海軍さんの嗜好品 戦争において士気などを維持するのに嗜好品は貴重なものでした。なにせ、やる気がない中仕事をしてもなかなか捗らないように、士気が低いと兵士も弱くなるのです。 第一次世界大戦でもフランス軍は、兵士1人につき毎日4分の3リットル(通常のワインの瓶1本に相当)のワインを無料で支給し、イギリス軍も一日一口程度のラム酒を支給して士気の維持に努めたほど。 第二次世界大戦では救国戦闘機のスピットファイアがフランスにいるイギリス軍の為に落下タンクにビールを詰めたり、仕事熱心な米軍のおにいさんが最前線の小島にアイスクリーム製造機を配備したりと……これらは「兵士を甘やかすため」ではなく「効率よく兵士のやる気を出させるため」に用意されたのです。 WWIでガリポリに上陸したフランス軍のワイン そういう意味では、昨今のミリタリーオタクの皆さんが小馬鹿にしがちであるイギリス軍の現代戦車に搭載されている電気式湯沸し器も士気の維持という点では侮れない装備です。敵の砲爆撃の嵐の中でも安全な装甲に包まれた戦車の中で火をたかずに暖かい食事や飲み物が楽しめたり、布の消毒ができたりするのです。皆さんだって冷たいコンビニ弁当ばっかりだと少しは暖かいものが恋しくなるでしょう?それが安全にできるのですごいんですよ。 とてもつおいイギリス軍の湯沸かし器 ……っと少し話がそれてしまいましたね。 それでは士気向上の嗜好品を大日本帝国の海軍さんはどうやっていたのかというと、甘いものでやる気を出させていました。 泊地などではかの有名な給糧艦間宮の間宮羊羹などの甘味の補給が有名ですが、巡洋艦以上の大型艦には自分たちでそう言ったものを作る手段がありました。 それが「ラムネ製造機」です! 海軍艦艇には、火災の時に火を消すために「二酸化炭素消火装置」というものが備え付けてあり、それを転用して「ラムネ製造機」というものを設置したのです。 この装備の設置については戦前からであり、昭和三年の「艦舷「ラムネ」製造機装備の件」という訓令が出されており、横鎮、呉鎮、佐鎮長官あて(舞鎮がないのは、当時軍縮条約により要港部に格下げされていたため)に海軍省大臣官房から 『其府麾下所属ノ既成戦艦、巡洋戦艦、巡洋艦、航空母艦、潜水母艦、給糧艦及其他必要ヲ認メタル艦舷ニシテ「ラムネ」製造機ヲ有セサルモノニアリテハ此際艤装品トシテ装備方取計フベシ 右訓令ス(後略)』 とあり、要約しますと 「横須賀、呉、佐世保の各鎮守府長官は、自分の部下所属で竣工済みの戦艦、巡洋戦艦、巡洋艦、航空母艦、潜水母艦、給糧艦そのほか必要な艦船でラムネ製造機を取り付けていない艦があるのならば、この機会にすべて取りつけるように」 というものになります。ここで駆逐艦や潜水艦等がないのは、ラムネ製造機を設置するにはスペースなどの制約があるからなのでしょうかね?実際に駆逐艦島風や駆逐艦山雲といった艦にはラムネ製造機は設置されていなかったという記述を見たことがあるのでそういう事なのでしょう。 ちなみに火を消すための炭酸ですので、そう無闇に使う事もできません。なので停泊時は「ボンベに入った炭酸ガスを陸上から買って製造」していたそうです。 なおその頃、仕事熱心な米軍さんは大型艦にアイスクリーム製造機を導入しており、米空母艦載機が不時着した際に駆逐艦などがパイロットを回収して引き渡せば、お礼にパイロットの体重分のアイスが貰えたそうな……やっぱり格が違うなぁ……
Category: 近代
近代中国研究のススメ
https://youtu.be/EONxJgy2WFc さて、先日私の投稿した↑ 「社会主義の中国伝来」ですが、 取り上げたほとんどの人物が日本に亡命または留学していました。 外国研究の難しさ どんな学問であっても研究をするとなったとき、そこでは積み上げられた先行研究を踏まえた上で、どんなに小さいことでもいいから、その山にプラスすることが求められます。 これが外国の歴史、文学、思想となると難しい。 どんな学問であっても 大抵、日本のことを対象とする学問であれば日本が研究の本場であり、アメリカのことを対象とする学問であればアメリカが研究の本場となるでしょう。 中国研究の場合 中国研究においては、日本が最も研究が進んでいるという時代がありました。 要因をパッと思いつくものをあげると 日本 ・前近代までの漢学の伝統の積み重ね ・近代以後の西洋的な学問の受け入れの早さ ・民主化の早さ 中国(大陸) ・民国期の政治的混乱 ・共産党による言論統制 台湾 ・国民党による言論統制 こんなところですかね。 現在は台湾は言論が自由となり、大陸もかつてと比べるとかなり緩和されました。 大陸の50年くらい前の研究を見ると意味もなくマルクスが引用されていて、初めて見たときは閉口したものです。 さて、いまや日本の中国研究は人も予算も減る一方。大陸の研究成果を見ずに研究することは不可能となりつつあります(多少分野の違いはあります) 日本人が近代中国をやるメリット さて、母国でない国のことを研究する意義という点では、近代中国は穴場なのです。 先述のとおり、重要人物の多くが日本に滞在していました。 では日本でどんな情報を得ていたのか?となると、 明治期の日本語文献を読みこなす必要があります。多様な形式の文語文や変体仮名といった、日本語を母語としていないと(していても)非常にとっつきにくいものを読めなければならないのですね。 日本人であることが、非常にメリットとなるのです。 ところが、日本においては、中国近代は研究者の人数が他の時代に比べて少ないのです。(文学は唐、思想は宋が多いかなと思います。歴史学の方はよく分かりません) 卒論のことをこれから考える中国学徒におかれては、近代にも目を向けていただければと思います。 (私も興味を持っていただけるための発信をがんばります……)
グラント大統領の記念碑を上野へ見に行こう
上野公園の南北戦争スポット!? 読者の皆さんは上野恩賜公園を訪問した事があるでしょうか? 博物館や動物園で有名な公園ですが、このブログを書いている3月末なら桜が見頃なお花見の名スポットでもあります。 しかしこの公園、日本では数少ない(?)米国史を感じられる場所となっています。と言う事で今回は南北戦争を北軍の勝利に導き、戦後に大統領を務めたユリシーズ・グラント、彼の訪日を今に伝える上野公園の植樹碑訪問ブログです。 この記念碑自体への行き方は結構簡単、上野駅公園口から直進して動物園正門の前で左手に見れば到着です。 ただし結構ひっそりした見た目なので、そこは注意かもしれません。記念碑のレリーフは中央はグラントの肖像、左右に英語と日本語で植樹碑設置の来歴が記されています。 (日本語の碑文は塗装が消えかかっててちょっと読み辛い……) グラントと言えば1865年に北部の勝利で幕を閉じた南北戦争で北軍の最高司令官に上り詰め、南軍のリー将軍を破り一挙に英雄となった人物です。その後1868年の大統領選に参戦すると、対抗する民主党の候補を獲得選挙人で大差を付け当選し第18代大統領として8年勤めます。 (彼が任期中に取り組んだ南部の再建も南北戦争後の重要な出来事でした) 1877年に大統領任期を終えたグラントは世界各国への訪問へ出発、1879年には日本を訪問し明治天皇への謁見を行い、足を延ばして日光へも訪れました。そしてこの訪日の際に記念植樹を行った場所の一つがこの上野公園なのです。 ちなみに肝心の植樹した木は記念碑から左に向くと今でも姿を確かめられ、二本のうち左側はグラント夫人による泰山木で、右側がグラント本人による檜です。そして明治時代に植樹された由縁が時代と共に薄れる事を憂いて昭和4年に記念碑が建立されました。 今回の訪問記はこの辺で終わろうと思いますが、有名な文化スポットが並び立つ上野で公園に佇む銅像や記念碑にも、普段は意識しない由緒が見つかるかもしれません。
『翔ぶが如く』はいいぞ。(おすすめ大河ドラマ紹介 第3回)
※今回は、とある大河ドラマ紹介文です。 ネタバレ注意! こんにちは、いのっちです! いよいよ「23年度(令和5年度)」が始まりましたね。登録者も1000人を突破し、新メンバー(メ塩さん)も加わった新たなスタートをきる世界史べーた(仮)を本年度も何卒よろしくお願い致します! 最近は春らしい陽気が続き、ほんわか過ごしている私ですが、今日も歴史好きになった理由の一つ「大河ドラマ」の御紹介をさせて頂きたいと思います(今回で3回目!)。 過去ブログはこちら ⇒ 第1回「草燃える」 第2回「花神」 今回御紹介させて頂くのは、幕末の動乱から「西南戦争」・「紀尾井坂の変」に至る明治維新の激動と葛藤を主に薩摩の人々の目線で描いた作品『翔ぶが如く』(1990年[平成2]放送)を御紹介します! (放送当時、まだ生まれていたわけではないのですが💦) 本作は前回御紹介させて頂いた「花神」と同様に、司馬遼太郎さんの長編小説『翔ぶが如く』が原作になった作品です。 ただし、明治以降が舞台の原作に対して、ドラマは主人公の「西郷隆盛(演:西田敏行さん)」と「大久保利通(演:鹿賀丈史さん)」がまだ若かった時代から始まっており、「第一部(幕末編)」「第二部(明治編)」の二部構成になっています♪ (大河史上初の『二部構成作品』) 因みに「翔ぶ」という言葉は本来「とぶ」と読むことは出来ません(当て字ですから)。それにも拘わらずこの当て字を使っていることをよく目にするので本作の影響力は計り知れませんね♪ 本作は舞台が九州(「鹿児島」や「熊本」)ということもあって、九州出身の私にとってはかなり身近に感じられる作品です。父も「司馬遼太郎ファン」ですので西南戦争に関する史跡(熊本城や田原坂)をよく一緒に回ったものです。 本作の名シーンとして有名なものは、征韓の是非を議論する会議の場における「西郷と大久保の激論」でしょうね。 遣欧使節の一員として諸外国を視察し新たな国家体制の構築が急務だと痛感した合理主義者の大久保と、その留守を預かる中で新時代に取り残された人々の嘆きや怒りを一身に引き受けてきた情に厚い西郷は、たとえお互いを最大の理解者だと認めてあっていても激しく衝突せざるを得ませんでした。 (両者とも最期の瞬間は共に過ごした青春時代を思い出していました。(泣)) 議論が白熱する中で、普段は標準語を使っていた大久保も薩摩弁(鹿児島弁)に戻り、まるで若かりし頃のように激情をぶつけ合う二人の姿が非常に印象的です。 結局、政争に敗れた西郷は下野(鹿児島へ帰郷)するわけですが、それを告げられた大久保は「赤子にように始末が悪い!」と激怒します。それが二人の別れとなるわけです… かつて同じ夢を追いかけていたはずの幼馴染二人の悲劇的な決別は、「明治維新」という新時代を創造する一大事業の困難さを象徴するものだと思います。 その過程で生じる矛盾や歪みを二人はハッキリと理解しており、西郷に至っては「(新しい世の中を創る為に行った倒幕の戦で)もっともっと人が死ぬべきだった。公家も大名も士農工商全てを焼き尽くして、その焼け跡の中から新しい日本を築くべきだった。(要約)」と今の大河ドラマでは絶対主人公が言えないような「かなり過激なこと」を言っています(戦後の日本を彷彿とさせる台詞ですね)。 様々な役を大河ドラマで演じてきたことで有名な西田敏行さんですが、その懐の深い将器を有する好人物ながら、時に謀略も厭わず狂気じみた革命論を吐露する本作の西郷隆盛役が個人的には一番好きでね♪(会津を有する福島県出身の西田さん的には複雑な役どころだったみたいですが…) 本作には他にも、実務能力や先見性を評価されながらも急進かつ攻撃的な性格が災いして新政府内で孤立、後に反乱の指導者となる「江藤新平(演:隆大介さん)」。野心家で保身のためには同志も切り捨てる冷徹な面がある一方で、厳しい局面においては身分の低い公家から成り上がっただけの度胸・胆力を見せる「岩倉具視(演:小林稔侍さん)」。若い頃は軽率な面が目立ったものの、経験を積むうちに見識高く成長、後に「敬愛する兄・隆盛」と「尊敬する先輩・大久保」との板挟みで苦しむことになる「西郷従道(演:緒形直人さん)」など様々な魅力的な人物が登場しますよ! 是非御自身の眼でお確かめください! それでは今回はここで筆をおかせて頂きます。 これからも機会があったら好きな大河ドラマを紹介していきますね♪ それでは失礼致します! 〇(><)
『宮廷文化と民衆文化』読書メモ
歴史を学ぶものは動画なんか見ずにちゃんとした本を読むべきなのは当然のことなのですが、私は動画を作るために本を読んでばかりで、いつの間にか本を読むことを目的とした読書ができなくなっておりました。 そこで今回からは今後の読書モチベーションのために本を紹介していくこととしました。しかし、読書がはかどっていなかった私に紹介できる本は今のところこの以下の本ぐらいでしょうか。 『宮廷文化と民衆文化』世界史リブレット …薄い本です。今度はごつい本を紹介するので許して… 本書はブルゴーニュからブルボンまでの宮廷文化とフランスの近世民衆文化を取り上げて、その二者がブルジョワ階級の勃興で統合されるところまでを扱っています。とはいっても内容はほぼ宮廷文化で、民衆文化とブルジョワの説明はわずかです。私は民衆文化やブルジョワ文化などより宮廷文化に興味があったので全く問題ありませんでしたが、民衆文化側に興味を持たれている方にはお勧めできないでしょう。ただし18世紀の生活に付随した文化を勉強し始めるためならいいのではないかと思います。 さて軽く各章の内容をお伝えしますと以下のようなものです。 ①ブルゴーニュとウルビーノの宮廷 本章で宮廷文化の始まりは15世紀ごろのブルゴーニュであると述べられています。それ以前の宮廷文化、シャルル・マーニュやアリエノール・ダキテーヌと分けたのは武だけではなく文の力を有して形成された文化だからだとしています。晩餐はもちろん、音楽や蔵書、入市式などの儀礼において当時西欧において最も壮麗なことでブルゴーニュは知られていたのです。そのブルゴーニュに次いで紹介されるのはルネサンス期のイタリア宮廷であり、特にウルビーノを中心にしています。宮廷は王の住居であるだけでなく、それまでの修道院や教会に代わる文化の発信地でもあることが様々な部分から語られています。 ②フランスの宮廷 宮廷と言えばだれもが思い浮かべるバロックからロココの時代のヴェルサイユ。ベルばらの聖地です。ブルゴーニュやウルビーノが栄えていたころのフランスは、内乱やらペストやらで悲惨な状況でした。それが収まっても宗教改革による動乱が起こり、七転八倒の時代が続きました。そうした状況の中でも着実にルイ14世時代に花開く宮廷文化の下地が出来上がっていることを示しています。特に下積み時代のフランスに特徴的な移動宮廷の記述は興味深いです。そのあとは皆さんご存知の、ヴェルサイユに固定された宮廷文化の王道です。国王の行動がすべて儀式と化す、24時間舞台の上のような生活。そして収入源を求める貴族たちの阿諛追従。そりゃプチ・トリアノンに農場を作ってのんびりもしたくなりますね。 ←プチ・トリアノンです。こっちはヴェルサイユ宮殿。たまに来る分には豪華でいいところですが、ここで暮らせとなれば話は別。 ③民衆文化 民衆文化は普段の自分の周りでも何か片鱗が見えてきそうな内容です。不安から逃れるようにお祭りの時には騒ぎ、情けない男は集団でつるし上げて制裁する。暴力性が垣間見える部分もありますが、なんだ人間ってそんなに変わってないんだなと思えます。庶民本の普及で本が非日常を与える役割を担い始めたと書かれているところは、あぁ古き良き時代が去っていくのだなと郷愁を感じずにはいられません。 ④ブルジョワ文化による統合 本章はわずか4ページです。放埓な財政が生み出した買官制度により宮廷にやってきたブルジョワが、宮廷外にその高度な文化を持ち出していくというところを説明しているのですが、それがどうやって民衆文化と融合して現代文化になったかまでは説明してはいません。そこからさきは読者が調べる課題なのかもしれません。 と以上のように後半は記述が少ないのですが、その直後に参考文献が列挙されています。初学者にやさしい世界史リブレット、とりあえず何から読んだらいいか悩んだときにぜひおすすめのシリーズです。
戦時中の鉄筋コンクリートについて、お話します。
まず、鉄筋コンクリートとはなんぞや。 明けましておめでとうございます。2023年もよろしくお願いしたりしなかったりしますね。 そんな新年の挨拶もほどほどに、今回の主題である鉄筋コンクリートについてますは話しておきましょうか。 鉄筋コンクリートとは、コンクリートの芯に鉄筋を配することで強度を高めたものを指し、コンクリートは圧縮力に強い反面、引張力には弱く、一度破壊されると強度を失う一方鉄はその逆で、引張強度が高い反面、圧縮によって座屈しやすいが、容易には破断しない粘り強さ(靱性)を持つを両者を組み合わせることで互いの長所・短所を補い合い、強度や耐久性を向上させるものが鉄筋コンクリートであります。 これは現代の鉄筋コンクリート 戦時中の鉄事情 さて、そんな鉄筋コンクリート君ですが、戦時中はどうだったのでしょうか? 戦時中で鉄と言えば、ある程度ミリタリーや近代史を齧っている皆様でしたら、昭和16年に公布された金属類回収令による金属供出によって寺の鐘やら学校や公園やらの銅像が撤去されて溶かされて資源化、軍事転用されたというのは良く知っている事でしょう。 何を隠そう、戦前の日本は鉄鋼産業に問題を抱えていた国でした。 まぁ、仮想敵国である米帝から屑鉄を輸入していた時点である程度は察してください。 鉄鋼産業は、鉄鉱石を製錬して鉄を作る「製鉄」と、鉄鋼製品の元である銑鉄を加工して鋼鉄や特殊鋼を作る「製鋼」に分けられます。 そして、鉄鉱石を製鉄して鉄にするよりも、屑鉄を溶かして鉄にするほうが、ずっと安く鉄を作れます。 戦前の日本は、後者の製鋼はそれなりの水準でしたが、前者の製鉄はイマイチでした。 で、屑鉄を買ってくれば「製鉄」する必要が無かったので、日本は屑鉄需要がとても高かったのです。 実際、日本は鉄鋼は80%程度を自給していましたが、その元となる銑鉄の自給率は60%に届きません。 さらに、日本の製鉄産業は経営が苦しくて技術革新が進まず、その製品である銑鉄の品質もイマイチでした。 そんな中で、船、自動車、鉄道、建築材などで大量のスクラップを出し、比較的品質の良い屑鉄をたくさん出すアメリカからは禁輸、果てには戦争までしようというのです。頭を抱えたくなりますよね。 鉄不足の中での鉄筋コンクリート建築 なので戦時中の日本は鉄不足に悩まされました。それは戦時中に建てられた鉄筋コンクリート建築にも見るとこができます。 例えば、「戦争」で「コンクリートの塊」と言えばまず頭に浮かぶと思われるのが、トーチカ、特火点とか言われる奴ですね。 私は昔、北海道に住んでいたのですが、北海道はその土地の広大さからか、あまり戦争遺構が撤去されずに放置されているパターンが多く見られます。そのため、苫小牧や網走といった米軍の上陸が予想された海岸線には未だにトーチカが多く残っています。 北海道に今も残るトーチカ跡。こういうのが多いのが北海道のいい所である。 その中でも私は厚真町の海岸線にあるトーチカを5年ほど前に見に行き、天井に登ったりしたのですが、崩れた壁面からは一本も鉄骨が出ていない。 少し離れたところにあったトーチカの基礎らしき場所も鉄骨が30センチ間隔で1本ずつ出ているといった状況。完全に鉄不足から鉄筋をケチったり使用しないでこれらを乱造していたという切羽詰まった当時の状況がこういったところからも見て取ることができます。 これだと鉄筋の引張力と粘り強さの恩恵を受けられない訳ですから、強度の落ちたトーチカで米軍の砲爆撃に耐えられるのかとても心配です。 また、去年の夏に南相馬市に行った時……と言っても本来の目的は相馬野馬追と南相馬市博物館に静態保存されているC50形蒸気機関車を見に行くのが目的だったのですけれど。 南相馬市博物館に静態保存されているC50。大正の傑作8620形を再設計したものの、その優秀な点を再設計でほぼほぼ潰してしまった悲しい子である。 この103号機はC50の特徴の一つであった調子の悪い本省細管式給水温め器を取り外してあるようだ。 その南相馬市博物館には戦時中に製造されたコンクリート柱の断面があり、それには鉄筋の代わりに竹が骨組みとして使われていたのです。鉄筋ならぬ竹筋コンクリートです。竹のしなやかさを鉄筋の代用としようとしたのでしょうがそれでも強度は落ちているであろう事と、腐食に弱い事は想像に難くありません。 これが博物館内と、静態保存されているC50の隣に腰掛けとして置いてあるのです。 「こんな貴重なものを腰掛けにするだなんて……なんて贅沢なことをしているんだ」と思いながら腰掛けてきました。 いい歴史成分の摂取になりました。 C50の隣に腰掛けとして設置されている竹筋コンクリート。環状に空いた穴の部分に竹が通っている。 鉄道レールと鉄筋コンクリート建築 さて、交通面では同じく昭和16に、不要不急線と指定された鉄道は線路がはがされ、レール等の金属が軍事転用されました(札沼線や白棚線など) 鉄道レールは不要不急線から引っぺがされた後は、もちろん溶かされたものもあったでしょうが、レールは入ってしまえばまっすぐな棒。なので鉄筋コンクリートの鉄筋として建材に流用されたものもありました。 例えば、厚真町にある共和トーチカでは崩れたコンクリート壁面からレールが見えるところがあり、レールをそのまま建材として流用したのが分かります。 このように戦時中の日本は深刻な鉄不足に悩まされながら、あるものを節約したり流用したりして、今の建築基準ではお粗末と言わざるをえない鉄筋コンクリート建築をして祖国防衛をしようと奮闘していたのです。
『花神』はいいぞ。(おすすめ大河ドラマ紹介 第2回)
※今回は、とある大河ドラマ紹介文です。 ネタバレ注意! こんにちは、いのっちです! 年末の忙しい時期にも関わらず、私のブログを読みに来てくださって本当にありがとうございます! 「世界史べーた(仮)」開設からもうすぐ1年が経ちます。 先日はVtuber様との出張コラボ生放送が実現するなど、活動の幅が益々広がってきて非常に嬉しい限りです♪ 今日は私が歴史好きになった理由の一つ「大河ドラマ」の御紹介をさせて頂きたいと思います(季節感なし!)。 今回御紹介させて頂くのは、幕末の長州を描いた作品『花神』(1977年[昭和52]放送)を御紹介します! (例によってリアルタイムで視聴していたわけではなく、総集編を観たことがあるだけですが💦) 本作は司馬遼太郎さんの小説『花神』を中心に、『世に住む日々』『十一番目の志士』『峠』などの小説を組み合わせた物語が原作になった作品です。 主人公は原作と同じく日本近代軍制の創始者である「大村益次郎(村田蔵六)(演:中村梅之助さん)」です。ただし、本作は長州藩を中心とする群像劇なので、「吉田松陰(演:篠田三郎さん)」や「高杉晋作(演:中村雅俊さん)」など松下村塾周辺の人々についても大きく取り上げています。 ドラマの中でも、変革の時代は三種類の人間によって成されると紹介されていました(思想家:吉田松陰、戦略家:高杉晋作、技術者:村田蔵六[大村益次郎])。 因みにタイトルの「花神」ですが、「花咲か爺さん」という意味だそうです。幕末という短くも激動の時代に命を燃やして一花咲かせた人々を描いた本作に相応しいタイトルだと思います♪ 長州の村医者出身の村田蔵六が蘭学修行の為、大阪にある緒方洪庵の「適塾」(同窓には福沢諭吉・橋本左内などがいる)の門を叩くところから本作は始まります。 好学家で優秀だった蔵六ですが、特段野心があるというわけではなかったので、平穏な時代であれば故郷の町医者として一生を終えていたはずでした。しかし時代がそれを許しません。蔵六は技術者、そして軍人として故郷長州の動乱に巻き込まれていきます。 あと開明的で合理的な学者肌の印象が強い蔵六ですが、本作では少し違う一面を垣間見ることが出来るシーンもあります。 恩師・緒方洪庵の弔問の席において、蔵六は福沢諭吉に「なんで(蘭学を学んだあんたが、無謀な攘夷を主導している)長州なんかにいるんだ?」と問われす。 それに対して蔵六は憤然として答えます。 「攘夷の何が悪い!福沢のように物分かりのいい奴ばかりでは日本は滅びる。確かに俺たちは蘭学を学んだがそれがどうした。小さい国の癖に横柄な面をしている奴を討ち払うのは当たり前だ!(要約)」 ただの冷静な合理主義者ではない村田蔵六の熱い内面がほとばしる名シーンだと思います。(実際に『福翁列伝』に似たようなエピソードがあるとか) 他にも魅力的な人物はたくさん登場しますが、個人的なお気に入りはやっぱり「高杉晋作」ですね。 どこまでが史実なのかは存じ上げませんが、本作では高杉の破天荒エピソードがこれでもかというくらい採用されています。 例えば… ・将軍の行列にやじを飛ばす。 ・突然出家する。 ・講和会議の席で古事記を暗唱して相手の要求を有耶無耶にする。 などなど(これでもごく一部です) しかし、「強質清識凡倫に卓越す(吉田松陰)」「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し(伊藤博文)」と称された高杉晋作。 勿論ただの問題児というわけではなく、「維新回天の原動力」として要所要所で大活躍していきます! 個人的に一番好きなエピソードでは「功山寺挙兵」ですね。 京都での戦い(禁門の変)に敗れたうえに、列強の連合艦隊にも完膚なきまでに叩きのめされ、窮地に立たされた長州藩。藩の上層部は幕府への恭順を決定、隊の存続を優先する奇兵隊の同志たちもその方針に理解を示そうとします… Continue reading 『花神』はいいぞ。(おすすめ大河ドラマ紹介 第2回)
新規加入の敬仲です ~アイコンと加入目的について~
2022年秋から加入いたしました。中国屋の敬仲と申します。 アイコンとしている人物は梁啓超(1873 – 1929)。高校世界史においては、1898年の「戊戌変法」で師の康有為とともに登場します。 彼は思想家、ジャーナリスト、政治家、教育者、歴史家等々、多くの面を持っています。その中で一番の功績は、「近代化が必要だ」と当時の中国の人々に自覚させたことにあると考えます。 1895年に日本に敗れたことに端を発する変法運動から、1911年の辛亥革命にかけての16年間は激動の時代でした。政治・経済・外交の変化もさることながら、中国に欧米の思想・学問が堰を切ったように流入しました。 梁啓超は日本語でかかれた著作物を媒介として、欧米のあらゆる知識を得て、それを新聞雑誌の主筆として発信しました。同様のことは、孫文らの革命派もやっていました。政治的主張の発信では革命派が勝利したものの、知識の発信における影響力では梁啓超に及びません。 私が動画投稿を始めることを思い立ったとき、誰を手本にしたいか考えると、梁啓超をおいて他にありませんでした。 (アイコンに選んだ理由として、もちろん彼がイケメンだからというのもありますよ) 梁啓超の著書の翻訳には以下があります。 ・高嶋航 訳『新民説』平凡社東洋文庫 2014年 ・岡本隆司ら訳『梁啓超文集』岩波文庫 2020年 ※そのまえに 狹間 直樹『梁啓超:東アジア文明史の転換』岩波現代新書 2016年 を読もう! さて、実は私は歴史好きというよりも、古典好きというのが適切です。大学は中国古典を扱う専攻の出身です。(中国文学とか中国文化とか中国哲学とか東洋哲学とかのワードが名称に入っているところ) でも古典でとっつきにくいんですよね。中学・高校で地歴公民は得意だけど、国語の古文漢文はあんまり……って人も多いと思います。実際、言葉・文法がハードルですし、時代・ジャンルの偏りから、地歴・政経好きな人に魅力的なものは少なかったでしょう。 (古典に触れる大事なチャンス故に、勿体なく感じます。しかし他国や他ジャンルになると「国語」の枠から外れてしまうという問題もあります) この世界史べーた(仮)は「歴史を学ぶきっかけをつくる」「歴史の魅力を伝える」というのが主題ですが、ついでに古典も便乗させてもらおうと加入しました。 専門の中国ばかりになるとは思いますが、歴史理解の補助として積極的に古典を活用したり、古典の知識があってこその、思想史・宗教史等の動画を作っていけたらと思います。 (ブログの方もなんらかの形で中国に触れることになるでしょう)
栗田艦隊の反転について。お話しします。
~まえがき~ 以前、世界史べーたのマシュマロにこのような質問がありました。 戦後、米戦略爆撃調査団に対して「我々の主目的は機動部隊で湾内に入る目的は無かった」「(空母と輸送船が)両方いたら私は断然戦闘艦艇とわたりあったでしょう」という栗田中将の回答が全てを…続き→https://t.co/cJgagQuLrB#マシュマロを投げ合おう pic.twitter.com/FHUUeUHB3h — 世界史べーた(仮) (@sekaishibeta) July 31, 2022 これについてはツイートにもあるように、栗田長官は輸送船団と空母機動部隊を天秤にかけた結果。より価値のある空母を求めて艦隊を反転させたという訳です。 と言われても全然判断材料が足りないでしょうからそこらへんのお話をしていきましょう。 ~謎の反転。その真実~ 1944年10月25日0911時。サマール島近海。 第77.4任務群に属する「タフィ3」と称される護衛空母群との戦闘を終えた栗田艦隊旗艦大和は「逐次集レ」を命令。 大和からの命令を受けた各艦は終結を開始しますが、その中でも米軍機からの空襲は続いており。その規模は徐々に組織だったものになってきていました。 レイテに再度進撃を開始した栗田艦隊ですが、進撃中も空襲は続き、栗田長官の懐疑心は最高潮を迎えていた事でしょう。 なにせレイテ湾の敵情が全く分からないのです。 『サマール沖の戦闘中に目指す輸送船団は退避してしまったのではないか?』 『前日の0650時に最上艦載機の偵察情報であった戦艦4、巡洋艦2からなる戦艦部隊がレイテ湾で待ち構えているのでは?』 『空襲が組織的になってきたのは三群あると思われる敵空母機動部隊の残り二群が向かってきているのではないか?』 この時、小沢艦隊がハルゼー機動部隊を北方に誘引することに成功した報は栗田艦隊には届いておらず、サマール沖で撃破した空母部隊は正規空母の機動部隊の一群と考えられていました。 そして、ここで決定打となる入電が1100時に入ります。「ヤキ一カ」電です。 「0945スルアン灯台ノ5度113浬二敵機動部隊発見」 この南西方面艦隊からの情報に栗田艦隊司令部は大いに揺れました。 もととり「空船(輸送船)との心中は御免」という空気が艦隊首脳部に流れており、目指すレイテも昨日の最上機の情報以外、敵情が一切わからない中での機動部隊発見はまさに闇に差し込む唯一の光と言ってもいいでしょう。 例え戦死するなら艦隊決戦に死に場所を求めていた。栗田長官、小柳参謀長、大谷作戦参謀らによる協議の結果、艦隊は北方の敵艦隊に向かう事を決意し、未だに対空戦闘中だった1236時、栗田長官は「第一遊撃部隊ハ『レイテ』泊地突入ヲ止メ『サマール』東岸ヲ北上シ敵機動部隊ヲ求メ決戦爾後『サンベルナジノ』水道ヲ突破セントス」と打電。 ここに歴史は決したのであります。 ~もしも、栗田艦隊がレイテ湾突入をしていたら~ これはIFのお話です。と言ってもざっくりとしたのは以前にツイッタで話しましたが…… まぁ、あそこで栗田艦隊がターンしないでレイテ湾に突入しようにも、突入前に西村艦隊を打ちのめしたオルデンドルフ艦隊とぶつかるのは必死。 先のサマール沖海戦の結果も加味して日本艦隊が勝てたかというと……まぁ無理寄りでしょうなぁ https://t.co/X1XsCe6ZOt — 肉のZEKE22 (@zeke_22) July 31, 2022 それじゃあ、彼我の戦力差など夢物語では語れない、現実的な架空のお話をしていきましょうか。 さて、サマール沖海戦の後で栗田艦隊に残されていたのは 戦艦 大和、長門、金剛、榛名 重巡 羽黒、利根 軽巡 能代、矢矧 他、駆逐艦8隻といった陣容でした。 栗田艦隊には他にも重巡の鳥海、筑摩、鈴谷、熊野がいましたが、いずれもサマール沖海戦の米軍機による空襲や駆逐艦の雷撃により落伍または撃沈しており、鳥海には駆逐艦藤波、筑摩には野分が警戒艦として派遣されていました。(後に落伍艦、警戒艦は全て米軍の攻撃で撃沈している) その一方で、対峙するであろう米軍は半日前にスリガオ海峡で西村艦隊を撃破したジェス・B・オルデンドルフ少将の上陸支援艦隊が待ち構えており、TF78とTF79から成っており、その陣容は 戦艦 ミシシッピ、メリーランド、ウェストバージニア、ペンシルバニア、テネシー、カルフォルニア 重巡 ルイヴィル、ポートランド、ミネアポリス、シュロップシャー(豪海軍) 軽巡… Continue reading 栗田艦隊の反転について。お話しします。
紫電改part1 参考資料兼一部詳しく
紫電改part1参考資料兼一部詳しく 今回は紫電改解説動画part1の参考資料や動画ではマニアックすぎた内容の一部をご紹介します。 参考資料 ・碇義朗「最後の戦闘機 紫電改 起死回生に賭けた男たちの戦い」光人社 ・野原茂「海軍局地戦闘機」潮書房光人新社 ・海鳥の今までの取材内容一部 非公開の内容 紫電改の改造前機「紫電」では元になった十五試水戦(強風)から多くの変更点がありました。こちらは動画でご紹介しました、発動機、カウリング形状、側面形、垂直尾翼周辺など多くの変更点がありましたが動画で紹介していないものでは、「水銀式センサー自動空戦フラップ」、「操舵比変更装置」はさらに改良を重ねたものを搭載していました。 水銀式センサー自動空戦フラップ 水銀式センサー自動空戦フラップとは、フラップを空戦時に下ろし揚力を高め、旋回半径を小さくする、すなわち運動性能を向上させる空戦機動を”自動的に”最適の舵角をとれるようにしたものです。 作動のメカニズムは、発信機と称した、センサーの下部にある水銀槽の中の水銀が、ピトー管から入る静圧、動圧、および、旋回時の機体にかかる重力によって、上方に伸びる硝子筒の中を上下動します。 この上下動により硝子筒内の二つの電極に水銀が触れると電流が流れ、フラップが作動するメカニズムになっていました。 ちなみに、フラップの最大下げ角は30度となっており、零戦の60度に比べると半分ほどしかありません。 この自動空戦フラップに加え、川西技術陣が、操縦系統に採り入れたメカニズムがもう一つの技術「操舵比変更装置」です。 操舵比変更装置 通常、航空機は高速になるにつれ、各動翼の受ける風圧も強くなり、操作が重く、強い力が必要となります。速度が上がれば舵の動きが少しでもよく効くようになります。 逆に低速飛行時は、舵の受ける風圧が弱いと、操作が軽く、強い力を必要としなくなります。しかし、舵を大きく動かさなければ舵は効きません。 零戦の場合、各操縦索を通常よりあえて細めにし、剛性を低下、つまり伸びやすくし、一定の操縦感覚にしていました。 これを零戦より1tも重い紫電、紫電改で採用するのは不遇であったので、川西航空機は「操舵比変更装置」を作りました。 これは、操縦桿、および方向舵踏棒と昇降舵、方向舵操作索の間に、油圧で連動桿の固定位置を移動できる操舵比変更部を組み込み、フラップの動きに連動し、離着陸時(低速)、飛行時(高速)の二段階に切り替わるようにしたメカニズムです。 これにより、低速飛行時は操縦桿。方向舵踏棒を少し動かすだけで大きな舵角がとれ、高速飛行時はその逆になる、まさにパイロットにとって理想的な操舵感覚が得られました。 実はこれらの「自動空戦フラップ」、「操舵比変更装置」は当時の欧米各国に例がなく日本航空技術として十分誇れるものでした。すごいね 武装 強風 7.7mm機銃二梃 20mm機銃二梃 紫電、紫電改 20mm機銃四艇 上記のように20mm機銃四艇に武装が強化されていました。 まとめ 紫電改part2は紫電→紫電改まで行ければいいなって思ってます。頑張ります。 今週土曜日は神戸に撮影に出かけ「神戸戦跡巡り動画」を作ります。こちらはリアル映像なので私のチャンネル「海鳥のカフエラテ(カフェラテ)」で投稿します。こちらのチャンネルでは毎週土曜日21時から競馬予想配信してるので是非~ 紫電改part1もぜひご覧ください!