヨーロッパ~

超ゆるいフランス旅行記

パリに行ってきました   皆様いかがお過ごしでしょうか?現在10月25日21時49分、私は今、夕食後の満腹感を味わいながらこのブログを書いています。実は、私は9月の下旬にフランスの首都、パリへ行ってまいりました。今回は旅の中で書いた手記を紹介したいと思います。元大関、鳴門親方のブログを見るような感覚でお読みください。     日記 1日目 機内食うまい。クリームキノコソースが最高。うま味がやばい。ソーセージの肉々しさが凄い。ヨーグルトの全てが甘い。フルーツが新鮮だった。 シャルル・ド・ゴール空港の周りがマジでなんもない。草原、畑、林しかない。滑走路もでかい。そりゃコンコルドも飛ばせるわ。 なんかいい匂いがする。野花の匂いかな?多分香水だな。   解説:調べてみたらシャルルドゴール空港は羽田空港の2倍の大きさだそうです。     2日目 路上喫煙パーティだな。いいなぁ。火の貸し借りが結構軽い。 パリは左岸がいい。落ち着く。なんか黒人の方が親切な気がする。 ベジタリアン食うまい。やさいの出汁が効いてる。 解説:この日の昼食はパリ左岸「Torre di pizza」のイタリア料理店に行き、ベジタリアン用の野菜パスタを食べました。昼間は空いていますのでお勧めです。     3日目 バスが広くて助かる。 ベビーカーと一緒にバスに乗る人がおおい。 メトロに広いスペースはない。メトロでベビーカー持ってきている人いて大変だな。 レストランの親父がいい人だった。凄い嬉しい。でも量が多いわ。残してごめんね。 解説:夕食はホテルの近くのレストラン「Madame Gen」に行きました。店員さん全員がとても親切でしたので近くに行かれる際はお勧めします。     4日目 マツケンサンバを聴きながら迎えるパリの朝は格別。思ったよりおしゃれな人少ない。 オランジュリー美術館最高。モディリアーニ良か。セザンヌいっちゃん好き。 メトロ快適。治安は案外大丈夫。   解説:美術館系は当日券を買うにはすごく時間がかかることが多いので、有名な美術館はネット予約がお勧めです。     5日目 バス停に立っていた人がチェンソーマンのパーカー着てた。しかもアニメ版。理解かっている奴がフランスにいたとは。 シャルル・ド・ゴール空港の出発ゲート豪華すぎる。椅子が豪華すぎてビビった。ここがエコノミーが待つ席だと思えなかった。 出発ゲート内の売店で、本のコーナーの3分の1がフランス語訳された日本の漫画だった。なんか嬉しい。 解説:本のコーナーでは「ブルーロック」が一番目につく位置に置かれていました。サッカー大国のフランスで、日本サッカーの話が人気になるんだと驚きました。

紅毛城、台湾北部の要塞

ふらふらと散歩に行ってきましたので軽いお話をさせてもらいましょう。 地元にもいろんなお城がある私ですが、たまには遠くの城でも見に行こうと思い、行ってきました「台北」に!! 紅毛城は17世紀にスペインが1632年にサント・ドミンゴ城(聖多明哥城)を台湾北部(現在の新北市の淡水地区)に建築したのが始まりと言われます。なんかちょうどいい拠点が東シナ海に見つからなかったからできたらしいです。ついでに淡水は台北盆地への入り口にあたり、現在でも交通の要衝です。海巡署分署は現在も淡水にあり、淡水河は台北に至る重要な道でもあります。台北に入る船を打ち払うこともできる高台に築かれたわけです。しかしフェリペ2世のいないスペインは弱く、世界最初のヘゲモニー国家として語られるネーデルラントが1642年に城砦を占拠し、アントニー要塞(安東尼堡)として1646年に生まれ変わります。この当時建築された部分は鮮やかな橙色の部分で、手前煉瓦部分は日帝時代らしいです。 1662年、今度は鄭氏が台湾を征服し、本格的に漢族の入植がはじまります。漢族は西洋人を紅毛と呼ぶものですからこの城も紅毛城と呼ばれるようになりました。その後鄭氏は清朝に帰属しますがそのころから城は多少使われもしますが放棄されます。そして19世紀、アロー戦争の講和条約、1858年の天津条約により淡水が開港され、英国領事館がこの要塞に入りました。二回の出窓みたいなところはイギリス時代の増築のようです。 領事のお部屋 その後日本が台湾を占領すると改めて日本と交渉して領事館を設置し、戦後には在中華民国領事館として機能します。1972年に中華民国は日本をはじめ各国と国交断絶し、領事館の役割を終えました。アメリカやオーストラリアの管理を経て1980年に返還、84年に公開施設となった歴史があります。 そんな歴史のあるお城にふらふらと行きましたが、お城っていうのはどこも高台にあるものでして(小諸城などは例外)、軽い運動にはもってこいなところです。 近くには清仏戦争の頃に使われた清軍の砲台跡もあり、うろつくにはうってつけな場所でしょう。城は地形とセットと思いますが、それもよく感じられるところでした。