国王陛下戴冠記念第二回イングランド史動画投稿祭

臨時ニュースにつき、当初予定しておりましたバルザックのエッセーの読書感想文に代えてお送りします。 ニュースとはニコニコ公式の生放送が私の謎企画を取り上げてくださるらしい(4月18日午後7時から)、ということです。 私の謎企画の経緯からまずは順を追って説明しましょう。 基本的にニコニコ動画で活動していた私ですが、昨年は何をトチ狂ったのか 中世イングランド史動画投稿祭 なる謎の企画をぶち上げておりました。なんか面白そうだから、というふわっとした動機によるものです。 告知動画はこちら 参考文献の提示を求めたりと、そこそこ厳しい参加条件を課していました。最悪自分一人が動画を揚げて「参加者は誰一人来ませんでした」と結果動画を出す覚悟でおりましたが、幸いにも多く参加者に多くの動画がそろい、それなりのお祭りになったのではないかと思っております。 これで一応の成功を収めたのをいいことに、今年も開催することにしたんですね 国王陛下戴冠記念第二回イングランド史動画投稿祭 を。去年と同じ時期にと思ったらなんと国王陛下の戴冠式の時期と被ってしまったのです。こうなればもう乗っかっとけと愛国心を商魂と結合させました。 また、去年は中世に限定していて、古代ローマやヴィクトリア朝が主力の投稿者仲間には少し不自由をさせてしまったことを反省し、投稿可能な範囲を広げており、少しテコの入れ方が変わりました。 こうして少しは練った参加要件を動画にしてアップロードし、あとは自分が期間内に動画をあげてほかの人の動画を見て、結果発表動画を作るのみ、そう思ってました。まぁ宣伝はそんなにしなくてもええやろと構えていたら、なんととんでもないところから宣伝してく出さる旨の申し出が…(もちろんユーザー企画を毎月まとめて動画で宣伝してくださっている方のことも忘れてはおりませんが) ある日(4月17日)職場から帰り、ベトナム製即席麺にお湯を注いで待っている間、某SNSを何気なく開くといつものごとく数件の通知。その中になぜかニコニコ公式によるものがあり、私の企画のことで相談があるからフォローしてDM送れるようにせよとお達しがありました。なにかまずいことでもしただろうか、どこかの団体が権利侵害で訴えてきたのだろうか、と悪い想像がよぎります。 しかし実際は、ニコニコ動画の公式生放送で宣伝してもいいかという承諾を求めるものでした。私はもちろん即承諾し、ついに公式に認知されたのかと恐れ多くなりました(中世イングランド史動画投稿祭の時点でニコニコトップページにユーザー企画ピックアップとして載ってはいましたが)。イングランド史の深い沼への入り口は、広ければ広いほど良いものです。このブログをお読みの皆様、ぜひ公式生放送を見て、イングランド史の動画を出してみませんか? 公式生放送の場所 第二回イングランド史動画投稿祭告知動画の場所

『オックスフォードブリテン諸島の歴史1 ローマ帝国時代のブリテン島』読書メモ

今回のブログも読書メモです。 前回は世界史リブレットと言う軽い本でしたので、今回はオックスフォード(慶應義塾大学出版会の翻訳版)からヘビー級の『オックスフォードブリテン諸島の歴史1 ローマ帝国時代のブリテン島』です。 本書のシリーズは今までイングランド史が中心になりがちだったUK周辺の歴史を、非イングランド地域での近年の国民意識の高まりを受け、その他の地域もまとめて「ブリテン諸島」として地理的区分としてとらえなおすという、欲張りな試みをしています。とはいっても一人の筆者や編者が体系的に通史を組み立てて書くことは難しかったようで、各分野の専門家による論文集に近い体裁です。 シリーズ内において本書はローマ時代を扱います。この時代について編者ピーター・サルウェイ氏は序論で、研究者には大きく二種類の態度があるとしています。一つはローマ帝国の一辺境に過ぎず、その歴史を叙述するには絶えず帝国の中心の動きを見据え続ける必要があるというもの。もう一つはローマの支配は表面的なものに過ぎず、真の意味でのローマ化はなく、独自の地域であったというものです。地域主義が盛んな昨今において、後者の方が受け入れられやすいのは容易に想像できましょう。編者は客観的な視点を重視するべきとしていますが、ローマンブリテン研究では特に公平性が保たれていないと考えています。そうした古くからの研究者の態度に警鐘を鳴らしつつ、本書の序論は終わります。 さて各章を見てみましょう。本書を通じて意識されていることはブリテン島が当時どれほどローマ的であったかと言うことです。ローマによって文字がもたらされたブリテン諸島。文献史学をやるならローマから見るしかないのです。それ以外のことが知りたければ考古学をやりましょう。実際イギリスの文化財保護政策や新しい調査手法によってローマン・ブリテンには新たなメスが通ずるっ込まれているのです。考古学による成果を交えつつ本書は新しいローマン・ブリテンの叙述を目指しています。 第1章「ブリテン諸島の変容 カエサルの遠征からボウディッカの反乱まで」 本章を担当したティモシ―・ウィリアム・ポター氏は古代ローマ専門の考古学者にして大英博物館の先史・ローマ時代ブリテン島部門の学芸員でした。そして2000年に55歳の若さで亡くなっています。本章では限られた資料の中でローマ時代初期のブリテン島の様相を叙述しています。本章でとりわけ注目されるのが、カエサルによる占領失敗からクラウディウスによる南部ブリテン島の占領までの期間に、すでに社会変化が始まっていたということです。社会変化の内容として挙げられるのは記録される部族名の違いなどから考えられるブリトン人社会における混乱(戦乱)、発掘により発見された品々から推測されるローマ文化の受容です。そしてカエサルによる占領後もブリトン人社会では保守派と新ローマ派に分かれ、不安定な状況が続いていたと考えています。今っぽく言えば、治安が悪かったのが初期ローマ時代のブリテン島だということです。筆者はブリトン人の自主性を評価し、ブリトン人自らがローマ化に進んでいったと考えているように思えました。 第2章「新たな出発 ボウディッカの敗北から三世紀まで」 本章を担当したマイケル・フルフォード氏は後期鉄器時代の定住地考古学、ローマ時代の都市と農村の考古学が専門のレディング大学の先生です。本章は第1章の続きとして読むことのできるものです。治安の悪かったブリタニア属州もローマの急速な拡大が止まり、安定へと舵を切り始めた時代を説明しています。イングランドの数か所の都市では、ボウディッカの反乱により形成された焦土層が年代特定の鍵となることなど、日本とは違ったイギリスの考古学の面白い特徴を紹介してくれています。この時代に北辺では長城を建設していますが、長城建設そのものに莫大な資材や労力が必要なことを考慮すれば、長城の建設ができたこと自体、ブリタニア属州の安定と豊かさを示しているとみています。ブリタニア属州は兵士の貯蔵庫的な役目も果たし、余裕があるときはカレドニア(スコットランド)に攻め入り、そうでないときは他所に兵を引き抜いて防御に徹したことも興味深い内容です。しかし3世紀ともなるとローマ内部での騒乱に巻き込まれ、属州内の都市も防御を迫られたようです。本章ではローマ側の記述が多く、ブリテン島はローマの一部として語られ、ブリトン人の動きに関する記述は少ないです。 第3章「古代末期のブリテン島 四世紀以降」 本章を担当したP.J.ケイシー氏はローマ時代末期のブリタニアについての著作のあるダラム大学の人です。なんかネットで拾えるよさげな情報が少なかったです。本章では第2章の続きでもあり、どうもローマ衰退期のブリタニアでは豊かな生活が維持されていたらしいことが記述されています。ローマで四分統治などが始まったころ、属州でも地方分権が進んだ結果、ブリトン人エリートが政治に関わりやすくなり、結果としてローマがブリタニアから手を引いたときにブリトン人政権が安定することができたのではないかとしていますが、資料が少なすぎてよくわからないようです。ローマが撤退した結果文明を支えられる人種がいなくなって元の先史時代の生活に戻ったかのような書きぶりだった昔の歴史叙述には批判的なのは確かです。とはいってもゲルマン人侵入以後急速にローマ的制度が失われていったことは認めています。ブリトン人がローマに順応し、ローマの制度を活用できていたとするあたり、ブリトン人に対する高評価が見て取れます。まぁゲルマン人に飲み込まれたんですけどね。 第4章「属州ブリタンニアにおける文化と社会の関係」 本章を担当したジャネット・ハスキンソン氏はイギリス版放送大学、オープン大学で古典の講師をしています。そのため著書はローマの文化史のものが多く、もちろんローマン・ブリテンについても著書があります。古典の先生であっても考古学的な成果を無視することはありません。本章以降は通史から離れて各分野の専門家による解説となります。かつて歴史家によって失敗と言われていたローマン・ブリテンの美術については、なぜそのようになったのかを考察するべきであるとし、その悲劇の弁護を試みています。ブリトン人の文化の中にローマのものが入ってきたんだからただ単純にまねしたんじゃないんじゃないかと言うことです。でも作品だけじゃそれが何だって言うのかよくわからないし、解釈はいくらでもできてしまうというのが限界のようです。 第5章「景観への影響 農耕、定住地、産業、インフラ」 本章を担当したリチャード・ヒングリー氏とデイヴィッド・マイルズ氏はいずれも考古学者。ヒングリー氏は鉄器時代とローマ時代のブリテン島の考古学で特に景観に注目しています。マイルズ氏についてはイングリッシュ・ヘリテッジという、イングランドの文化財行政を担う場所で主任研究員をしているようですが、同姓同名の人が多く、ネットではあまり多くのことが分かりませんでした。景観とは人の手が加わった地理のようなものと言えるでしょう。かつて森林が生い茂っていたブリテン島は狩猟者が獣を集めるために木を切ったり、農地を広げたりすることでハゲはじめ、土壌流出を引き起こし、低地には土砂がたまって湿地のようになったという話などです。居住地でいえば、ローマ兵の駐屯地を中心にローマ的な地区があり、それが道路で結ばれてその間にも広がり、低地部はローマ的な景観を見せていたようです。しかし山間部などはローマ以前の様式を残し、環濠定住地を使い続けたようです。それでもそうした遺跡の中からローマの工芸品が出てくるので、ローマの影響から逃れられていたわけではないそうです。ローマがブリテン島を放棄したのちもローマの景観は残り続けたという話は第3章と共通し、5世紀末にはその景観は消え失せたとしています。 第6章「世界の縁 帝国最前線とその向こう側」 本章を担当したデイヴィッド・J・ブリーズ氏はローマ時代の辺境に関する考古学の専門家で、スコットランドでの調査も行っていたようです。調査の成果によりアントニヌスの長城が世界遺産に登録されています。本章はローマの領域から目を離し、特にカレドニア(スコットランド)を解説しています。しかし、非軍事的定住地の出土遺物は少なく、遺跡の分布調査や発掘もそれほど進んでいないという悲しい現実があるようです。はっきりしていることはスコットランド、特に北部ではローマ由来の出土遺物はかなり少ないということで、先住民の意図なのか交易がなかったのか、とにかくローマ側との交流が少なかっただろうという話です。 結論 編者ピーター・サルウェイ氏による結論では、私のように集中して全部理解して読み切ることのできなかった人のために本書を改めてまとめています。あ、こんなこと書いてたっけなぁ見落としたなぁなど思いながら読む場所ですね。 さてここまで偉そうに読書メモを書きましたが、私自身読書力が弱いので、鍛えるために書かせていただいております。この読書メモを見たうえで本書を読んで、全然違う、まったく読書の助けにならなかった、などご指摘があるかもしれません。そこについてはすべて私の浅学の責任であるためここであらかじめお詫びいたします。ひとまず最後まで読んでいただきありがとうございました。 以下メモを書かせていただいた書籍のアマゾンのページです↓ オックスフォード ブリテン諸島の歴史〈1〉ローマ帝国時代のブリテン島

チェコ旅行の備忘録

はい、皆様ここではお久しぶりです。 なんだか新型コロナに関する規制が徐々に緩和されそうな情勢ですが、やはりまだ海外旅行を自由に楽しめるようになるまでは時間がかかりそうなので、今回も自由に旅行ができたあの頃を懐かしみながらブログを書いていきたいと思います。 今回紹介していくのはチェコ旅行の様子です。 私の動画シリーズでももう何回も擦っていますが、何回も擦るのは今までに行った海外の中でもトップクラスに感動した国だからでもあります。なお記事内の写真は全て筆者撮影です。 1.旧市街広場   やはりチェコと言えば印象に強く残っているのはこの旧市街広場です。旅行時は確か1月初旬とかで、辺りにはクリスマスマーケットの装飾がまだ多く残っていました。 その様子は上から見た写真だと分かりやすいです。屋台でスナックを購入し小腹を満たしたのは良い思い出となっています。   2.プラハ城 プラハ城もまたチェコを代表する観光地でしょう。当時はあまり良いカメラを持っていなかったので(写真はi pod touchの第5世代で撮影)、画質はあまり良くないんですが、遠くに佇む幻想的な城の姿は強く印象に残っています。RPGだとラスボスが住んでそう。   実は… おそらく知る人はかなり少ないかと思いますが、私はチェコを含めた中欧の旅行動画を投稿してた時期があります。(現在は全て非公開) 当時はまだ○学生とか○校生でしたが、今思うと現在更新中の全世界解説につながるようなことをしてたんです。たまには初心を思い出すのもいいですね。   それではまた機会があればお会いしましょう、それでは~!

『宮廷文化と民衆文化』読書メモ

歴史を学ぶものは動画なんか見ずにちゃんとした本を読むべきなのは当然のことなのですが、私は動画を作るために本を読んでばかりで、いつの間にか本を読むことを目的とした読書ができなくなっておりました。 そこで今回からは今後の読書モチベーションのために本を紹介していくこととしました。しかし、読書がはかどっていなかった私に紹介できる本は今のところこの以下の本ぐらいでしょうか。 『宮廷文化と民衆文化』世界史リブレット …薄い本です。今度はごつい本を紹介するので許して… 本書はブルゴーニュからブルボンまでの宮廷文化とフランスの近世民衆文化を取り上げて、その二者がブルジョワ階級の勃興で統合されるところまでを扱っています。とはいっても内容はほぼ宮廷文化で、民衆文化とブルジョワの説明はわずかです。私は民衆文化やブルジョワ文化などより宮廷文化に興味があったので全く問題ありませんでしたが、民衆文化側に興味を持たれている方にはお勧めできないでしょう。ただし18世紀の生活に付随した文化を勉強し始めるためならいいのではないかと思います。 さて軽く各章の内容をお伝えしますと以下のようなものです。 ①ブルゴーニュとウルビーノの宮廷 本章で宮廷文化の始まりは15世紀ごろのブルゴーニュであると述べられています。それ以前の宮廷文化、シャルル・マーニュやアリエノール・ダキテーヌと分けたのは武だけではなく文の力を有して形成された文化だからだとしています。晩餐はもちろん、音楽や蔵書、入市式などの儀礼において当時西欧において最も壮麗なことでブルゴーニュは知られていたのです。そのブルゴーニュに次いで紹介されるのはルネサンス期のイタリア宮廷であり、特にウルビーノを中心にしています。宮廷は王の住居であるだけでなく、それまでの修道院や教会に代わる文化の発信地でもあることが様々な部分から語られています。 ②フランスの宮廷 宮廷と言えばだれもが思い浮かべるバロックからロココの時代のヴェルサイユ。ベルばらの聖地です。ブルゴーニュやウルビーノが栄えていたころのフランスは、内乱やらペストやらで悲惨な状況でした。それが収まっても宗教改革による動乱が起こり、七転八倒の時代が続きました。そうした状況の中でも着実にルイ14世時代に花開く宮廷文化の下地が出来上がっていることを示しています。特に下積み時代のフランスに特徴的な移動宮廷の記述は興味深いです。そのあとは皆さんご存知の、ヴェルサイユに固定された宮廷文化の王道です。国王の行動がすべて儀式と化す、24時間舞台の上のような生活。そして収入源を求める貴族たちの阿諛追従。そりゃプチ・トリアノンに農場を作ってのんびりもしたくなりますね。 ←プチ・トリアノンです。こっちはヴェルサイユ宮殿。たまに来る分には豪華でいいところですが、ここで暮らせとなれば話は別。   ③民衆文化 民衆文化は普段の自分の周りでも何か片鱗が見えてきそうな内容です。不安から逃れるようにお祭りの時には騒ぎ、情けない男は集団でつるし上げて制裁する。暴力性が垣間見える部分もありますが、なんだ人間ってそんなに変わってないんだなと思えます。庶民本の普及で本が非日常を与える役割を担い始めたと書かれているところは、あぁ古き良き時代が去っていくのだなと郷愁を感じずにはいられません。 ④ブルジョワ文化による統合 本章はわずか4ページです。放埓な財政が生み出した買官制度により宮廷にやってきたブルジョワが、宮廷外にその高度な文化を持ち出していくというところを説明しているのですが、それがどうやって民衆文化と融合して現代文化になったかまでは説明してはいません。そこからさきは読者が調べる課題なのかもしれません。   と以上のように後半は記述が少ないのですが、その直後に参考文献が列挙されています。初学者にやさしい世界史リブレット、とりあえず何から読んだらいいか悩んだときにぜひおすすめのシリーズです。

世界史小話~クローヴィスの改宗~

世界史教科書では、クローヴィスの改宗について 「正統派キリスト教のアタナシウス派に改宗」 ということだけが記されていて、改宗以前はどうだったのかが明らかではありませんでした。中には 「改宗」という語に引きずられて、 「アリウス派からアタナシウス派キリスト教に改宗」 などと補っているものもありますが、これは明白な誤りです。誤解の余地のないように 「異教から」 という語を入れて説明しなくてはなりません このことについての出典は何かというますと、従来の諸研究と同様、教科書でもトゥールの司教グレゴリウス (五三八~五九四年頃)が著した 『歴史十書』 (フランク史) に依拠しています。 『歴史十書』 は、史料の乏しいメロヴィング朝フランク王国史にあって唯一と言ってもよい最重要の叙述史料です。「クローヴィスの改宗」 については、 『歴史十書』 の 「第二書」 に記されています。それの内容は、異教の神々の偶像を信奉していたクローヴィスは、ブルグンドの王族出身の王妃クロティルデが信じるキリスト教 (アタナシウス派) を、彼女がしきりに勧めるにもかかわらず、拒否し続けていた。ところがあるときアラマン人との戦いで劣勢に立たされ全滅に瀕した際、クローヴィスは異教の神々ではなく、イエス=キリストに祈って勝利を得た。これによりクローヴィスは、クロティルデが招いたランスの司教レミギウスの手で部下三千人以上とともに洗礼を受けた、というものです 「部下三千人」 との記述が、 『新約聖書』 の 『使途行伝』 二章四十一節にあるペテロが三千人を改宗させた話を下敷きにしているなど、グレゴリウスの叙述には護教的な脚色が多く、戦いの最中にクローヴィスがイエス=キリストに祈ったかどうかも含めて、すべてを事実とするわけにはいかないでしょう。しかし、教科書本文にも記したように、クローヴィスがこの改宗によって、ガリア各地でキリスト教の司教として地域社会を支配していたローマ人貴族層の支持を取りつけ、そのことによってガリアの支配を確実なものにしたことは間違いありません。 参考文献 トゥールのグレゴリウス著・兼岩正夫ほか訳注 『歴史十巻 (フランク史) 』 Ⅰ・Ⅱ 東海大学出版会一九七五~七七年

2019年にロシア行ったって話

どうもゆはるです。 今回は私の旅行記第三弾として、2019年に行ったロシア旅行の様子をお伝えします。   言わずもがな、2022年11月現在、ロシアに観光旅行なんて考えることもできない状況です。 外務省が出してる危険情報ではロシア全土が「危険レベル3」でウクライナ国境付近は「危険レベル4」、ロシア政府が自国民含め出入国を著しく制限していますから、入国はできても出国できないなんて事態に陥るかもしれません。   ロシア、まぁそこそこに観光する場所がある国です、今回惜別の意も込めましてロシアの見どころをいくつか写真も合わせてお伝えしたいと思います。この記事に載っている写真は全て私ゆはるが撮影したものです。 赤の広場 やはりロシアといえば最初に思いつく観光地はここでしょう。正教会独特の建造物は一度見れば印象に残ります。 一応遠目で見た写真もあったのでペタり。2019年の赤の広場は自分以外にも観光客がたくさんいて平和でした。   また、写真はありませんが(写真撮影禁止のため)、赤の広場の近くにはレーニンの遺体を見ることができる施設がありました。レーニンの身長は165cmで、おそらく見物した人の多くは小柄だなという印象を持ったでしょう。ちなみにプーチン大統領の身長は168cm、スターリンの身長は163cm(両人共に諸説あり)で、ロシアの歴史的重要性を持つ人物は小柄な人が多いんですね。エリツィンは187cmだったけど。   エルミタージュ美術館 エルミタージュ美術館もロシアの観光名所として三本指に入るくらい有名ですね。 私は会えませんでしたが、展示物をネズミから守るため、エルミタージュ美術館では70匹もの猫を飼っているというのは有名な雑学です。   美術館では様々な展示が行われていましたが、一番印象に残っているのは2018年より展示が始まったというニコライ2世のワイシャツです。 そう、あの大津事件の時のやつです。 警察官の津田三蔵に右耳上部をサーベルで切りつけられたこの事件、その時に付いたと思われる血痕がワイシャツの首元部分にはっきりと残っていました。ちなみに写真撮影OKでした。 このワイシャツが展示されているという情報、なぜか日本語圏ではあまり知られていませんね。日本語で検索をかけてもロシア政府系メディアの「スプートニク」の日本語版の記事しか主にヒットしませんでした。 2022年にはロシアへの観光旅行が制限されたことを考えると、展示が開始された2018年からの4年間しか日本人が生で見る機会がなかったのかな? この写真実は貴重だったりして。   そんなわけでいかがだったでしょうか。 ロシア旅行はしばらく行けん、児島惟謙な情勢ですが、死ぬまでにはもう一度訪れてみたいとも思っています。西欧色の濃いサンクトペテルブルクと東欧色の濃いモスクワの対比とかね、楽しかったですよ。ロシア人も観光客の私には人懐っこくて親切でした。   ロシア旅行が気軽に行けるくらい平和な世界情勢に早く戻ることを願っています。それでは。

テューダー朝重要人物まとめ

現在ウルジーの動画を作っていますが、テューダー朝の重要人物について軽くまとめたいと思います(唐突)。 また若干書きかけの感もあるので、随時更新していきたいと思います。ひとまずヘンリー8世時代まで。   〇ヘンリー7世時代 ヘンリー7世の時代は薔薇戦争終結後の不安定な情勢を何とか押さえつけていた時代です。そのためにテューダー家の正当性をアピールしたり、有力者を財産罰で徹底的に締め上げ、王位僭称者は執念深く追い続けるなど、徹底的に対策を推し進めていました。この時代に蓄えられた王家の財産はヘンリー8世の活動を大いに支えました。   ①ヘンリー7世(1457-1509)   テューダー朝の創始者。王家に近い血筋ですが、男系をたどるとウェールズ人であり、必ずしも血統がいいわけではありませんでした。ヨーク家のリチャード3世を倒して王位を得ましたが、リチャード3世は男系をたどると12世紀のイングランド王までたどれる由緒正しい王家の血筋のため、イメージ戦略で正統性をアピールせざるを得ませんでした。もちろんヘンリー7世を認めない勢力も多く、王位についてからも割れこそがイングランド王と名乗る人物にたびたび悩まされました。実務面では非常に有能な王で、帳簿を自身で管理したことで知られています。CV.石田彰が似合う王です。   ②エリザベス・オブ・ヨーク(1466-1503) ヘンリー7世が倒したヨーク家の王女です。ただし、叔父のリチャード3世とは対立していたウッドヴィル家の縁者であり、リチャード3世と戦う前から結婚の話がありました。即位後は王を支える王妃であり続けました。また、エリザベス・オブ・ヨークとの間に後継者を得ることは血統的に万全ではないテューダー家には欠かせないことでした。ヘンリー7世はエリザベスとの共同統治を避け、テューダー家の王家としての形式ために結婚式の前に戴冠式を行いましたが、臣民を安心させるにはやはり旧王家との連続が必要だったからです。生まれた後継者は二人で、一人がアーサー、もう一人がヘンリー8世でした。 ③アーサー・テューダー(1486-1503) ヘンリー7世待望の王子でした。幼少期から王にするために育てられ、外交のためスペイン王女との結婚もしましたが、そのあとすぐに流行り病でなくなりました。粟粒熱として知られる病気だったようで、発症したらほぼ死に至る病でした。ヘンリー8世にとっては兄にあたります。 ◯ヘンリー8世時代 言わずと知れたヘンリー8世の治世前半は敬虔なカトリック信者としてウルジーの力を借り、ヨーロッパ外交で存在感を示そうとしました。しかし、後継者不在を解消するために離婚をしようとしたところから宗教改革が始まりました。宗教改革では多くの人物がその渦に巻き込まれます。   ①ヘンリー8世(1491-1547) ヘンリー7世の第二の後継者でした。当初は王として育てる予定がなかったので、比較的自由に育てられましたが、兄アーサーの死で王となるための教育が行われました。兄に比べて開放的な性格で、陰湿だったヘンリー7世から王磯継承したころは歓迎されたようです。即位後はフランス領土奪還や存在感あるイングランド王国を目指しましたが、思うように成果は上がりませんでした。そうこうするうちに後継者ができないまま兄から引き継いだ王妃、キャサリン・オブ・アラゴンがアラフォーを迎え、後継者問題に直面すると子供を埋める若い王妃を求めます。そのための離婚の許可が国際情勢の問題で得ることができず、イングランドの宗教改革のきっかけとなる宗教改革議会を開きました。この過程で何人もの人物が処刑されたことは非常に有名です。しかし、ヘンリー8世にとっての宗教改革のゴールは教皇からの指図を受けない教会であれば十分だったので、教義面の改革についてはあまり問題になっていませんでした。離婚や処刑を繰り返して得られた男子の後継者はエドワード5世だけでした。 ②トマス・ウルジー(1475-1530) 治世前半のヘンリー8世を支えた枢機卿です。即位当初は政治に強い関心がなかった王のために実務の多くを担当していました。王国の本当の支配者はウルジーだと考えられていたほどでした。しかし離婚問題に直面すると、教皇庁の枢機卿としての立場と王国の大法官としての立場で板挟みになり、ヘンリー8世の意に沿った行動をとることができず失脚しました。あくまで教皇庁にイングランド教会が所属する形で離婚を成立させたかったからです。 ③キャサリン ・オブ・アラゴン(1847-1536) ヘンリー8世と最も長く連れそった王妃でした。スペインのカトリック両王の王女として生まれ、アーサー王子に嫁ぎました。アーサーが亡くなると、ヘンリー8世の即位までイングランドで人質のような生活をしましたが、ヘンリー8世の即位後は良き王妃としてその活動を支えました。問題は男子の後継者を残せなかったことで、そのことでイングランドの宗教改革を引き起こしました。キャサリン自身は敬虔なカトリックであり、ヘンリー8世に市場もあったので離婚を徹底的に拒みましたが、教皇庁とイングランドの教会を切り離す力技には勝てず、離婚となりました。 ④トマス・モア(1478-1535) イングランド随一の人文主義者で法律家でした。法律家や庶民院議員としても活動していましたが著作活動がよく知られています。ヘンリー8世の離婚問題については宣誓して認める予定だったが、思想家の性として、自身の心情と相いれない一文を宣誓書に発見したことで宣誓書にサインができず、処刑されることになりました。彼の死は映画にもなり、カトリックでは聖人として認定されています。 ⑤アン・ブーリン(1501-1536) ヘンリー8世の離婚問題の最大の元凶です。王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女でしたが王の愛人となり、最後には王妃に上り詰めました。しかし健康な男子を生むことができず、近親相関等の罪の疑いで処刑されました。よく映画の題材になる人物です。 ⑥トマス・クロムウェル (1485-1540) ヘンリー8世の側近でした。王妃の離婚問題では主導的な役割を果たし、宗教改革を勧める原動力になった人物です。かつてはイングランドの行政が家産的なものから官僚的な物に移行するときに大きな役割を果たしたと考えられていましたが、この点には議論が多いです。王が3番目の王妃、ジェーン・シーモアを亡くすとアン・オブ・クレーヴスを手配しましたが、王はときめかず、婚姻は無効だったとしました。王の気に入らない女性を推薦したせいか、そのあとすぐ反逆罪で処刑されました。 ⑦ジェーン・シーモア(1508-1537) ヘンリー8世3番目の王妃でした。エドワード6世を儲け、ヘンリー8世待望の男子の後継者を産みましたが、そのすぐあとに産褥熱で死亡しました。 ⑧トマス・クランマー(1489-1556) ヘンリー8世の宗教改革を宗教面で支えたカンタベリー大司教でした。プロテスタントとして宗教改革を推し進めましたが、次代のメアリー1世の時代ではカトリックに反する人物だったので、処刑されました。     ◯エドワード6世時代 短い治世でしたが、プロテスタントとして宗教改革が本格化した時代でした。王は若くして亡くなったので、政治の実権は廷臣たちが握っていました。以下に挙げる人物はエドワード6世を除き、首と胴体が切り離された状態で死亡しています。   ①エドワード6世(1537-1553) ヘンリー8世待望の後継者として生まれました。マーク・トウェインの『王様と乞食』に登場する王様なのでご存知の方も多いでしょう(多分プリンセス・プリンシパルも一部元ネタは『王様と乞食』)。元来敬虔なクリスチャンのヘンリー8世の子供なので宗教教育をしっかりと受けましたが、政治的な背景でプロテスタントの教育を受けています。即位後はプロテスタント的政策を推し進め、廷臣たちも出世のためにプロテスタントに順応しました。しかし病弱だった上に、ヘンリー8世時代にスコットランド女王メアリーとの結婚の段取りに失敗したため、後継者を残さずわずか16歳で死去します。 ②メアリー・ステュアート(1542-1587) エドワード6世の結婚相手と目されたスコットランド女王です。スコットランド国内での結婚反対により、縁談は戦争に発展しました。元々父親のジェームズ5世はイングランドとの戦争の最中に死んだので、反発は無理もないことでしょう。なので対抗してフランス王と結婚しますが、すぐに死別し、スコットランド貴族と結婚します。ここまではあまりメアリーの特色は出ていませんが、国内での舵取りの下手さがこの後の悲劇につながりました。不倫問題を起こすし、国内で高まっていた宗教改革には背を向けてカトリックを突き通し、それでいてイングランドに亡命するのですから。さらにその亡命先でなぜかエリザベス1世の暗殺計画に加担して斬首されます。母方がテューダーの血筋なので、カトリック的論理から見れば私生児に過ぎないエリザベス1世を認められなかったというのでしょうが、あまりにも現実と折り合いをつけるのが下手な人物でした。 ③エドワード・シーモア(1500-1552) エドワード6世の母方の実家の人物なので当然のように護国卿の座についてプロテスタント政策を進めました。また、前述のメアリーとエドワード6世の結婚を成立させるために戦争を進めた張本人でもあります。しかし、急激な改革や、囲い込み等の社会変化に反発する反乱への対処が遅れ、ダドリーの台頭を許し、処刑されました。 ④ジョン ・ダドリー(1504-1553) ヘンリー7世時代に辣腕を振るったエドムンド・ダドリーの息子です。ヘンリー7世の財産罰による締め付けの実務を担っていたせいで父親はその王の死後にスケープゴートとして殺されました。幼少期に父親の権利が復活し、上流階級としての基盤が整うと、軍人として頭角を表していきました。その力でシーモアが鎮圧できなかった反乱を鎮圧し、護国卿の地位を得ます。しかし、どのような改革を進めるかなどに明確なビジョンを元々持っていたわけではなかったようで、シーモア以上のプロテスタント化政策を推進しました。彼にとって悲劇なのは、国王が夭折した結果、カトリックが復権することになり、シーモア以上に立場を崩されたことです。後述するジェーン・グレイを急遽対抗馬として女王にするも、メアリーに察知されて失敗し、首を切られました。 ⑤ジェーン・グレイ(1537-1554) ジョン・ダドリーの最後の足掻きの巻き添えになった可哀想な人。敬虔なプロテスタントで、少し遠いながらもテューダーの血筋を引いていたことが悲劇の始まり。元々の婚約者とは別れさせられ、女王に即位させられたと思ったらわずか9日で王座を追われ(トラスよりも短いのである)、命を助けてもらっても父親が反乱に加担してわずか16歳で首を切られました。何か悪いことをしたのでしょうか。なにもしていません。ただ血筋と時代のせいでした。

中世イングランドの国体で考えてみたこと

まず最初に断っておくと中世に国民体育大会はありませんでした。国体は国のありようと言うことです。考え方としては戦前でよく言われてたのような国体に近いのですが、イングランドでは文字通り「体」のように考えられていたようです。国王を頭として軍隊や貴族、忠誠、臣民、税、宮廷、修道院、さまざまな構成物がまるで人体のように相互に支え合って国体が動くというわけですね。 さてこうした国体は中世を通じて同じであったわけではありません。ローマ帝国崩壊後の異民族の侵入の頃の状況はよくわかっていないのですが、この時期の族長の周囲が国体のもとになり、次第に膨れ上がっていったのです。 まず族長の周囲には長老だとか人望のある人だとかが集まってあーするべきだとかこーするべきだとか意見を聞くための集団がいます。ノーサンバランド王のエドウィンはキリスト教に改宗したヘプターキー時代の人物ですが、改宗に当たって重臣たちを説得しているシーンが年代記に残されています。こうした重臣たちの集まりは後にウィタンと呼ばれていたそうです。イングランド議会はHPでこのウィタンがルーツの一つであると説明していますが、中世に三権分立などと言う概念があるわけがなく、最初の実態としては全ての権限が混然一体となった偉い人たちの会議でしょう。もっとイメージしやすく言うなら会社の重役会議だとかヤクザの組長の舎弟たちなわけです。 組長=王 舎弟=貴族 子分=宮廷の使用人など 舎弟がいれば子分もいます。こんな風に書くと仁義なきイングランド史というタイトルが頭をよぎりますが、実際未発達で暴力に頼らざるを得ない社会だったので自然と似てくるものなのだと思います。子分の仕事は組長の身の回りの世話となるでしょう。今と違って家事労働は大変なこと、一人暮らしなんて修行者の域だったかもしれません。衣装を管理し、財産を管理し、食事の場をセッティングし、馬を世話し…いろんな仕事がありますね。こんなの家政婦の仕事で子分の仕事じゃないなんて思わないでください。今だって弟子が師匠の身の回りの世話をするような芸事があったりするでしょう。実際王のトイレの世話は貴族たちの間でも特に信頼の厚い人物にしか任されなかったのですから。 さて、子分たちの話に移りましょう。ヘプターキー時代も終わりが近づくと族長と言うか王の支配領域は広がります。市町村レベルから大きめの県レベルまで大きくなります。王は広い領土を旅しながら治めました。各地の諍いを解決するために、住民の忠誠を引きとどめておくために、反乱の芽が出ていないか確認するために。この移動に伴って王の衣装も財産も動くのです。と言うわけでチェンバレンが生まれました。チェンバレンは王の寝室に関連する仕事をしていたのですが、今でも寝室には重要なものが置かれることが多いように(ネットで元空き巣の証言を読んだところ、基本的にリビングか寝室には現金があるなどと言ってました)、重要な書類や財産の管理を任されました。しかし王たるものそういったものは山ほど抱えることになります。膨れ上がった貴重品をすべて寝室には置いておけません。そこでトレジャリが生まれます。トレジャリは宝物庫を管理する役職ですが、あまりにも多い財宝はウィンチェスターに定着しました。そしてこのウィンチェスターにある財産を適切に管理しているか調査をしたり、王の収入を把握するためにエクスチェッカー(財務府裁判所)が作られるのです。この辺りの歴史はまだ私の中では腑に落ちないし分からないことも多いので、立ち入った話はできませんが、どうもただの会計ではなくて裁判もしていたようなのです。ちなみに行政面についても多方面にわたって活躍したようです。イギリス史ではやたら不思議な裁判所がたくさん出てくる気がするのですが、そもそも三権を分立させていない状態だとすべては司法の下に属するらしいです。一方で金勘定して一方で会計をごまかした人物に罰を与え、しかも同じ会合で全く財政とは関係のない事務処理や裁判までついでにやっていたのかもしれません。学級会で掃除当番を決めていたら突然弾劾裁判が始まってしまうような…カオスな役所だったのでしょう。このあたり、名前に引きずられて組織の仕事を判断してはいけないなとよく思います。あと、コートの法廷に代わる様ないい訳はないのかと思いますね。 舎弟に話を移しましょう。組長は多くの舎弟を従えることになります。特にノルマンコンクエスト以降の重役会議はクーリア・レギスと呼ばれます。ここも会議で掟を決めているかと思えば裁判もしているところです。クーリア・レギスめちゃくちゃいろんな人が出席するようになったので、大会議と小会議に分かれました。小会議が様々な行政機関や専門裁判所として成長し、大会議は議会として国体の土台に変貌していきます。まるで胚が細胞分裂で一つの細胞から様々な臓器に変わっていく様子みたいですね。ちなみに小会議は枢密院を生み出し、枢密院は内閣を生み出しています。そう、そしてその内閣の下に教育省だとか運輸省だとか国防省があるんです。 ところでノルマン朝やアンジュー朝はフランスを本拠地とした勢力です。いくらイングランドの土地が豊かでも本拠地はフランスです。そのため、イングランド王はノルマンディーにいるのが基本でした。なのでイングランドの統治を担当したのはジャスティシアー(最高法官)と呼ばれた人です。このジャスティシアーがいた頃がちょうどクーリア・レギスの分裂が活発だったころでもあり、王の不在と言うのはイングランド独特の行政制度の発展に大きく寄与したと思われます。ジョン王がノルマンディーを失い、イングランド王の本拠地がイングランドになるとその発達した行政機構や裁判所が王を迎え入れることになりますが、そこで王と貴族の確執がマグナ・カルタを生み出し、議会が税の承認をする伝統が生まれました。 議会と言うのは今でこそ立法府ですが、中世においては課税の承認をする機関で、その代償として各地域の陳情を持ち込んでいたようです。上納金を納めるからには自分の組のいざこざや困りごとの面倒は見てほしいですからね。この陳情が時には権利の請願だとかウェストミンスター条項、改革勅令になるわけで、議会を強くしていきます。しかし議会は王を懲らしめたいわけではなく、やはりその権威に依存しましたので持ちつ持たれつ、議会の中にあって王は主権を有するなどと言うあいまいな国政論となるのです。このぼんやりした制度は王を体の一部とした、つまり王が単独では生きていけない状態を作り、国体と言う発想になったのかななどと思ったりもします。 イングランドの複雑な政治史の驚くべきところは、大きな切れ目なく現在まで続いていることです。私たちの暮らしを支える国のシステムは近代(この言葉のせいで18世紀以前の世界と必要以上に距離を感じますね。同じ体を持つ人々だというのにまるで違う生き物のようにさえ感じてしまいます)に突然生まれたものではなく、中世から脈々と受け継がれてきた、秘伝のたれのようなものです。私たちを取り巻くシステムは、暴力渦巻く民族移動の時代から、試行錯誤や改良を重ねて生まれてきたもの。この知恵はもちろん現代の制度を知ることでも得られるでしょうが、その神髄は歴史に触れることでより一層分かるのではと思って、ずっとイングランド史を続けています。たぶん。

やあやあ!我こそは(中略)なり!!!

  はじめに動画の話をしよう。 お久しぶりです。一ケ月ぶりくらいですかね? さて、無事にロレンス解説、全四回が終了しました!(予定より一回多いのはナイショ)   にしても、全然まだまだ紹介できるお話は残っているんですけれどね…… 例えばヒジャーズ鉄道の爆破の際に、導火線が短すぎて爆風をモロにくらって血まみれになったり、ロレンスの「人生初の殺人」を味方のアラブ部族のいがみ合いを解決するために決断して行ったりと本当にたくさんのエピソードがあるんですよ。君はもっと落ち着いて第一次世界大戦を生き抜くことはできないのか?   そう、生き抜くと言えば、大戦に従軍したロレンスの兄弟たちはどうなったのかと言いますと。 ロレンスの弟であるフランクは1915年5月9日、フランス北部のアラスにて塹壕内にいたところ、爆弾の破片によって即死。 同じく弟のウィルは英国航空隊の監的手(砲撃の着弾観測)に志願し、1915年10月23日ウィルの乗った飛行機はフランス上空にて撃墜されて戦死。26歳の彼は前線に出て一週間という短さで天に召されてしまいました。 五ヶ月の間に二人の弟を失ったロレンスの心境は内向きとなってしまい、それから数ヶ月の両親に対する手紙は間隔があいていき、その内容もぶっきらぼうなもので、フランクの事は書かなくなり、ウィルの事は一回漠然とほのめかした以外はそれを認めた記録もないそうです。   参考文献とか貼っていきませう。 という事で、今回の動画に使用した参考文献です。 ・コット・アンダーソン 著 ・山村 宣子 翻訳 ・出版社 白水社 ロレンスがいたアラビア(上)・(下) はい、これだけです。 あとはフサインのウィキペディアを少々といった感じですかね?資料少なくて恥ずかしくないの?(恥ずかしい)   次は何をやるんだい!? 次の動画ですけれど……今度はお家芸ともいえる兵器開発なんかをやったりやらなかったりしようかなと、思ったり思わなかったりしています。 ですので、来月以降も適当に待っていただけると幸いです。