フリードリヒ=ヴィルヘルム1世kunai_S.N.
兵隊王
フリードリヒ=ヴィルヘルム1世は後代のフリードリヒ2世の大きな功績に隠れていますが、プロイセンという国の力を増やした王様です。けれども、戦争という華々しい功績がないためか、世間的にはあまり有名ではないかもしれません。
兵隊王は、あだ名が表しているように軍隊の強化に全力を注ぎました。
・カントン制(農民徴兵区域)
・将校団の形成
主要な功績はこの二つだと思います。これに加えて、8万人の軍隊を維持するだけの財力をつけました。詳しくは動画を見てもらった方が早いので、省略します。
動画以上の情報はなんだかんだ言って専門の書籍を当たるのが一番だと思うので、下に動画で使用した本を載せておきます。
年表
1688年 生誕
1701年 プロイセン公国が王国になる
1713年 プロイセンにおける王に即位
1715年 大北方戦争に参戦
1720年 スウェーデンと講和
1723年 総監理府を設置
1730年 皇太子逃亡事件
1732年 ザルツブルクから追放された新教徒を東プロイセンに入植
1733年 カントン制
1740年 崩御
(4月7日追記、始まり)
動画の台本
動画の台本を、この場を借りて載せておきます。
注意点ですが、台本なので読みやすいように作ってありません。
所々編集中にセリフを変えてる場所もあると思います。
また、ボイロちゃんに読んでもらう関係上、どうしても句読点が多い文章になってます。
導入
『君主は国家第一の下僕である』
これは啓蒙君主フリードリヒ大王の言葉です。
フリードリヒ大王はシュレージェンと西プロイセンを獲得し、オーストリア、フランス、ロシアなどと戦った七年戦争にも勝利しました。
さて、今回紹介する人物は、そのフリードリヒ大王のお父さん、「プロイセンにおける王、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世」です。
前置き
フリードリヒ=ヴィルヘルム1世とは1713年から1740年に在位していたプロイセンという国の王様です。
治めていた領地はこの地図の通りです。
現在のドイツからポーランドを中心に、東西にロシア、オランダあたりまで。
けれど、プロイセンという地域は東の方で、先祖代々受け継いできたベルリンを中心としたブランデンブルクという場所の王様ではないのです。
この経緯だけで動画一本作れるので詳細は省略しますが、簡単に説明すると、王様という称号があまりにも尊すぎたので上司の神聖ローマ皇帝から許可が出なかったということです。
「まあ、辺境の地域、プロイセンにおける王様なら名乗っていいよ」と言われ、プロイセン公国は、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世の先代フリードリヒ1世の時代、1701年に王国になりました。
軍隊について
この王様の功績を一言で言うなら「国庫を潤沢にした上で、軍隊を巨大にして維持した。」ことでしょう。
なにぶんこの功績から、あだ名として兵隊王と呼ばれています。
即位時時点で3万8千人だった常備軍は、代替わりまでに8万1千人にまで膨れ上がりました。
しかし、当時の軍隊というものは基本的には傭兵を雇って戦わせていたため、ほとんどが外国人ということもありえました。
それは、プロイセンも例外で無く、お金が払われないとその辺で暴れたり、逃げ出したり、裏切ったりする可能性があるのです。
そこで、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世は指揮官的存在である将校を、自国の貴族だけで構成しようと考えました。
将校育成のため、貴族の次男以下を「幼年学校」へ強制的に放り込み、任命も国王が行うこととして、プロイセン将校団は国内の貴族によって独占されることになったのです。
さて、軍隊の頭脳はなんとかなりましたが、一番数が必要な兵士はどうやって集めたのでしょうか?
今まで通り、将校が国内外で兵士を買いに行ったり、強そうな若者をタコ殴りにして誘拐したりしていましたが、それだけでは約8万という巨大な軍隊を作ることはできませんでした。
あるとき王は、貴族に奉仕している農民がいることに気がつきました。
プロイセン貴族は、基本的に農民を奴隷のように統制し、農作物を輸出することで生活していたので、ちょうど将校団が貴族で構成されているのだから、その貴族に仕えている農民を強制的に入隊させればいいじゃない、と考えたのです。
そのため、1733年に全国を徴兵区域に分け、各連隊に割り当てて農民を徴兵させるようにしました。
その結果、軍隊の3分の1から2分の1が自国民で構成されることになりました。
まあ、現代みたいにほとんどが自国民ってわけにはいかないんですけど。
また、軍隊を維持するための工夫として、一定の訓練期間後に農作業のための休暇が与えられたり、欠員が出た場合の補充のために登録制度が整備されました。
200万人と少し程度の人口を持つプロイセンが、8万人もの常備軍をこしらえることになったのは、戦争続きで大変だったんだろう、と思う人がいるかもしれません。
けれども、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世の治世において大きな戦争があったのは、1715年から参戦した大北方戦争のみでした。
この軍備増強はひとえに、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世が軍隊好きだったと言えるのではないでしょうか?
これを伺わせる例として、彼は1725年から常に軍服を着用したことや、彼自身が直接指揮を取る「巨人軍」という娯楽部隊を訓練していたことが挙げられます。
それでは、次に増え続ける軍事費を、どのようにして賄ったのかについて話しましょう。
お金について
先代のフリードリヒ1世は某太陽王、ルイ14世の大ファンで、豪華な宮廷生活をして、文化と芸術にお金を注ぎ込みました。
それとは対照的に、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世の生活は質素なもので、即位式の時からそれは現れていました。
宮廷費を切り詰め、役人の怠惰には相応の罰で持って対応しましたが、軍事支出は常に国家予算の7割から8割を占めました。
こんなだから、『国が軍隊を持つのではなく、軍隊が国を持っている』とか揶揄されるんですよね。
それはおいといて、王はただの倹約家ではなく内政的に優れた人物でした。
即位時点で440万ライヒスターラーだった収入は、26年後に692万ライヒスターラーまで増えました。
ちなみに領地はあんまり増えていませんからね。
今回は増収につながった政策を二つ紹介します。
一つ目は、東プロイセンへの新教徒の入植です。
これはフリードリヒ=ヴィルヘルム1世のお爺さん、通称「大選帝侯」が発した「ポツダム勅令」から続いているものです。
一連の新教徒難民の受け入れが、資源が少ないプロイセンの産業の発達に貢献したと言えるでしょう。
そのため、プロイセン経済は基本的に保護貿易であり、外国の商品は自国の商品と比較して、概ね2倍程度の価格になるように関税をかけました。
二つ目は、貴族や農民への徴税の合理化です。
農村からの税金は、貴族の郡議会から支払われたため、実態がよく分かっていませんでした。
そのため王は、農地や建物の広さや収穫量を中央で管理し、豊かさに応じて課税額を決めようとしました。
けれども、まあ、当然反発がある分けですが、それもそのはずで、書類上の農地の量は調査前から、1.5倍に増加しています。
つまり、農地を隠している人があまりにも多かったんですね。
特に、東プロイセンの抵抗が激しく、当初は改革が進みませんでした。
そのため、王は少しの改革も許さない東プロイセン貴族にキレて、軍隊を送ると恫喝して話を進めました。
さて、ここで「ユンカー」という言葉が出てきましたね。
プロイセンを理解するためにはエルベ川以東特有の貴族階級である、ユンカーを理解しなければならないでしょう。
ユンカーとは、農奴制を施行して、西ヨーロッパ諸都市の食料需要を満たすために発展した大規模農場を経営してる貴族のことです。
この農場領主制を「グーツヘルシャフト」とも言います。ユンカーは領地の裁判権や警察権でもって農民を監督し、ルター主義が広がってからは宗教を使って精神的にも農民を縛りました。
また、ユンカーに限らず貴族は、プロイセン王国の官僚組織に入り込み、無視できない権力を持っていました。
そのため王は、官僚組織から貴族を減らして将校という名誉職に放り込み、有能な人物を漸次的に採用することになったのです。
また、しばしば対立していた行政機構の改革も推し進めました。
元々は、直轄地管理を担当する財務総管理庁と軍隊と租税を担当する軍事総監察庁が、それぞれの利益のためにたびたび衝突していたことがきっかけでした。
王は、1723年にこの二つの組織を解体して、上位組織として総監理府を、その下位組織として軍事御料地庁を設置しました。
行政改革は概ね成功し、プロイセンが絶対主義へ進むための地盤となりました。
ただ、国王の手足として官僚組織は整備されましたが、地方単位以下の行政は以前と変わりませんでした。
「グーツヘルシャフト」を基本とした小さな支配をするユンカーという構図は維持されました。
一連の改革によって、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世は、一千万ライヒスターラーと8万の軍隊を次代のフリードリヒ2世に託しました。
人柄について
一般的な評価は、軍事的で荒々しい性格であったとされています。
それは、実子のフリードリヒとの関係にも現れています。
フリードリヒ=ヴィルヘルム1世の性格の一端が現れているエピソードとして、皇太子フリードリヒの逃亡というものがあります。
フリードリヒはフルートと読書と哲学が好きな人物であり、父と対立していました。
1730年に皇太子が友人二人と共にイギリスへ逃亡を図ったとき、王はその計画を知り皇太子と友人一人を捕まえました。
非常に憤慨した王は、その友人の首をフリードリヒ自身の目の前で切り落とした。
と言う話です。
他には、会議を無断欠席した役人に半年間の給料を没収したり、下町で談笑している女性を見て、女たちは糸を紡げと命令したりと。
この性格は軍隊にも持ち込まれ、プロイセンの兵士は鞭と棍棒によって、規律と服従を徹底的に叩き込まれました。
戦争について
フリードリヒ=ヴィルヘルム1世は長い治世で軍隊を強化してきましたが、実際に戦争へ参加したのは大北方戦争だけでした。
もともと、大北方戦争は1700年から続いていたロシアとスウェーデンの戦争で、プロイセンはロシア側で1715年に参戦しました。
参戦後、すぐにシュトラールズント要塞へ兵を進め、まもなく陥落させました。
その数年後の1720年に、スウェーデンと単独講和をして、プロイセンは西ポンメルンの一部を獲得しました。
おわりに
以上が、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世の概略です。
この王様個人を専門に取り扱った日本語の資料が見つからなかったので、通史本から解説させていただきました。
さて、世界史B用語として押さえておくべき単語は、「ユンカー」「グーツヘルシャフト」「兵隊王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世」あたりでしょうか。
あだ名は、書籍によって「兵隊王」「軍隊王」「軍人王」などのバリエーションがあります。
こんなところで、今日の解説は終わりです。
ここまで見てくださってありがとうございます。
(4月7日追記、終わり)
参考文献
下に色々書いてありますが、私が動画を作成するにあたって主に参考にした本は、『世界歴史体系ドイツ史2』です。財政関係のデータの引用元は『ドイツ財政史研究』から使用しました。前者の本は、歴史の教科書を出版されている山川出版社の本で、題名のごとくドイツの歴史について古代から現代まで解説しているものです。その他は、なるべく一つの文献だけを信じないようにするためのものなので、より詳しく知りたい方はこの二冊を読むだけでも十分だと思います。
もっと詳しいものはないとかと言われると、ドイツ語の本とかを挙げられたら良いのですが、私がドイツ語や英語を読めないので日本語文献のみ掲載してあります。
木村靖ニ・岸本美緒・小松久男『詳説世界史研究』山川出版社 2017年
斉藤整『世界史B一問一答【完全版】2nd edition』ナガセ 2017年
セバスチャン・ハフナー、川口由紀子訳、魚住昌良監訳『図説 プロイセンの歴史』東洋書林 2000年
成瀬治『朕は国家なり』(大世界史13)文藝春秋 1968年
大野真弓『絶対君主と人民』(世界の歴史8)中央公論社 1975年
成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史体系ドイツ史2』山川出版社 1996年
亀井高孝・三上次男・林健太郎・堀米庸三『世界史年表・地図』吉川弘文館 2021年
久保清治『ドイツ財政史研究』有斐閣 1998年
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