世界史小話~クローヴィスの改宗~

世界史教科書では、クローヴィスの改宗について 「正統派キリスト教のアタナシウス派に改宗」 ということだけが記されていて、改宗以前はどうだったのかが明らかではありませんでした。中には 「改宗」という語に引きずられて、 「アリウス派からアタナシウス派キリスト教に改宗」 などと補っているものもありますが、これは明白な誤りです。誤解の余地のないように 「異教から」 という語を入れて説明しなくてはなりません このことについての出典は何かというますと、従来の諸研究と同様、教科書でもトゥールの司教グレゴリウス (五三八~五九四年頃)が著した 『歴史十書』 (フランク史) に依拠しています。 『歴史十書』 は、史料の乏しいメロヴィング朝フランク王国史にあって唯一と言ってもよい最重要の叙述史料です。「クローヴィスの改宗」 については、 『歴史十書』 の 「第二書」 に記されています。それの内容は、異教の神々の偶像を信奉していたクローヴィスは、ブルグンドの王族出身の王妃クロティルデが信じるキリスト教 (アタナシウス派) を、彼女がしきりに勧めるにもかかわらず、拒否し続けていた。ところがあるときアラマン人との戦いで劣勢に立たされ全滅に瀕した際、クローヴィスは異教の神々ではなく、イエス=キリストに祈って勝利を得た。これによりクローヴィスは、クロティルデが招いたランスの司教レミギウスの手で部下三千人以上とともに洗礼を受けた、というものです 「部下三千人」 との記述が、 『新約聖書』 の 『使途行伝』 二章四十一節にあるペテロが三千人を改宗させた話を下敷きにしているなど、グレゴリウスの叙述には護教的な脚色が多く、戦いの最中にクローヴィスがイエス=キリストに祈ったかどうかも含めて、すべてを事実とするわけにはいかないでしょう。しかし、教科書本文にも記したように、クローヴィスがこの改宗によって、ガリア各地でキリスト教の司教として地域社会を支配していたローマ人貴族層の支持を取りつけ、そのことによってガリアの支配を確実なものにしたことは間違いありません。 参考文献 トゥールのグレゴリウス著・兼岩正夫ほか訳注 『歴史十巻 (フランク史) 』 Ⅰ・Ⅱ 東海大学出版会一九七五~七七年

編集後記(11月5日公開 さとうささらの憲法解説)

お久しぶりです。今日のブログはタイトルの通り、編集後記です。 さて、先日の動画はお楽しみいただけたでしょうか? 国際法をメインに取り扱っている身でありながら、趣向を変えて憲法学にチャレンジしてみました。動画ではお伝えしきれなかったことを書いていきたいと思います。   法学×歴史学? 動画でも述べている通り、「憲法」は義務教育で唯一習う法かと思います。 あれは今から三万六千、いや一万六千年前だったかもしれません。私が小学生だった頃は、憲法前文を全文丸暗記しようね、などと言われ、覚えさせられた記憶があります。 当時はただの難しい長文でしたが、動画で触れた通り、憲法の立憲的意味があるからこそ、あそこまで重要視されるんですね。 これはまさに、人類が長い歴史の中で「権力に好き勝手させたら回りまわって国民が苦しむ」という事に気づいてしまい、さぁどうしようか?と頭をひねった結果なのでしょう。 そういう意味では、法学は歴史学と非常に密接な関係があるのではないでしょうか? 実際、著名な法が制定される前には、必ず何かしらの歴史的事件があるものです。 先日、SNSでこんな投稿を見た(気がします)。 『ロシアによるウクライナ侵攻で、国際法を受講する大学生が増えている。一方で、国際法はロシアの侵攻を防げなかったのだから無意味だ。国際政治学の方がよっぽど実用的だ』 まぁ、その通りかもしれませんが、このままでは国際法に限らず、法学全体が少し可哀そうなので補足をしておきます。 法学とは、『過去を省み、未来を見据える』学問と言えると思います。(※個人の感想です) 法を考えるときは、まず過去を振り返ります。「過去、こんなに凄惨な事件があったよ」「なんでだろうね」と。 そして、未来に視座を移し、「将来二度と起こさないためにはどうしようか?」と、う~んう~んと悩みぬく訳ですね。 そんな感じで、法を考える時は、その背景となった歴史上の出来事も関連してるんだよ~と思ってもらえれば、法学or歴史学のお勉強がもっと楽しくなるかもしれません。 憲法といえば改憲云々の議論は避けて通れませんが、改憲を考える時は、某条がどうのこうのだけに囚われず、動画で述べた「憲法の基本的な考え方」を是非とも思い出して頂ければ。   哲学者ってすごいよ 自然法思想に触れる際、避けて通れないのがT・ホッブズ、J・ロック、J・J・ルソーの御三方です。 他にも、法学に影響を与えた思想家としては、私の前々回動画で取り上げたグロティウス、ベンサム、JS・ミルなどがいらっしゃいます。 私は哲学分野はさっぱりなので、動画を作るにあたって資料を読むんですが、まぁ~すごいですね。 彼らの考えはなんかもう「私じゃ完全に理解するの無理だな~」となるくらい壮大です。 これを研究する哲学科って本当にすごいですね。(哲学科の先生に大抵ぶっ飛んでる人が多いのはひみつ) 人の思想を追いかけるのには、根気が要ります笑 要約ノートなんかがあればすごく便利なんですが・・・。 話は変わりますが、後年、私の動画を発見した哲学者が私の思想を研究対象にしないとも限りません。 そんなときに「このせるヴぁんだとかいうやつは何を考えて動画を作っていたんだ?」と貴重な時間を割いて頂くもの恐縮なので、ここに答えを書いておきます。 ささらちゃんもかわいいじゃん 編集もっと楽ちんにならへんかな~ 大学図書館に住みたい!24時間空いていて欲しい! 無料でコピーできませんか! 洋書を自動で日本語化してほしい(翻訳メガネ的なの欲しい) 以上です。ちなみに、今回ささらちゃんを起用したのは、仕事で全六花航空を利用したためです。 さて、ほぼ駄文でしたが、憲法解説「も」続くとおもいますので、また次回~。(シリーズものをやりすぎなんだよ)          

2019年にロシア行ったって話

どうもゆはるです。 今回は私の旅行記第三弾として、2019年に行ったロシア旅行の様子をお伝えします。   言わずもがな、2022年11月現在、ロシアに観光旅行なんて考えることもできない状況です。 外務省が出してる危険情報ではロシア全土が「危険レベル3」でウクライナ国境付近は「危険レベル4」、ロシア政府が自国民含め出入国を著しく制限していますから、入国はできても出国できないなんて事態に陥るかもしれません。   ロシア、まぁそこそこに観光する場所がある国です、今回惜別の意も込めましてロシアの見どころをいくつか写真も合わせてお伝えしたいと思います。この記事に載っている写真は全て私ゆはるが撮影したものです。 赤の広場 やはりロシアといえば最初に思いつく観光地はここでしょう。正教会独特の建造物は一度見れば印象に残ります。 一応遠目で見た写真もあったのでペタり。2019年の赤の広場は自分以外にも観光客がたくさんいて平和でした。   また、写真はありませんが(写真撮影禁止のため)、赤の広場の近くにはレーニンの遺体を見ることができる施設がありました。レーニンの身長は165cmで、おそらく見物した人の多くは小柄だなという印象を持ったでしょう。ちなみにプーチン大統領の身長は168cm、スターリンの身長は163cm(両人共に諸説あり)で、ロシアの歴史的重要性を持つ人物は小柄な人が多いんですね。エリツィンは187cmだったけど。   エルミタージュ美術館 エルミタージュ美術館もロシアの観光名所として三本指に入るくらい有名ですね。 私は会えませんでしたが、展示物をネズミから守るため、エルミタージュ美術館では70匹もの猫を飼っているというのは有名な雑学です。   美術館では様々な展示が行われていましたが、一番印象に残っているのは2018年より展示が始まったというニコライ2世のワイシャツです。 そう、あの大津事件の時のやつです。 警察官の津田三蔵に右耳上部をサーベルで切りつけられたこの事件、その時に付いたと思われる血痕がワイシャツの首元部分にはっきりと残っていました。ちなみに写真撮影OKでした。 このワイシャツが展示されているという情報、なぜか日本語圏ではあまり知られていませんね。日本語で検索をかけてもロシア政府系メディアの「スプートニク」の日本語版の記事しか主にヒットしませんでした。 2022年にはロシアへの観光旅行が制限されたことを考えると、展示が開始された2018年からの4年間しか日本人が生で見る機会がなかったのかな? この写真実は貴重だったりして。   そんなわけでいかがだったでしょうか。 ロシア旅行はしばらく行けん、児島惟謙な情勢ですが、死ぬまでにはもう一度訪れてみたいとも思っています。西欧色の濃いサンクトペテルブルクと東欧色の濃いモスクワの対比とかね、楽しかったですよ。ロシア人も観光客の私には人懐っこくて親切でした。   ロシア旅行が気軽に行けるくらい平和な世界情勢に早く戻ることを願っています。それでは。

テューダー朝重要人物まとめ

現在ウルジーの動画を作っていますが、テューダー朝の重要人物について軽くまとめたいと思います(唐突)。 また若干書きかけの感もあるので、随時更新していきたいと思います。ひとまずヘンリー8世時代まで。   〇ヘンリー7世時代 ヘンリー7世の時代は薔薇戦争終結後の不安定な情勢を何とか押さえつけていた時代です。そのためにテューダー家の正当性をアピールしたり、有力者を財産罰で徹底的に締め上げ、王位僭称者は執念深く追い続けるなど、徹底的に対策を推し進めていました。この時代に蓄えられた王家の財産はヘンリー8世の活動を大いに支えました。   ①ヘンリー7世(1457-1509)   テューダー朝の創始者。王家に近い血筋ですが、男系をたどるとウェールズ人であり、必ずしも血統がいいわけではありませんでした。ヨーク家のリチャード3世を倒して王位を得ましたが、リチャード3世は男系をたどると12世紀のイングランド王までたどれる由緒正しい王家の血筋のため、イメージ戦略で正統性をアピールせざるを得ませんでした。もちろんヘンリー7世を認めない勢力も多く、王位についてからも割れこそがイングランド王と名乗る人物にたびたび悩まされました。実務面では非常に有能な王で、帳簿を自身で管理したことで知られています。CV.石田彰が似合う王です。   ②エリザベス・オブ・ヨーク(1466-1503) ヘンリー7世が倒したヨーク家の王女です。ただし、叔父のリチャード3世とは対立していたウッドヴィル家の縁者であり、リチャード3世と戦う前から結婚の話がありました。即位後は王を支える王妃であり続けました。また、エリザベス・オブ・ヨークとの間に後継者を得ることは血統的に万全ではないテューダー家には欠かせないことでした。ヘンリー7世はエリザベスとの共同統治を避け、テューダー家の王家としての形式ために結婚式の前に戴冠式を行いましたが、臣民を安心させるにはやはり旧王家との連続が必要だったからです。生まれた後継者は二人で、一人がアーサー、もう一人がヘンリー8世でした。 ③アーサー・テューダー(1486-1503) ヘンリー7世待望の王子でした。幼少期から王にするために育てられ、外交のためスペイン王女との結婚もしましたが、そのあとすぐに流行り病でなくなりました。粟粒熱として知られる病気だったようで、発症したらほぼ死に至る病でした。ヘンリー8世にとっては兄にあたります。 ◯ヘンリー8世時代 言わずと知れたヘンリー8世の治世前半は敬虔なカトリック信者としてウルジーの力を借り、ヨーロッパ外交で存在感を示そうとしました。しかし、後継者不在を解消するために離婚をしようとしたところから宗教改革が始まりました。宗教改革では多くの人物がその渦に巻き込まれます。   ①ヘンリー8世(1491-1547) ヘンリー7世の第二の後継者でした。当初は王として育てる予定がなかったので、比較的自由に育てられましたが、兄アーサーの死で王となるための教育が行われました。兄に比べて開放的な性格で、陰湿だったヘンリー7世から王磯継承したころは歓迎されたようです。即位後はフランス領土奪還や存在感あるイングランド王国を目指しましたが、思うように成果は上がりませんでした。そうこうするうちに後継者ができないまま兄から引き継いだ王妃、キャサリン・オブ・アラゴンがアラフォーを迎え、後継者問題に直面すると子供を埋める若い王妃を求めます。そのための離婚の許可が国際情勢の問題で得ることができず、イングランドの宗教改革のきっかけとなる宗教改革議会を開きました。この過程で何人もの人物が処刑されたことは非常に有名です。しかし、ヘンリー8世にとっての宗教改革のゴールは教皇からの指図を受けない教会であれば十分だったので、教義面の改革についてはあまり問題になっていませんでした。離婚や処刑を繰り返して得られた男子の後継者はエドワード5世だけでした。 ②トマス・ウルジー(1475-1530) 治世前半のヘンリー8世を支えた枢機卿です。即位当初は政治に強い関心がなかった王のために実務の多くを担当していました。王国の本当の支配者はウルジーだと考えられていたほどでした。しかし離婚問題に直面すると、教皇庁の枢機卿としての立場と王国の大法官としての立場で板挟みになり、ヘンリー8世の意に沿った行動をとることができず失脚しました。あくまで教皇庁にイングランド教会が所属する形で離婚を成立させたかったからです。 ③キャサリン ・オブ・アラゴン(1847-1536) ヘンリー8世と最も長く連れそった王妃でした。スペインのカトリック両王の王女として生まれ、アーサー王子に嫁ぎました。アーサーが亡くなると、ヘンリー8世の即位までイングランドで人質のような生活をしましたが、ヘンリー8世の即位後は良き王妃としてその活動を支えました。問題は男子の後継者を残せなかったことで、そのことでイングランドの宗教改革を引き起こしました。キャサリン自身は敬虔なカトリックであり、ヘンリー8世に市場もあったので離婚を徹底的に拒みましたが、教皇庁とイングランドの教会を切り離す力技には勝てず、離婚となりました。 ④トマス・モア(1478-1535) イングランド随一の人文主義者で法律家でした。法律家や庶民院議員としても活動していましたが著作活動がよく知られています。ヘンリー8世の離婚問題については宣誓して認める予定だったが、思想家の性として、自身の心情と相いれない一文を宣誓書に発見したことで宣誓書にサインができず、処刑されることになりました。彼の死は映画にもなり、カトリックでは聖人として認定されています。 ⑤アン・ブーリン(1501-1536) ヘンリー8世の離婚問題の最大の元凶です。王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女でしたが王の愛人となり、最後には王妃に上り詰めました。しかし健康な男子を生むことができず、近親相関等の罪の疑いで処刑されました。よく映画の題材になる人物です。 ⑥トマス・クロムウェル (1485-1540) ヘンリー8世の側近でした。王妃の離婚問題では主導的な役割を果たし、宗教改革を勧める原動力になった人物です。かつてはイングランドの行政が家産的なものから官僚的な物に移行するときに大きな役割を果たしたと考えられていましたが、この点には議論が多いです。王が3番目の王妃、ジェーン・シーモアを亡くすとアン・オブ・クレーヴスを手配しましたが、王はときめかず、婚姻は無効だったとしました。王の気に入らない女性を推薦したせいか、そのあとすぐ反逆罪で処刑されました。 ⑦ジェーン・シーモア(1508-1537) ヘンリー8世3番目の王妃でした。エドワード6世を儲け、ヘンリー8世待望の男子の後継者を産みましたが、そのすぐあとに産褥熱で死亡しました。 ⑧トマス・クランマー(1489-1556) ヘンリー8世の宗教改革を宗教面で支えたカンタベリー大司教でした。プロテスタントとして宗教改革を推し進めましたが、次代のメアリー1世の時代ではカトリックに反する人物だったので、処刑されました。     ◯エドワード6世時代 短い治世でしたが、プロテスタントとして宗教改革が本格化した時代でした。王は若くして亡くなったので、政治の実権は廷臣たちが握っていました。以下に挙げる人物はエドワード6世を除き、首と胴体が切り離された状態で死亡しています。   ①エドワード6世(1537-1553) ヘンリー8世待望の後継者として生まれました。マーク・トウェインの『王様と乞食』に登場する王様なのでご存知の方も多いでしょう(多分プリンセス・プリンシパルも一部元ネタは『王様と乞食』)。元来敬虔なクリスチャンのヘンリー8世の子供なので宗教教育をしっかりと受けましたが、政治的な背景でプロテスタントの教育を受けています。即位後はプロテスタント的政策を推し進め、廷臣たちも出世のためにプロテスタントに順応しました。しかし病弱だった上に、ヘンリー8世時代にスコットランド女王メアリーとの結婚の段取りに失敗したため、後継者を残さずわずか16歳で死去します。 ②メアリー・ステュアート(1542-1587) エドワード6世の結婚相手と目されたスコットランド女王です。スコットランド国内での結婚反対により、縁談は戦争に発展しました。元々父親のジェームズ5世はイングランドとの戦争の最中に死んだので、反発は無理もないことでしょう。なので対抗してフランス王と結婚しますが、すぐに死別し、スコットランド貴族と結婚します。ここまではあまりメアリーの特色は出ていませんが、国内での舵取りの下手さがこの後の悲劇につながりました。不倫問題を起こすし、国内で高まっていた宗教改革には背を向けてカトリックを突き通し、それでいてイングランドに亡命するのですから。さらにその亡命先でなぜかエリザベス1世の暗殺計画に加担して斬首されます。母方がテューダーの血筋なので、カトリック的論理から見れば私生児に過ぎないエリザベス1世を認められなかったというのでしょうが、あまりにも現実と折り合いをつけるのが下手な人物でした。 ③エドワード・シーモア(1500-1552) エドワード6世の母方の実家の人物なので当然のように護国卿の座についてプロテスタント政策を進めました。また、前述のメアリーとエドワード6世の結婚を成立させるために戦争を進めた張本人でもあります。しかし、急激な改革や、囲い込み等の社会変化に反発する反乱への対処が遅れ、ダドリーの台頭を許し、処刑されました。 ④ジョン ・ダドリー(1504-1553) ヘンリー7世時代に辣腕を振るったエドムンド・ダドリーの息子です。ヘンリー7世の財産罰による締め付けの実務を担っていたせいで父親はその王の死後にスケープゴートとして殺されました。幼少期に父親の権利が復活し、上流階級としての基盤が整うと、軍人として頭角を表していきました。その力でシーモアが鎮圧できなかった反乱を鎮圧し、護国卿の地位を得ます。しかし、どのような改革を進めるかなどに明確なビジョンを元々持っていたわけではなかったようで、シーモア以上のプロテスタント化政策を推進しました。彼にとって悲劇なのは、国王が夭折した結果、カトリックが復権することになり、シーモア以上に立場を崩されたことです。後述するジェーン・グレイを急遽対抗馬として女王にするも、メアリーに察知されて失敗し、首を切られました。 ⑤ジェーン・グレイ(1537-1554) ジョン・ダドリーの最後の足掻きの巻き添えになった可哀想な人。敬虔なプロテスタントで、少し遠いながらもテューダーの血筋を引いていたことが悲劇の始まり。元々の婚約者とは別れさせられ、女王に即位させられたと思ったらわずか9日で王座を追われ(トラスよりも短いのである)、命を助けてもらっても父親が反乱に加担してわずか16歳で首を切られました。何か悪いことをしたのでしょうか。なにもしていません。ただ血筋と時代のせいでした。