ふらふらと散歩に行ってきましたので軽いお話をさせてもらいましょう。 地元にもいろんなお城がある私ですが、たまには遠くの城でも見に行こうと思い、行ってきました「台北」に!! 紅毛城は17世紀にスペインが1632年にサント・ドミンゴ城(聖多明哥城)を台湾北部(現在の新北市の淡水地区)に建築したのが始まりと言われます。なんかちょうどいい拠点が東シナ海に見つからなかったからできたらしいです。ついでに淡水は台北盆地への入り口にあたり、現在でも交通の要衝です。海巡署分署は現在も淡水にあり、淡水河は台北に至る重要な道でもあります。台北に入る船を打ち払うこともできる高台に築かれたわけです。しかしフェリペ2世のいないスペインは弱く、世界最初のヘゲモニー国家として語られるネーデルラントが1642年に城砦を占拠し、アントニー要塞(安東尼堡)として1646年に生まれ変わります。この当時建築された部分は鮮やかな橙色の部分で、手前煉瓦部分は日帝時代らしいです。 1662年、今度は鄭氏が台湾を征服し、本格的に漢族の入植がはじまります。漢族は西洋人を紅毛と呼ぶものですからこの城も紅毛城と呼ばれるようになりました。その後鄭氏は清朝に帰属しますがそのころから城は多少使われもしますが放棄されます。そして19世紀、アロー戦争の講和条約、1858年の天津条約により淡水が開港され、英国領事館がこの要塞に入りました。二回の出窓みたいなところはイギリス時代の増築のようです。 領事のお部屋 その後日本が台湾を占領すると改めて日本と交渉して領事館を設置し、戦後には在中華民国領事館として機能します。1972年に中華民国は日本をはじめ各国と国交断絶し、領事館の役割を終えました。アメリカやオーストラリアの管理を経て1980年に返還、84年に公開施設となった歴史があります。 そんな歴史のあるお城にふらふらと行きましたが、お城っていうのはどこも高台にあるものでして(小諸城などは例外)、軽い運動にはもってこいなところです。 近くには清仏戦争の頃に使われた清軍の砲台跡もあり、うろつくにはうってつけな場所でしょう。城は地形とセットと思いますが、それもよく感じられるところでした。
Month: October 2023
孔子の子孫を皇帝に? ~パラドのVIC3に採用された辛亥革命の和平案~
10月10日は辛亥革命の記念日 10月10日は辛亥革命の始まりとなった1911年の武昌蜂起(起義)の日。10が2つということで「双十節」と言われ、中華民国の建国記念日のように位置づけられ、現在の台湾では「国慶節」として祝日となっています。 (実際に中華民国が建国宣言をしたのは1912年の1月1日であり、こちらも「開国記念日」として祝日である) 孔子の子孫を皇帝に? さて、今回は辛亥革命において持ち上がった「孔子の子孫を皇帝にする」という突飛な案を取り上げます。 (私個人としては)極めてマイナーだと思っていましたが、 歴史ゲーマーおなじみのParadox Interactiveの「Victoria3」に採用されていて大変驚きました。 発案は変法派(維新派)のリーダー康有為 この発案者は康有為。弟子の梁啓超とともに1898年の戊戌変法の主導者として知られます。 以下、主に竹内弘行氏の研究を元にご紹介します。 (竹内弘行『康有為と近代大同思想の研究』汲古書院2008年) 康有為と梁啓超ら弟子たちは変法に失敗した(戊戌政変)後はお尋ね者となって日本ほか世界各地で亡命生活をしていました。 とは言え清朝体制の改革派として最も名高く、華僑は留学生たちの支持をめぐって、革命を目指す孫文らとと激しく争っていました。 お尋ね者であるものの、あくまで体制内の改革の主張であるために、義和団事件等を経て清朝が近代化に積極的になると、康有為と弟子たちは清朝側から注目されて国外から協力しています。 武昌蜂起後に袁世凱が内閣総理大臣として起用されると、梁啓超が法部副大臣として入閣しました。 清朝の立憲君主制と革命派の共和制の折衷「虚君共和」構想 さて、清朝の体制派と革命軍の内戦が膠着する中、康有為が両者の合意のために主張したのが「虚君共和」という案です。清朝の立憲君主制と革命派の共和制の間をとったもので、君主を神聖なだけで実権を無くして内紛を防ぎ、実質的には共和制を行うというものです。 その君主の候補者が一人が現皇帝の愛新覚羅溥儀、もう一人が「孔子の嫡流」である第76代衍聖公の孔令貽でした。 なぜ孔子の嫡流を君主とするのか? 孔子の嫡流は歴代王朝が封爵しており、宋以後は「衍聖公」として封じられていました。 康有為は儒教を孔教(孔子教)と改めて、キリスト教をモデルに国教に適する形に改革する主張を続けていました。例えば年号表記において、清朝の元号(光緒○年、宣統○年)だけでなく、西暦や皇紀のように孔子の生誕から数える「孔子紀年」を用いるということをしていました。 (彼が政治的、または学問的主張に用いた春秋公羊学そのものが、儒教の中でも特に孔子を神格化する学説を有する学派でした) この孔子の嫡流を君主とするのは、単に康有為本人の思想に適ったものというだけでなく、漢族の復興を掲げる革命派に向けたものです。衍聖公は漢族の文化の中核として尊崇されてはいるがが政治的権力を持っていませんでした。 ただ、漢族のための象徴であるために重大なデメリットもあり、満洲ほか、モンゴル、チベットといった諸民族の離脱を生じるリスクがありました。そのために従来通り清朝の皇帝をいだき続けるのも捨て難いとしました。 虚君共和構想の結末 康有為の「虚君共和」の案は弟子を通じて清朝側、革命軍側の双方に伝えられ、12月18日からの講和会議(南北和議)の中で、実際に案の一つとして清朝側代表の唐紹儀から革命軍側の黄興に伝えられたようです。(革命軍は明確な代表者が定まっていない) しかし革命軍側の主張は絶対に民主共和制とすることでした。革命軍にとって敵側の袁世凱に大総統に譲るまでして合意にこぎ着け、清朝は滅亡し中華民国が代わって中国を受け継ぐこととなりました。 章炳麟の衍聖公を皇帝とする案 なお、孔子嫡流の衍聖公を皇帝とする案は康有為が最初というわけではありません。孫文・黄興とならび辛亥革命の三尊である章炳麟が、戊戌変法の翌年である1899年に『客帝論』の中で提唱していました。「客」とは満洲族のことです。『客帝論』は武力で満洲族を駆逐したい気持ちを表明します。しかしそうすると満漢共倒れして欧米の白人を利するため、満洲族から衍聖公への政権の委譲を主張します。 章炳麟は戊戌変法の頃は康有為に共鳴してしていました。そして徐々に満洲族の支配を打倒と、共和制樹立の革命を目指すようになります。1899年は康有為の改革路線から革命への過渡期でした。 後に章炳麟は『客帝論』を誤りとします。満洲族と妥協すること、孔子嫡流を皇帝とすることを自己批判する短文を加えて『匡謬客帝』(「客帝」のあやまりを正す)を発表しました。 『「客帝」のあやまりを正す』は岩波文庫の『章炳麟集』( 西順蔵ら編訳 1990年)に収録されています。 おわりに こちらは約1年前にツイッター上でつぶやいた内容を詳細にしたものです。冒頭で述べたように「辛亥革命」の記念日だからというのもありますが、近々、世界史べーた(仮)にて「革命」に関係した発表を予定しています。どうぞお楽しみに!