19世紀後半に中国に銀が入るようになったワケチレキスキー

18世紀後半に、アジア海域で盛んに用いられていた銀貨は、スペイン領メキシコで鋳造された八レアル銀貨 (別名ドル) でした。乾隆時期の清の好景気は、海外貿易の収支決算が黒字で、スペイン銀貨などが国内に流入していて貨幣が豊富にあったことが背景にあると考えられます。清代に流通していた貨幣は、銅貨と銀でした。清朝は、比較的少額の取り引きに用いられる銅貨だけを鋳造していました。

これに対して、清朝は銀貨を鋳造せず、銀は塊にして用いられ、その価値は主に純度と重さに基づいて決まっていたのです。ただし、スペイン銀貨は、中国市場で歓迎されて、ややプレミアムがついて高めに評価されていたようです。19世紀初め、世界的に銀貨の不足が問題となり初めていました。その理由については、諸説があって論争が続いています。一説では、当時 最大の銀産地だったラテンアメリカのスペイン領において独立運動が進んで、銀の生産や銀貨鋳造に影響があったとも指摘されています。

こうして、広州で茶などを買い付けていたイギリス商人は、銀貨の入手が困難になり、代わって禁制品のアヘンを密輸しようとしたのです。南京条約の後に上海などが開港されたあと、決済手段としての銀が足りず、中英貿易が物々交換 (バーター交易) によって行われることもありました。しかし、19世紀半ばにカリフォルニアおよびオーストラリアで金山が発見されると事態が大きく変わります。

欧米では金貨も用いられるので、金が豊富にあれば銀はそれほど必要ではなくなります。しかも、銀の世界的な産出量も回復してきました。このようななか、中国では依然として銀を貨幣として用いていたので、銀は中国に集まってきやすいことになりました。19世紀後半には、銀の価格は下落していくので、銀を貨幣とする中国からの輸出には有利で、特産品 (茶・生糸)の貿易も順調に進みました。

それでも中国の貿易収支は赤字だったものの、欧米による投資や華僑による送金のため、結局は、中国に銀が流入することになったのでした。このように銀を貨幣として用いることは、1930年代前半まで続きました。1935年、国民政府は幣制改革を行い、銀ではなく特定銀行の発行する紙幣 (法幣) を流通させることで、新たな貨幣制度を作ろうとしたのでした。

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