好きな歴史上の人物というのは、好きな架空のキャラクターと同じではないか?敬仲
「歴史好き」と「歴史学者」の違い
※随筆です。敬仲の他の記事と異なり、本記事には学術的根拠はありません。
先日ツイッター(現X)にて、ある興味深いツイートを見ました。
ある歴史研究者の引用の言葉の引用として歴史学者は歴史上の特定の人物への尊敬、心酔、共感といった個人への崇拝や愛着から距離を置くべき
と書いてあったのです。
(投稿主様および、発言主の歴史学者の方への迷惑となるやもしれませんので、リンクは控えます)
さらに投稿主様はこれを、「歴史好き」と「歴史学者」の違いとおっしゃっています。
この両者の違いは以前に「歴史が好きだから史学科に行く?」という配信をしたように、当チャンネルにとって重要な議題ですね。
さて、ツイッターに戻ります。これを見た瞬間、私は「その通りだ」という賛同と「それはどうかな?」反対という全く別方向の感情が同時に生じました。
それは何故か?
まず私は「文学」・「思想哲学」の徒であって、「歴史学」の徒ではありません。
「歴史好き」と「歴史学者」の中間といか、この両者のX軸上は中間ですが、Y軸方向にずれているとでもいいましょうか。
歴史上の人物が登場する古典や、歴史上の人物の著作物を好みます。
歴史学の研究成果を参照しますし、歴史学に片足を突っ込んだものを研究対象とすることもあります。しかし特定の著作者、あるいはその著作物を研究対象とすることが基本となります。
よって、ある文学者の作品を正確に理解する、ある思想家がなぜその思想を着想できたのか探る、そのためには尊敬や心酔はともかく、少なくとも「共感」は必要ではないでしょうか。どういう空間的・時間的で状況でそれを書いたのか探るわけですから。
そもそも、研究対象の人物の著作を全部読み込むというような研究の前提となる作業をするには、愛着がなくては不可能でしょう。その著作物を素晴しいと思っていなければ、丁寧には読めないでしょう。「共感」には誤読を防ぐ役割があります。
その故に、「歴史学者」といえど、特定の個人に対して思い入れを持たないことが100%正しいことと言えるのかな?という疑問が生じました。
一方で「歴史上の特定の個人」を好きだというのは、適切な研究姿勢であるためにという以前に、極めて不確かなことだと考えています。
「好きな歴史上の人物」は誰?という質問
私はたまに「好きな歴史上の人物」を聞かれることがあります。歴史ファンほか、人から歴史に詳しいと思われている人なら一度は聞かれたことのある質問でしょう。
(人物というか「武将」という聞かれ方が多い気がしますが)
この質問には非常に回答に困ります。
おそらく聞く人は「好きな歴史上の人物」について、偉大な帝王や武将を名前を期待する方するでしょう。しかし、そうした人物の事跡はともかく、日常での発言や行動は様々な脚色された話が多量にくっついていて、その人の実態を把握することは困難です。本当に実態をつかみ取れるのはここ数十年の人物だけではないでしょうか。
また、「好きな歴史上の人物」へいだくイメージを、小説やドラマといったフィクションを排除してもつことは難しいのではないでしょうか。
つまり、「好きな歴史上の人物」というのは「好きな架空のキャラクター」とほとんど変わらないのではないでしょうか?
好きな人物はフィクションにまみれているが、著作物には当人が現れているのでは?
具体例をあげてみましょう。私は中国文学は大学での専攻領域の一部であり、かつ『三国志演義』のファンです。
故に「好きな三国志の武将は?」とたまに聞かれるのですが、
小説として聞いてきているのか、歴史として聞いてきてるのか毎回迷います。
そして迷ったときは「曹操」と答えます。
曹操なら小説のキャラクターとしても、歴史上に実在した人物としても好きと言えるからです。
『三国志演義』はもちろん、『世説新語』に面白い話として紹介される曹操は架空のキャラクターになるでしょう。
陳寿の『三国志』とその注釈として引かれる書物に登場する曹操も、どのていど脚色されたものかわかりません。
しかし、彼の著作、詩は本物です。実在した詩人としての曹操のことを好きだということができます。
私にとって儒家思想は、批判的な見方を伴う研究対象であると同時に、近代以前に広くおなわれたよう修身としても学ぶ対象でもあります。
とは言え自身の著作がない孔子や、そもそも創造された堯舜のような聖人たちを私は「尊敬する歴史上の人物」としてあげることはできません。
しかし優れた著作のある朱子や王陽明は私にとって「尊敬する歴史上の人物」ということができます。
(彼ら自身というよりは、彼らの考えたもの、作ったものへの尊敬といった方が適切かもしれません。)
とは言え『荘子』には「書物に書かれたことなど、『古人の糟魄(このりカス)』だ」という説があります。
著作物は哲学者、文人の全てを詰め込んだものではなはありません。神髄といえるものがどれだけ書物にあらわれているかは不確かです。さらに現代に伝わる過程で欠けたり、他人が付け足したりということもあります。
好きな歴史上の人物、尊敬する歴史上の人物というのは、好きな架空のキャラクターと同じく、みんなが見たい偶像を見ているだけかもしれませんね。それを言ってしまえば、同じ時代を生きる人、直接言葉を交わす身近な人さえも、全てを理解することはできないのですから。
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