ヤンデレの道真好きに徹底的に恨まれて眠れない防府天満宮縁起※(米印)

道真以外道真じゃないの

 こんにちは、※(米印)です。
 ひょっとしたらご存じの方もいるかもしれませんが、実は私、菅原道真が大好きなんです。
 それはもう、世界史べーた(仮)で最初に出した動画がこれですもの。

(ただ、一応免罪符として置いておきますが、私はあくまで「好き」なだけで専門家とかではありません。その点は十分ご注意ください)
 

この漢詩……道真のじゃないよね。誰の?

 さて、そこで問題になるのが海鳥さんのこのブログ記事です。海鳥さんは旅行に際して防府天満宮を訪問されたようでして、その由緒などを載せています。まだ読んでいないという方はぜひぜひ。
 天満宮の参拝者が増えるのはいち道真ファンとしてとっても嬉しいことで、去年のくないさんの太宰府天満宮訪問を聞いたときと同じく踊り狂いました。
 
 ところが、落ち着いて肩で息をしながら改めて記事を読んでみますと、そこにはこんな文がありました。

  • 「此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ」

 頬を冷や汗がつたいました。「これ、知らない」と。
 言葉遣いや音の数からして、和歌ではなさそうです。それなら漢詩か、しかし見覚えがない。「菅家文草」や「菅家後集」に収録されている漢詩なら、見かけたことくらいはありそうなのに……
 瞬間、脳内に死ぬほど愛されて眠れなくなりそうなどこぞのヤンデレがインストールされ、「道真のこと世界で一番わかってるのは私なの! 他の誰でもない、私!」と叫び始めます。いやさすがにそれは思い上がりにもほどがある。ガチ研究者とかに勝つのは無理じゃん。そも専門家じゃないし。ただのファンですら私より上がいくらでもいるし……
 
 ともあれ、脳内のヤンデレ妹(妹要素どこ?)をなだめるために、私はこの文について調べなければならなくなったのです。
 

道真は優しくてかっこよくて、でもちょっと脚色が多すぎるところはわかってた

 最初に元文を確認してみましょう。防府天満宮さんのHPによりますと、「九州大宰府への西下の途中」に、「防府の勝間の浦に御着船」し、「『此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ』」と願ったのだといいます。
 つまり、昌泰の変により左遷された際のものと考えるべきでしょう。
 
 あれ? 「御着船」なの? 陸路じゃなくて……?
 早速雲行きが怪しくなっていますが、ともあれまずは一般のご家庭にある川口久雄校注『菅家文草 菅家後集』を引っ張り出してみます。
 道真の左遷後ですから、もし収録されているとすれば年代的に『後集』しかあり得ません。
 しかして、川口本を見る限り、昌泰四年(左遷はその年初)の最初の詩は「自詠」で、

  • 離家三四月

とあるのですが、「離家」(=左遷)から数か月経っていると言っているわけで、これは時期的にも既に大宰府に着いてから詠まれたものと思われます。
 実際、他の詩を見てもそれらしいものはありません。したがって、『後集』には載っていないことがはっきりしました。
 
 次に確認すべきは『大鏡』です。大鏡も地味にいくつか漢詩を載せており、有名どころでは「一栄一落是春秋」(一応川口本も載せている)はこちらに引きます。
 が、駄目……っ! やはりそれらしきものはナシ。念のため和歌も確認しましたがやはり無い。
 
 ひとまず、脳内ヤンデレ妹は「やっぱり私の知らない詩……」と、お兄ちゃん(道真)の浮気を恨みつつも、自分の記憶違いではないことの安堵をわずかばかり含んだ声色に変わりました。よしよし。この調子で頼むぞ。

でも菅家伝さんって面白いっていうより信頼性がないよね

 薄々察していたのですが、やはり『後集』や『大鏡』にはなかった。実はこの辺であのツイートをしています。ヤンデレ妹を必死に抑えながら。
 となると、次に見るべきはおそらく菅家伝。なお、「菅家伝」というのは俗称でありまして、基本的には『北野天神御伝』というものがそう呼ばれます。
 しかし、残念ながら私のような一般家庭にはそんなものは置いてありません。デカい図書館か逸般の誤家庭を訪ねて見せてもらうほかない。
 ちょいと出かけまして、一番参照される(と思われる)真壁俊信校注の神道大系本(『北野』(神社編11))を用意しました。
 
 さて、分厚い本をひっくり返してみた結果は……ない。ここにもない。念のため頭から後ろまで漢詩は全部チェックしたのにそれっぽいものがひとつもない。
 脳内ヤンデレ妹はこんらんしている!
 
 いや、まぁこれも薄々気づいていたんですよ。防府天満宮の話なんだから防府天満宮の縁起読まなきゃ出てこないかもな~って。なので、読みます。読みました。
 
 用意したのは『防府天満宮縁起集』、ここに『松崎天神縁起絵巻』の詞書が載っています。
 で、パラパラめくって漢詩らしきものを探すと……ない、ない!? マジで?
 

そんなの道真じゃない!!

 ヤンデレ妹がいまにも暴発しそうなのですが、なんとかKOOLになって考えます。
 こういうときは元文に戻るのがセオリー。「此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ」ともういっぺん睨めっこをしてみます。
 
 にーらめっこしーましょ。わーらうっとまっけよ。
 
 ……これ、ほんとに漢詩か?
 いや、これまで「道真と言えば漢詩、漢詩と言えば道真」という先入観で、てっきり道真の残した漢詩が引用されているのだと思っていましたが、よくよく考えてみるとそんなに漢詩っぽくない。
 そも道真の漢詩ならもっと綺麗なはずです。なんか野暮ったい。いや私に漢詩を見る目があるわけじゃありませんが。
 
 となると、地の文のところにあるかもしれない。いやまさか……
 なんて思いながらもっかい松崎天神縁起詞書を頭から精読してみると……あった、巻六にありました。ちょっと長いですが段落ごと(つってもおおもとは絵巻なので段落なんてないんですけれども)引用してみます。

  •  さる程に防州勝間の浦につかせ給ける。ひと夜の御たびね、あやしのあまのとま屋、御目なれぬ程すまゐ、たとえむかたなきさまなれば、いとゞつきせぬ御涙にかきくれさせ給へり。此地いまだ帝土をはなれず、願ば居をこの所にしめむと御ちかひありけるにや、光明海上に現じ、瑞雲酒重山の峯に聳て、奇異の瑞相化現しければ、時の国司をはじめて渇仰の心肝に銘じ、隨喜の思ひ感を催して、海浜にのぞみて是を拜見しあへり。

 ヤンデレ妹もご満悦。若干の振り仮名の違いなどはありますが、ここが元ネタと見ていいでしょう。念のため『防府市史』も読んで確認してみても同内容です。漢詩でもなんでもなかった。
 どころか、「と御ちかひありけるにや」と書かれているだけでありまして、訳せば「~という願いがあったのだろうか」くらいの意味です。道真の言葉ですらない。ヤンデレ妹はようやく落ち着きました。
 いやこれ、公式HPに「と願い九州へと旅立たれました」や「道真公の願われた通り」なんて書いてるのはちょっとだいぶ言い過ぎなのでは……
 

それで、お兄ちゃんがなんでこの船持ってるの?

 ところで、防府天満宮のHPや由来書などを読んでいて、ヤンデレ妹が気になったことが2点ほど。
 第1に「御着船」、道真は船で防府にたどり着いたのか? という問題です。
 第2に、本当に道真は防府にとどまったのか? という問題です。
 
 まずは船の問題から行きましょう。道真の左遷経路ですが、残念ながらこれは研究が進んでいません。概ねの研究者は「陸路メインでは?」という主張をしていますが、あまりはっきりとしたことがわかっていないというのが実情です。
 
 当然、道真の話をするわけですから、道真の漢詩から話をはじめましょう。
 「敍意一百韻」には、左遷時のことを回想した部分に、以下のようにあります。

  • 伝送蹄傷馬
  • 江迎尾損船

 駅についても蹄の痛んだ馬にそのまま乗り続けるほかなく、港についても船尾がもうぼろぼろの船しかなかったと。あまりにも痛ましい描写で、もう涙で視界がぼやけてしまいますけれども、そんな辛い目に遭ったお兄ちゃんのためにも、ヤンデレ妹がここで止まるわけには行きません。
 重要なのは、「江」の字です。これはふつう「川」を意味しますが、日本では瀬戸内海を含むことがあるといいます。したがって、この句から察するに、道真が左遷中に海路を使った可能性は否定できません。
 
 ただし、海路説を積極的に取ることは難しいでしょう。
 そもそも、道真は左遷されたとはいえ大宰権帥の任にありました。当時の格式によれば、国司等は海路、大宰府の重要人物は陸路にて移動する決まりになっていたようです。したがって、『松崎天神顕聖記』のいうよう、陸路を取っていなければおかしいのです。
 また、先ほども触れた「敍意一百韻」には、明らかに陸路と思わしき描写が多く見受けられ、海路に関連する部分は「江迎尾損船」のみです。思うに、船を使ったのは本州から九州へ渡るときのようなやむを得ない場合がほとんどであって、全体で見れば陸路が主だったと考えるのが自然ではないでしょうか。
 実際、『防府天満宮縁起集』を見る限りでは、「御着船」を直接に述べているのは『周防府松崎天神鎮座考』および『宮市松崎天満宮由来書』によるもので、これらはどちらも江戸期の成立です。上述の通り、もっとも古い松崎天神縁起詞書も「勝間の浦につかせ給ける」と、浦につくのだから普通は船であろうと示唆するような内容ではありますが、一応直接的には述べていない(「勝間の浦から旅立つ」というように取れば、陸路で防府まで来たという考えとは合致する)うえ、これも14世紀の成立ですから、それほど信頼性が高いわけではありません。
 
 まとめると、これについては、「断言はできないものの、『御着船』を積極的に取ることは難しい」というくらいの理解がよいでしょう。つまり「わからん」ってこった。ヤンデレ妹は不満顔。
 

そういえばお兄ちゃん大宰府到着が遅いよね

 第2の問題、道真は防府にとどまったのか? という問題です。
 まぁ常識的に考えて罪人とみなされていた人(お兄ちゃんは無実です)を何日も、あるいは何か月もとどめておくわけがなく、諸々の伝説などは、後世に勝手にお兄ちゃんの人気にあやかっただけの尻軽どものしわざに決まっています。
 しかし、獅子は兔を狩るにも全力を尽くすといいます。ここは入念に否定しておくことにしましょう。
 
 滞在を支持できなくもない理由になりそうなものは、次の2つです。
 1つ目は、道真が大宰府に着いたのがかなり遅いと見られることです。
 「読楽天『北窓三友』詩」には、有名な

  • 東行西行雲眇眇
  • 二月三月日遅遅

という表現があります。『江談抄』や『今昔物語集』に、道真に読みを教えてもらったという話が載っているアレです。まぁ私の方が何回もお兄ちゃんに教えてもらってますけど。
 ただ、大事なのは「二月三月」で、通常の大宰府への道筋は何か月もかかるようなものではありません。何かしらの理由で遅れたと見るべきかもしれません。
 さらに、前述「自詠」の「離家三四月」も気になります。道真が京を出発したのが2月のはじめですから、そこから再び詩を詠むまでにかなりのタイムラグがあるようです。
 
 2つ目は、やはり「敍意一百韻」を引くのですが、「信宿常羇泊」です。
 問題は「信宿」で、これは繰り返し泊まることを意味します。もしこれが長期滞在を含んでいると解釈できるのなら、信憑性は一気に増すかもしれません。
 
 が、結論から言うとどちらも否定できます。
 まず、「二月三月」ですが、道真の旅程が遅いのはお前らが食料や馬を与えなかったからだろうが!!!(そういう命令が出ていた)
 ぼろ馬にぼろ船、食料もないとなれば旅程が遅くならないわけがない。さらにそんなひどい目に遭った道真の心身の健康状態を考えれば、大宰府に着いてからすぐに詩を詠むなんてできっこないわけで。
 お兄ちゃんはすごいけど、超人とかじゃないんですよ。まったくもう。
 さらに、「信宿」ですが、これもそもそも文脈から考えても、「その日休んで同じとこ泊っても全然疲れ取れない……」という意味なわけで。道真が疲れ切っていたことがうかがえます。なんで私はそんなときにお兄ちゃんの傍にいてあげられなかったんだろう。
 もちろん、単語の意味の解釈から考えることもできます。このために今浜『叙意一百韻全注釈』と柳澤『菅家後集の研究』(こっちは去年の12月に出たばっかり! 道真研究やっぱり再燃してるのでは? うれしい)も用意してみました。
 で、両者ともに「信宿」は「2泊」に限って考えるべきだと述べており、長期滞在は無かったと考えるのが自然です。
 
 というかそもそも、長期滞在説の元ネタの『宮市松崎天満宮由来書』は四か月も滞在したと主張しています。これはちょっとどうあがいても(途中の道のり考えりゃ「離家三四月」すら超えるぞおい)擁護できず、流石に寺社縁起には限界があったなぁというところ。

 

お兄ちゃんを守れるのは私だけ。お兄ちゃんは私だけ見てればいいの

 今回は「此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ」の出典を探り、ついでに防府天満宮について気になった記述を深堀りしてみました。
 やはり、「社寺の縁起といふもの、大概虚妄の事のみ」(『松崎天神顕聖記』)なのだなぁ、という感じではありますが、それを検証できたのは『防府天満宮縁起集』のような本がしっかりと残っていたおかげです。ありがたや。
 
 しかし、結局道真と防府は(左遷の経路上では)たいしたご縁があったとも考えにくいものです。土師氏で同族だとかでお兄ちゃんにすり寄ってくるけど、結局は赤の他人じゃない!
 実際、最初にできたといっても、『松崎天神顕聖記』のいうように、「形ばかりの小社をいとな」んだくらいが関の山でしょう。後から便乗して改めて立派なものを建てたというのが真相なのではないでしょうか。恥を知れ、土師氏だけに(は?)
 いや、これもそもそもお兄ちゃんの西下に私がついて行って詳らかに記録しておけば、妄言の一つや二つや百や二百くらい簡単かつ完璧に否定できたというものを。お兄ちゃんと私を離れ離れにした京のバカどもが何よりも悪ry(以下3時間ほど、京の詩を詠まない官人に対する悪口が続く)
 

おわりに&参考文献等

 さて、ようやく気が済んだ脳内ヤンデレ妹はちゃんと成仏(アンインストール)しましたので、今回はこのあたりにしようと思います。
 勝手に便乗してしまった海鳥さんには本当に申し訳ありません。
 ついでに防府天満宮とか防府市とか道真研究家の方々とかヤンデレ妹の方とかにも謝っておきます。
 頓首頓首死罪死罪。
 
 以下参考文献です。
 
今浜通隆(2018)『叙意一百韻全注釈』新典社
川口久雄校注(1966)『菅家文草 菅家後集』(日本古典文学大系 72)岩波書店。
防府市教育委員会編(1977)『防府天満宮縁起集』。
(ここに『松崎天神縁起』詞書と『周防府松崎天神鎮座考』、『松崎天神顕聖記』、『宮市松崎天満宮由来書』が所収されています)
真壁俊信校注(1978)『北野』(神道大系 神社編11)神道大系編纂会。
柳澤良一(2022)『菅家後集の研究』汲古書院。

※(米印)

By ※(米印)

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