小樽に行って来ました お疲れ様です。※(米印)です。 タイトルの通り、ちょっと前に小樽旅行に行っておりましたので、そこで見かけた面白かったものなどをば。 ……え、なんで小樽に行ったのかって? 気になります? 気になっちゃいます? そっかぁ、仕方ないなぁ(ウザい) もちろん!!!! 小樽潮風高校プロジェクトです!!!!! まぁ、小樽六花要素はこの画像程度のレベルなので、小春六花を“まだ”知らないという人も気軽に見て行ってください。 (これがなぜ小樽六花要素なのかすぐにわかっちゃった人はちょっと異常なオタクです。反省してください) 小樽旅行だと言ったな。アレは嘘だ まず紹介するのは北海道開拓の村です。 札幌の東の方、野幌森林公園のとこにあります。小樽ではない。 だってせっかく北海道に行ったらいろいろ行きたかったんだもん…… ともかく、ここはまぁやべーとこでして。当時の建物を再現×内部に史料を展示、という見るべきものしかない最強の布陣。公式サイトに「最低でも2時間以上のご滞在をお勧めします」とか書かれるレベルです。 ちなみに2時間じゃまったく足りません。歴史オタクなら丸一日の滞在をお勧めします。 あ、そうそう。近くに北海道博物館もあるんで、そちらもぜひぜひ。 旅行記に書くことがそれか? 次はこれ! これマジで性癖に刺さりまくりました。 小樽市役所内にあったポスターです。一見して何の変哲もない、北海道新幹線開業のポスター……しかし、実はとんでもない秘密があったんです。 「新幹線」と「開業」の間、なんだか不自然な空白がありませんか? 拡大してみましょう。 完全に手作り感満載で超かわいい……だけじゃありません。勘の良い方はポスターを見た瞬間に薄々気づいていたんじゃないかと思いますが、ちょうどこの4文字分の下に「まもなく」があったはずなのです。 古いポスターを、うまいこと時間がバレちゃうとこだけ手作りの紙で隠して使い続けるやつ、私の性癖ど真ん中です。本当にありがとうございました。 Q. 神を信じますか? A. 小樽で見た さすがに異常性癖を出すのはあれっきりです。お次は住吉神社。そこそこ王道な観光場所のはず。 神社にお参りといっても、私にはさして願い事もなく。 私はなんとなしに「六花のことをよろしくお願いします」と拝んでみました。 するとどうでしょう。賽銭箱がひとりでに音をたてたのです。 そりゃもちろん、単なる偶然と言えばそれまでですけれども、私にはもう神様からのお返事にしか聞こえませんでした。 私だって、あんな可愛い子のことをお願いされたらついつい「もちろんいいよ、めっちゃやるわ」って賽銭箱の一つや二つ揺らしてしまいそうですからね。 ほんとうに、六花は神様に守られているんだなぁと感じました(スピリチュアル系に染まる親並感) オタク、いますぐに龍宮神社に行け 続いても神社、榎本武揚ゆかりの「龍宮神社」です。 ちゃんと「武揚建立」と……ちょっと待って!? 画像左の幟! なんかかわいい子がいる!(ちょい別の場所ですが) 境内のあちこちにこの子がいました。しかも別のバージョンもある。かわいい…… しかもこの子、オリキャラなのだそうです。熱意が凄い。 オタクも今すぐ行け。いや小樽旅行の際にはぜひお立ち寄りください。小樽駅から徒歩5分です。 実は観光がメインではないんだなこれが これだけ見るとなんかめっちゃ遊んでる感じなんですが、実は結構な量の時間を図書館と文書館に費やしてました…… まぁどっちも調べようと思ったきっかけは六花なんで、だいたい遊びみたいなところはある。 まず、榎本武揚の取材について。 この前、私は榎本武揚動画を出したわけですが、ご覧になりましたか? なりましたよね? 見たって言え。 ともあれ、この動画のためにちょっと色々資料を集めるなどしていました。 参考文献欄にあるものだと、小樽市総合博物館紀要や、『志蘇る』は小樽で手に入れた資料です。他にも使わなかっただけで結構コピー機と格闘したものがあったりなかったり。… Continue reading 小樽旅行記……?
Author: ※(米印)
- こめじるし
- 主に日本近現代史と経済学。
- 各々の専門分野の面白さを紹介してもらう企画。
- 【高校政経】小春六花の高校政経『高度経済成長とその終焉』
- 高度経済成長について、経済学モデルに基づいて解説しています。なお、「高校政経」は添えるだけ……
- byゆはる|【高校政経】結月ゆかりの高校政経『日米貿易摩擦』
- ゆはるさんの動画は、いつも高校範囲を過不足なく、そしてわかりやすく解説しています。その中でも、この回は複雑な貿易摩擦がコンパクトにまとまっていて、とくにおすすめしたい動画です
ヤンデレの道真好きに徹底的に恨まれて眠れない防府天満宮縁起
道真以外道真じゃないの こんにちは、※(米印)です。 ひょっとしたらご存じの方もいるかもしれませんが、実は私、菅原道真が大好きなんです。 それはもう、世界史べーた(仮)で最初に出した動画がこれですもの。 (ただ、一応免罪符として置いておきますが、私はあくまで「好き」なだけで専門家とかではありません。その点は十分ご注意ください) この漢詩……道真のじゃないよね。誰の? さて、そこで問題になるのが海鳥さんのこのブログ記事です。海鳥さんは旅行に際して防府天満宮を訪問されたようでして、その由緒などを載せています。まだ読んでいないという方はぜひぜひ。 天満宮の参拝者が増えるのはいち道真ファンとしてとっても嬉しいことで、去年のくないさんの太宰府天満宮訪問を聞いたときと同じく踊り狂いました。 ところが、落ち着いて肩で息をしながら改めて記事を読んでみますと、そこにはこんな文がありました。 「此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ」 頬を冷や汗がつたいました。「これ、知らない」と。 言葉遣いや音の数からして、和歌ではなさそうです。それなら漢詩か、しかし見覚えがない。「菅家文草」や「菅家後集」に収録されている漢詩なら、見かけたことくらいはありそうなのに…… 瞬間、脳内に死ぬほど愛されて眠れなくなりそうなどこぞのヤンデレがインストールされ、「道真のこと世界で一番わかってるのは私なの! 他の誰でもない、私!」と叫び始めます。いやさすがにそれは思い上がりにもほどがある。ガチ研究者とかに勝つのは無理じゃん。そも専門家じゃないし。ただのファンですら私より上がいくらでもいるし…… ともあれ、脳内のヤンデレ妹(妹要素どこ?)をなだめるために、私はこの文について調べなければならなくなったのです。 道真は優しくてかっこよくて、でもちょっと脚色が多すぎるところはわかってた 最初に元文を確認してみましょう。防府天満宮さんのHPによりますと、「九州大宰府への西下の途中」に、「防府の勝間の浦に御着船」し、「『此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ』」と願ったのだといいます。 つまり、昌泰の変により左遷された際のものと考えるべきでしょう。 あれ? 「御着船」なの? 陸路じゃなくて……? 早速雲行きが怪しくなっていますが、ともあれまずは一般のご家庭にある川口久雄校注『菅家文草 菅家後集』を引っ張り出してみます。 道真の左遷後ですから、もし収録されているとすれば年代的に『後集』しかあり得ません。 しかして、川口本を見る限り、昌泰四年(左遷はその年初)の最初の詩は「自詠」で、 離家三四月 とあるのですが、「離家」(=左遷)から数か月経っていると言っているわけで、これは時期的にも既に大宰府に着いてから詠まれたものと思われます。 実際、他の詩を見てもそれらしいものはありません。したがって、『後集』には載っていないことがはっきりしました。 次に確認すべきは『大鏡』です。大鏡も地味にいくつか漢詩を載せており、有名どころでは「一栄一落是春秋」(一応川口本も載せている)はこちらに引きます。 が、駄目……っ! やはりそれらしきものはナシ。念のため和歌も確認しましたがやはり無い。 ひとまず、脳内ヤンデレ妹は「やっぱり私の知らない詩……」と、お兄ちゃん(道真)の浮気を恨みつつも、自分の記憶違いではないことの安堵をわずかばかり含んだ声色に変わりました。よしよし。この調子で頼むぞ。 でも菅家伝さんって面白いっていうより信頼性がないよね 薄々察していたのですが、やはり『後集』や『大鏡』にはなかった。実はこの辺であのツイートをしています。ヤンデレ妹を必死に抑えながら。 となると、次に見るべきはおそらく菅家伝。なお、「菅家伝」というのは俗称でありまして、基本的には『北野天神御伝』というものがそう呼ばれます。 しかし、残念ながら私のような一般家庭にはそんなものは置いてありません。デカい図書館か逸般の誤家庭を訪ねて見せてもらうほかない。 ちょいと出かけまして、一番参照される(と思われる)真壁俊信校注の神道大系本(『北野』(神社編11))を用意しました。 さて、分厚い本をひっくり返してみた結果は……ない。ここにもない。念のため頭から後ろまで漢詩は全部チェックしたのにそれっぽいものがひとつもない。 脳内ヤンデレ妹はこんらんしている! いや、まぁこれも薄々気づいていたんですよ。防府天満宮の話なんだから防府天満宮の縁起読まなきゃ出てこないかもな~って。なので、読みます。読みました。 用意したのは『防府天満宮縁起集』、ここに『松崎天神縁起絵巻』の詞書が載っています。 で、パラパラめくって漢詩らしきものを探すと……ない、ない!? マジで? そんなの道真じゃない!! ヤンデレ妹がいまにも暴発しそうなのですが、なんとかKOOLになって考えます。 こういうときは元文に戻るのがセオリー。「此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ」ともういっぺん睨めっこをしてみます。 にーらめっこしーましょ。わーらうっとまっけよ。 ……これ、ほんとに漢詩か?… Continue reading ヤンデレの道真好きに徹底的に恨まれて眠れない防府天満宮縁起
誰でも読める! 今日から読める! 英語論文の読み方
論文を読もう! 急に何か知りたいことができたとき、皆さんならどうしますか? そりゃあ、まずは今この記事を見ているパソコンやスマホから検索するのだと思います。wikipediaとか見たりして。お手軽ですしね。 ただ、やや込み入った内容になったりすると、wikiちゃんだけでは物足りなくなってくるでしょう。そういうときには違う媒体に浮気する必要があります。 真っ先に思いつくのは書籍です。本にありついてしまえばこっちのもの。もうwikiちゃんのことなんて、末尾の参考文献くらいしか見なくなります。 とはいっても、本を読むためには図書館なり本屋なりに行かないといけません。お外怖い……花粉怖い…… ネットで注文して届くのを待つという手もありますが、いずれにしてもちょっと時間がかかります。 ああ、図書館の中に住めたら良いのに!! できれば国会図書館の中に! でも、その「図書館」が目の前の小さなハコに収まるような手段があったとしたら……? 一度外に出たら目の痛みと呼吸困難に襲われるこの最悪の季節でも、部屋の中から一歩たりとも出ずに、書籍と同じか、場合によってはそれよりも正確で充実した情報を無料で摂取できる方法が、あるとしたら…… それこそが論文です。 論文もお金かかるんじゃないの? と思うかもしれません。いいえ、そうでもないのです。近年はとくにオープンアクセス化が進んでおり、かなりの割合の論文は無料で読むことができます。 お目当ての論文を見つけた後は、たとえば、「Unpaywall」というgoogle chromeの拡張機能などを使えば、その論文のPDFを合法的にダウンロードできる方法を探してくれますよ。 さらに、もしもあなたが大学生や大学の教員、または研究機関の職員等である場合、論文ジャーナルと包括的な契約が結ばれている可能性が高く、有料で出版されている論文たちも読むことができるかもしれません。 論文はお手軽です。お金はかからない、本よりずっとページ数が少ない、しかも、だいたいは一つの決まった目的のために書かれているので、趣旨も理解しやすい。 「論文」なんて言うから小難しく感じるだけで、英語にすればだいたいはarticle「記事」かpaper「ペーパー」ですから、そんな大げさなものじゃあないのです。むしろ本よりずっと楽ですよ。 英語論文を読もう! さて、これでもう皆さんは論文を読もうという気概に満ち満ちていると思いますけれども、ついでにもう一つおすすめしたいことがあります。 それは英語の論文を読んでみないかということです。 英語。イングリッシュ。えげれすやあめりかという、はいからな国々で使われているらしいあの言語のことです。 「英語なんて読みたくないよ~~~大学入試でもう一生分読んだよ~~~」というそこのあなた。お気持ちはわかります。けれども、どちらかといえばこれは英語で読まなければならない、読まざるを得ないという話なのです。 とくに経済学では顕著なのですが、一流の研究はほとんどが英語です。今一番流行っている研究が、というだけでなく、これまでに積み重ねられてきた、研究の核になる重要な文献がみな英語なのです。 ほとんどの自然科学、社会科学、また歴史や地域研究であっても、よほど日本に密着している研究でもなければ、大抵の研究は英語です。 なんなら、私の高度経済成長(まさに日本史!)の動画ですら、参考文献を見ればLincolnさんの”Japan, Facing Economic Maturity”という本があります。 私たちは英語を避けては通れません。その分野を研究し続けようとすれば、いつかは英語文献に出会ってしまって、読むしかない状況に追い込まれてしまうのです。「わたし英語文献、いまあなたの後ろにいるの……」と。 英語論文、ざぁ~こ けれども、実は英語論文なんてなんにも怖くありません。雑魚ですよ雑魚。 大真面目な話、あなたが思っているよりも3000倍は楽勝です。「英語読むのやだな~」を乗り越えるのが一番難易度高いレベル。 この落差にはちゃんと理由があります。大きく分けて2つ、前提知識があることと、「数字」があることです。 大学入試や何かで英語に苦手意識のある方、ご安心ください。あれはむしろ大学入試の難易度がおかしいのです。 他言語の文章を読む際に大切なのは、文脈の理解と言葉の理解の両面です。試験でよくある長文読解の問題は、いきなり文脈も何もないで英語が羅列されるのですから、読めたもんじゃありません。単語から必死に文脈を推測するという、わけのわからない作業が要求されてしまいます。 一方、あなたが自分から英語論文を読もうとするなら、それはあなたが既に日本語の文献で既に知っている分野のものでしょう。前提知識、とりもなおさず文脈への理解が十全にあるのです。多少単語がわからないくらい、どうとでもなります。 それに、別に試験のような重箱の隅をキツツキのようにつつきまくるような問題を解く必要もありません。だいたいの意味がつかめれば勝ち。あとは気になったところだけしっかりと読めばもう120点です。 もう一つの理由なのですが、これはとくに経済学や理系分野では「数字」だけでなくアイツがいます。そう「数式」が。 日本語で学んでいる間、おそらく皆さんを散々苦しめたであろう数式。けれども、日本語だろうが英語だろうが、数式の書き方は何一つ変わりません。つまり、数式が理解できているなら、日本語であれ英語であれ、あるいはいっそもっと違う言語だとしても、同じように通用するのです。 散々戦ったライバルがいざというときに味方になる熱い展開です。もちろん、そういうゲームにありがちな、「味方になると弱い」なんてこともありません。むしろ、ある友人は数式だけ追っときゃ文章なんて読む必要ないと言い出すほど。……それは言い過ぎだと思いますけどね。 もちろん、文系分野でも、近年は統計やデータを用いた研究が増えています。こういった部分は、ただ数字が羅列されているだけですし、英語の能力がなくとも簡単に理解することができます。そして文脈がわかっていれば、データの意味もある程度推測がつくわけで。内容も「やっぱりそういうこと言いたいのよね」というように、すんなり入ってきます。 論文の読解テクニック ようやくこの記事の題名と関係しそうなところにやってきました。 さて、いざ英語論文を読む覚悟がついたとして、では頭から最後まで通して一気に……というのではちょっと大変です。私もやりません、そんなこと。 ならばどうするか、ちょっとしたテクニックを使います。… Continue reading 誰でも読める! 今日から読める! 英語論文の読み方
サンタさんは大悪人!? プレゼントの経済学
水差し野郎こと経済学さん クリスマス。ある人は家族と、ある人は恋人と、ある人は友人と。みな楽しく過ごす日です。 いくら経済学者たちの性格が一人残らず捻じ曲がっていて、恋人はおろか友人だってろくすっぽ作れるはずがないという事実があるとはいえ、クリスマスくらいは場を読んで、水を差さないように気を配るに違いありません。 ……と言いたいところなのですが、残念ながら、経済学者の性格のひねくれようは我々の想像をはるかに超えています。 その経済学者がやり玉にあげたのは…… クリスマスプレゼントだろ!! クリスマスの象徴、プレゼントなのです。 もちろん、いくらあの経済学者たちであっても、どこぞのイーデン校の経済学担当の先生のような無根拠の難癖をつけることはそれほど多くありません。 そこには一応の経済学的根拠があります。何も僻みや妬みだけで言っているわけではないのです。 ……ここまで経済学者の面の皮よりぶ厚いオブラートに包んでいますけど、流石にこの先は放送禁止用語が出かねんぞ。 というわけで(?)、このブログ記事では、経済学の観点から(クリスマス)プレゼントについて議論します。 ではでは、さっそくやっていきましょう。 ここは読み飛ばしてもおkです まずは、教科書的なプレゼントの経済学的な意味について述べ……るために、経済学の考え方の基礎をお話します。 数学があんまり好きじゃないって人はここは読み飛ばしちゃっても構いません。 経済学の世界においては、私たちは日々難解な数式を解き、効用(うれしさ)を最大化すべく消費計画を決めることになっています。 代表的な効用最大化問題は、こんな感じです。 (x_iは第i財の消費量、p_iは第i財の価格、Yは予算) これを皆さんは世の中の膨大な量の財に対して解いているのです。 え、そんなわけないだろって? ごもっとも。もちろんそんなわけがありません。こんなの、世の中の人間の9割は解き方すらわからないと思います。 とはいえ、私たちは理由もなく消費計画を決めているわけではありません。皆さん自身は、何か商品を買ったり買わなかったりすることを、「なんとなく」決めていると思い込んでいるかもしれませんが、実は非常に多くの要素を考慮に入れた上で判断しているようなのです。 皆さんの意思決定はとても複雑で、ほんとうに様々な要素に左右されています。たとえば、今日の朝聞いたニュース、お隣さんの噂話、給料日、お財布の中身、空腹感、などなど。 しかもその上、時々の選択が必ずしも一つの目的のために行われている訳でもありません。これらをそのまますべてモデル化する、つまり数式で表すことは、どう考えてもできっこありません。 しかし、他の近似、とくに数学が扱いやすい形で表すことは可能です。これこそが上の効用最大化問題というやつなのです。 つまり、私たちは次のように考えます。 人々はあたかも効用最大化を行っているかのように行動する、と。 これなら、皆さんもある程度納得できるのではないでしょうか。そして、この考えの当てはまりは非常に良いのです。 ……ここまでずいぶんと文字数を使って説明しましたが、結局は、この記事では効用最大化で考えますよ、というだけの話です。 そして、効用最大化を前提にすれば、「プレゼント」の意味がひっじょーーーーにわかりやすくなるのです。 経済学者「『これプレゼントするね!』はすべて悪」 経済学上では、プレゼントはおおむね2種類に分けることができます(厳密にはグラデーション様だとは思いますが)。 第1がお金、ないしはそれに近い金券などのプレゼントです。代表例はお年玉でしょうか。最近ならアマギフもここに含まれると思います。 このようなお金のプレゼントは、当然ながら受け取り手が自由に使い道を決めることができます。何かおいしいものを食べてもいいし、自分の趣味に使ってもいいし、どこかお出かけをしてもいい。もちろん貯金することも可能です。 上の経済学的なお話を踏まえて言うと、「予算」が増えるということになります。もっとも、その分贈り手のお金は減っていますが。お金がただ移動するだけなので、皆が効用最大化を行うとみなせる限り、社会全体の効用はほとんど変わりません。 私が自分で1万円を使って本か何かを買っても、その1万円を娘の六花にプレゼントして、六花が六花自身のために何かを買っても、経済学の観点で見れば、結局この家族のうれしさは同じくらいになるのです。 第2が具体的な財やサービスのプレゼントです。ふつう、皆さんがイメージするプレゼントと言えばこちらでしょう。 このようなプレゼントは、お金と違って、受け取り手は自由に使い道を決めることができません。 お菓子をプレゼントされから、その価値の分のCDを買う、なんてことは無理な話ですね。あるいは飛行機のチケットを貰っても、お腹はちっとも膨れません。貯金なんてどうあがいても不可能です。パンを貯めておいたら腐ってしまいます。 これまた上の経済学的な話からは、特定の財の消費量だけが増えるということになります。この場合も、贈り手のお金が減っていますね。… Continue reading サンタさんは大悪人!? プレゼントの経済学
それでもケインズは死んでいる。
いいかげんケインズ経済学をやめよう 今回のブログは、どちらかというと私の思想(?)的な部分が結構出ております。ただ、これはどちらかといえば経済学の世界では主流の考え方ですので、そんなに偏った思想にはなっていないはずです。というかむしろ現実世界が偏りすぎ(は?)。 まぁ前置きはこの辺にしまして。タイトルの通り、「ケインズはもう卒業してくれ」という話です。 ただ、それだけでなく、「なぜケインズが過度に持て囃されるのか?」ということにも触れてゆきます。その辺で少しばかり経済政策史に触れますから、「歴史」の一部ということでお許しくだせえ。 ケインズの理論は、「ケインズ革命」以来かなり長いこと力を持っていました。もしみなさんが経済を学んでいる学生さんなら、学部1年生で習う「IS-LMモデル」などが有名なケインズ的なモデルです。 そのようなモデルも、もちろん、ごくごく初歩的なインプリケーションについて、平易に説明するという意味においては使用することもあります(実際、私も「日銀の金融政策」の動画の補足解説ではIS-LMモデルの解説を行いました)。 ただし、経済学の世界においては、現在IS-LMをはじめとした旧来型のケインズ的モデルが用いられることはありません。 これはもうほとんど断言してしまってよいことだと思います。いわゆる「ルーカス批判」を経て、今は「ミクロ的基礎付け」に基づくマクロ経済学モデルが主流となっているのです。 もっとも、名前の上では「ニューケインジアン」という立場があり、現在もかなりの影響力を持っている学派(有名なDSGEモデルはニューケインジアン的なモデルです)ではあるのですが、彼らもまたミクロ的基礎付けの上に立っています。決して、彼らがIS-LMモデルを採用して議論を行っているわけではないのです。 (なお、この記事で「ケインズ」とか「ケインジアン」というときは、原則として旧来型のケインズ的な立場を指すこととします) そのような意味において、間違いなくケインズは死にました。 ところが、驚くべきことに、経済学から一歩外に出ると、いまだにケインズが大股で闊歩しています。 それも、ケインズの限界を知った上で、妥当な範囲の含意を得るために使われているのならばよいのですけれど、残念ながら、いまだにまるで万能薬かのように使われていることが多いのです。 といって、私も彼らをあれこれと非難しようというわけではありません。そこには興味深い(イギリス風味)構造的な問題が存在するのです。それは後に触れましょう。 ケインズ、そもそも生きていたのか? ここで、改めてケインズの死亡確認を行っておきましょう。 ケインズ理論が(短期的に)財政支出や減税を正当化する根幹は、「乗数」にあります。 財政支出と減税では若干の違いがありますが、結局のところは「100万円支出したら、100万円より大きな経済効果があるんだ!」ということを、ケインズ(およびその後継者たち)は主張しました。 もしそれが本当なら、たしかに魅力的な提案です。 が、多くの実証研究が示すのは、その乗数は「1」未満であるということです。 ケインズを信じる人々には残酷な話ですが、「100万円支出しても、100万円より小さな経済効果しかない」というのが、事実なのです。 たとえば、コロナ禍における例の10万円の給付金は、3.5兆円の経済効果があったと言われます。 しかし、給付金は1.2億×10万円ですから、支出は12兆円。つまり、乗数は「0.3」程度です。 さらに悪いことに、この給付金はインフラなどへの投資と異なり、公共財の供給という観点からは正当化できず、一方で所得減税のように労働のインセンティブの観点からも正当化できません。 平たく言ってしまえば、これは失敗でした。 他の例、たとえば戦間期の諸国でもまた、ケインズは生きていなかったようです。 「ニューディール」の効果は、最近になって見直しが進み、想定されていたよりもずっと小さなものだったと判明しています。 ドイツの経済が復活したのはケインズ政策ではなく、通貨の安定が最も重要であった可能性が高いと見られています。 そして日本も、「高橋財政」成功の要因は通貨レートの(疑似的な)切り下げが功を奏したのだという意見が出てきています。 (申し訳程度の歴史要素。でもこの辺の研究はすごく活発で面白いので、よければぜひ) もはや、現在においてケインズが死んでいることだけでなく、「そもそもケインズは生きていたのか?」(有効であったことはあったのか?)という話にまで発展してしまうのかもしれません。 「大きな政府」というケインズ主義、「小さな政府」というケインズ主義 皆さんは「大きな政府」と「小さな政府」という言葉をご存じでしょうか。 政治学の方に怒られるのを承知でざっくりと言うと、文字通り大きな政府は色々なことを政府がやって、小さな政府は色々なことを民間に任せるスタイルです。 誤解して欲しくないのですが、これはどちらが良いとか、どちらが正しいとかいうものではなく、単なる政治的な態度の区別です。最もわかりやすいのがアメリカで(毎回アメリカの話してる気がするな?)、民主党は「大きな政府」、共和党は「小さな政府」をそれぞれ志向する立場に立っていると言われています。 ここで皆さんに質問です。民主党と共和党、つまりは「大きな政府」と「小さな政府」、ケインズと親和性が高いのはどちらだと思いますか? たぶん、多くの人は民主党の「大きな政府」だと答えると思うのです。ニューディールなんかも民主党でしたからね。たしかに、民主党はケインズ的政策を重視し、行ってきました。 ところが、実際の所、共和党もまた(場合によっては、意図せざる形で)ケインズ政策を繰り返してきたのです。 これは、共和党が「小さな政府」を放棄して、「大きな政府」を志向したということではありません。 むしろ、「小さな政府」のための政策――減税――こそが、本質的な小さな政府主義者にはおそらく不本意な形で、ケインズ政策として機能してきたのです。 … Continue reading それでもケインズは死んでいる。
マシュマロ回答『ぶっちゃけ今の円安って何が問題なんですか?』
これは何の記事? ちょっと前から設置している、世界史べーたのマシュマロに来た質問に答えよう! というコーナーです。 ……ええ、私が張り切り過ぎたせいで、Twitterで答えると「『世界史』じゃなかったんですか?」とか言われそうな長さになってしまったのです。申し訳ない。 あとは、マシュマロ投げやすくなるよう、どんな質問にも答えますよ~という姿勢を見せていきたいな、という思いもあります。ほんとにどんな質問でも、質問じゃなくても構わないので、ぜひぜひマシュマロをください。「生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え」とかでもいいですよ。ちなみにその答えは42です。 あ、言い忘れておりましたが、本マシュマロ回答はあくまでも※(米印)の見解であることをご承知おきください。 マシュマロ回答なので、ちょっと真面目寄りに行きます。 円安の原因 まず、(対米ドル)円安の原因についてです。今回の円安の原因は、主に日米の金利差によるものであろうと考えられています。金利差があると、資本が移転することによって為替相場が変動するのです。 もう少し詳しく言うと、現状のような金利差がある場合、日本の低い金利でお金を借りて、金利の高い米国に持って行くだけで利益をあげられてしまいますね(裁定取引)。すると、日本から米国に資本が移動しますから、為替相場は日本円を低く評価し、米ドルを高く評価します。これは円安ドル高にほかなりません。 (ただし、理論上は金利と為替相場が同時に、かつただちに調整されますから、裁定取引による利益はあげられないことが知られています) このことはいわゆるトリレンマの問題としてみなすことができます。今は自由な資本移動と、独立した金融政策(低金利)を維持しているので、安定的な為替相場が保てない、ということです。 もっとも、上記はあくまでも理論上の話であり、現実の金利や為替相場が必ずしもそうなっているわけではありませんが、現状の円安ドル高とは整合的です。 円安の問題点(悪い影響) 次に、円安の問題点について言及しましょう。直接的な影響としては、輸入産業が苦境に陥る可能性があります。 とくに、実質為替相場という概念を考えると影響は顕著です。「実質」とある通り、両国の物価も考慮した為替相場のことで、いわゆる購買力の変化を加味したものとも言えます。現状、物価上昇率は日本よりも米国の方が高いわけですから、日本の購買力は下落していると見なせます。つまり、実質為替相場はさらなる円安ドル高となっているのです。 ただし、他方で輸出産業は円安の恩恵を受けるであろうという指摘ももちろん成り立ちます。その意味では、円安が良いのか、円高が良いのかというのは、自国の経済構造に依存すると言えます。 とはいえ、現在の為替相場の変動は、急激かつ先が見えないという点で問題があるかもしれません。経済学ではしばしば取引費用がまったくないかのような言説を行いますが、結局のところ、現実において急激な変化に対応しようとするためにはコストがかかります。単純化して言ってしまえば、不安定な為替相場が良い影響をもたらすとは考えにくいでしょう。 また、市場は日銀が為替相場の変動を放任していると見ているようですから、いわゆるvolatilityは高い状態にとどまるかもしれません。ただし、動けない理由は「中央銀行の信認」などとも関連しますから、日銀がどうすべきかということは、簡単に判断できるものではありません。 まとめ まとめると、現在の円安の主要因は金利差であり、輸入産業は厳しい状況におかれています。円安や円高は必ずしも悪いものではありませんが、現在の急激かつ先行き不透明な変動は、悪い影響を及ぼしている可能性もあります。 ちなみに、本件について参考になるのは、ちょっと前(3月末)のものですが、この記事などでしょうか。 上野剛志「まるわかり”実質実効為替レート” ”50年ぶりの円安”という根深い問題」(ニッセイ基礎研レポート)、ニッセイ基礎研究所。https://www.nli-research.co.jp/files/topics/70706_ext_18_0.pdf というわけで、マシュマロに回答してみました。どうでしょう、答えになっているでしょうかね……? 私が言うのもなんですけれど、世界史べーたにはめっちゃ色んな人がいます。先史時代から今晩の活動まで、お気軽に質問してみてください。たぶん誰かしら回答できると思います。 (でも、あんまり政治的に敏感な話題は避けた方がいい……かも?) だから! マシュマロを! ください! 追記: 諸事情によりマシュマロからgoogleフォームでの募集に切り替わりました。以下のリンクからどうぞ! 世界史べーた(仮)への質問!
日本財政は持続不可能だった? Bohn検定による検証
財政の持続可能性とは? ドーモ、読者=サン。赤字スレイヤーです。 ああ待って、ブラウザバックなさらないでください。 ……こほん。改めまして、※(米印)です。 今回は、Ihori et al.(2001)(以下、「井堀ら」と記します)を参考に、戦後日本(~98年)の「財政の持続可能性」を検討してみたいと思います。 ただし、ひとつ注意していただきたいのは、これは政治的意図があるものではないということです。あくまでも「歴史」として捉えてくだされば。 ではでは、本題に入りましょう。 財政が持続不可能であるとはどういうことかというと、財政が持続可能ではないということです(小泉構文)。 ……いやいや、大真面目な話なんですって。というのも、「持続可能」の基準は決して明確ではないのです。 とくに近年の計量分析の進歩もあり、「○○が××だから持続可能!」みたいなことを安易に言ってしまうと、「素人質問で恐縮ですが……(素人ですらわかるとこに欠陥があるように見えますが)」とか「基本的な質問ですが(基本的な部分に落ち度があるんだが)」とか、「私もよくわからないのですが(え、そんな初歩的なミスやらかすとは信じられないんですが)」とかが飛んで来ますから…… それを踏まえて井堀らの議論を紹介しますと(責任逃れ)、主に 「公債の中立性」を確認する Bohn(1998)の検定を用いる の2段階によって評価しています。 以下では、この2つについて紹介してゆきましょう。 バーロー、バローの中立性が保たれてなきゃしょうがないんだよ 公債の中立性(中立命題)というのは、「財源に公債を使っても、増税を行っても、結局一緒だよね」という議論です。 え、そんなことあるわけないじゃないか、と思うかもしれません。正直私もそう思います(え しかし、事実として公債はいずれ返さなければならないわけで、結局は増税を行うことになります。ですから、もし人類がめちゃくちゃ合理的な存在だとしたら、この増税を見越して経済活動を行うでしょう。そうなれば、「全然違わないじゃん!」となるわけです。 もしこれが満たされていれば、公債をいくら発行しても、国民は賢明なことに「どーせ増税するんでしょ?」と考えて行動するので、ほぼ持続不可能にはならないはずです。 これが中立性のおおまかな内容です。 さらに細かい議論に入ってゆくと、中立性には「リカードの中立性」と「バローの中立性」があり、一般にバローの中立性の方が「強い」概念だとされています。 バローの中立性は、子孫代々に対して遺産を残したい、という思いを想定していますから、「いやいや、どーせ増税するんでしょ?」が100年200年先にも適用できるという主張なわけです。 ……うん、ちょっと過剰ですよね。 ちなみに、リカードの中立性はその世代で返すという条件なので、もう少しマイルドです。 で、日本財政はどうなのか、という話です。 井堀らはこれらについて検討したところ、リカードの中立性についてはある程度認められるものの、バローの中立性は不十分であると指摘しています。 リカードの中立性で保証されるのはあくまでも同一世代の間だけですから、クソデカ債務を抱えている日本の例ではちょっと物足りないと言わなくてはならないでしょう。 つまり、公債の中立性という観点からは、持続可能性を担保できないという結論です。 ククク……Bohn検定が敗れたか。奴は我らの中でも最強…… 次にBohn(1998)の検定(Bohn検定)について紹介しましょう。 これは簡単に言うと、「借金が増えたら、それを返そうとしているかどうか」ということの判断です。つまり、債務残高が増えたら、歳入を増やしたり歳出を減らしたりして、収支を改善しようとしているかどうかを見るわけです。具体的な説明はBohn(1998)、和文なら土居・中里(2004)などを参照してください。 先にこのことを強調しておきますが、Bohn検定は決して一部の研究者のみが用いているものではなく、むしろ21世紀に入って支配的になってきた手法です。ですから、旧来の単位根検定、共和分検定などよりも優れた特性を有している、とされています。手法に対する疑念は(持たないこともまた不健全ですが)過剰に評価されるべきではありません。 さて、井堀らの議論です。Bohn検定によって導き出された結果は、まず56年~98年、65年~98年のいずれの場合についても、前述の収支改善の反応は有意に観測できなかったということです。これは財政が持続可能であるという主張を支持しません。 ただし、喜ばしいことに、長期的に見るともう少し事情が異なります。 歴史をさらってみると、70年代、とくにオイルショック後に財政支出が大いに増えました。田中角栄内閣はもとより公共事業を盛んに行い、さらには福祉の充実も試みていましたし、もっと悪いことに(選挙対策として)合理性のない減税も行ってしまいました。このような減税は70年代を通じて見受けられますが、ひっくるめて言えば、与党が減税を唱えれば野党はさらなる減税を主張する、という悪循環に陥っていたわけです。 しかし、80年代の行政改革、さらには消費税の導入をもって、90年代初頭には財政状況は大きく改善しました。これらの時期の財政収支を縦軸に、債務残高を横軸に取ると、井堀らが「二次関数的」と言ったような関係が成り立っています。 少なくとも70年代~90年頃までは、一時的な債務拡大こそあれ、概ねにおいては「借金が増えたら、それを返そうとする」意識が保たれていたと言えるでしょう。 ところが、井堀らの議論には続きがあります。バブル崩壊後、いよいよもって政府債務は手が付けられなくなりつつあるというのです。 先ほどの財政収支と債務残高の関係で見てみると、98年には大きく悪化しています。 これでは、「持続可能」と言うことはできません。井堀らは、「近い将来において、財政赤字を削減することが重要である」と結論付けています。 つまりどういうことだってばよ 以上、井堀らの議論からは、70年後半と90年代後半の日本財政は、持続可能ではなかったと言う必要があるようです。70年代の場合はその後に回復期が一応ありましたが、90年代の場合は(井堀らには)それは示されていません。 では、日本財政は破綻してしまうのでしょうか? しかし、実際そうはなっていません。この理由はなんでしょうか。 たとえば、藤井(2010)は、同様の検定を行った結果、90年代以降の財政収支と債務残高の関係に同じく「二次関数的」関係を見出しており、持続可能と結論付けています。 これを解釈するならば、小泉政権下での改革などによって、財政収支が(少なくとも一時的には)改善した可能性があります。井堀らの提言した「近い将来の財政赤字削減」は、まさにその直後に行われたのでした。… Continue reading 日本財政は持続不可能だった? Bohn検定による検証
日本の「インダストリアル」revolutionと「インダストリアス」revolution
日本の「産業革命」 皆さんは、「industrial revolution」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。日本語に訳せば「産業革命」です。 「バカを言うな、それくらい誰だって知ってらぁ」という声が聞こえて来そうですが、ちょっとばかしindustrial revolutionの話を聞いてってくだせえ。 「それはいいけれど、英語にしてるのがしゃらくさい」ですって? それにもちゃんと超重要な意味がありますから、しばしお付き合いをば。 さて、皆さんは、「産業革命」と聞いて、どんなものを思い浮かべるでしょうか。機械の導入、飛躍的な生産効率向上、労働者の誕生…… おそらくは「革命」という言葉に引っ張られて、まるで天地がひっくり返るかのような大転回をイメージしがちなのではないかな、と思います。しかし、この世の大概の物事については(クソデカ主語)、「革命」などと大上段から論じるのはナンセンスと言わざるを得ません。 むしろ、緩やかな、しかし着実な変化にこそ注目しよう……というのが、近年の政治史や経済史研究の潮流なのです。 極端な話になると、いわゆる産業革命否定論なんてのも出てきますけれども、とりあえずのところ、本稿では少なくともその時代に起きた進歩の行程は肯定してあげましょう。行程だけに。 在来産業「私のこと、忘れちゃった……かな。あはは……私、影薄いもんね……」 では、そのindustrial revolution、「産業革命」というやつはいつ日本で始まったのでしょうか。ほとんどの人は、明治期だろうと答えると思います。事実として、この時期の殖産興業政策などを経て、日本には機械化の波が押し寄せてきました。その結果、有名な富岡製糸場なんかがにょきにょき生えてくるわけです。 しかして、皆さんがイメージするような、でっかい機械がガッコンガッコン動くような工場労働というのを、みんながみんなやっていたわけではありません。 この辺りはマルクスファンクラブの皆さんが喧々諤々の議論をやっていらした分野で、彼らが言うには工場での機械工業の前に、「マニュファクチュア」(工場制手工業)という段階があるという話になっています。で、さらに彼らの議論を紹介するのですが、日本は幕末期には「厳密な意味でのマニュファクチュア」に達していたのではないかと言います。 厳密がどうこうってのについては神学論争が掃いて捨てるほどあったのですけれども、ともあれ、幕末期に一部では工場制手工業が見られていたのは事実です。 もしかすると勘の良い方は気づかれているかもしれませんが、この「一部では」という文句が重要です。というのも、結局のところ、「いっせーの」で工場が降ってきたり、機械がぽこじゃか湧いてきたりするわけがないんですよね。ファンクラブの方々が「マニュファクチュア」よりもさらに前段階だとしていた家内工業までも、明治期以降も随所にみられるわけです。なんなら、大隈財政期ころならば、工業製品の大部分は江戸期以来の技術によってつくられていたのです。 日本経済は、工場で機械を動かすような近代産業と、旧来の在来産業が併存しながら発展しました。在来産業は読んで字のごとく江戸期から存在した産業ですから、私たちが注目したい対象そのものです。 それでは、近代産業は江戸期からの連続性がなく、西欧からどんぶらこ、カイコクシテクダサーイとやってきただけのものなのでしょうか。もちろん違います。そこには江戸期からの連続性ももちろんあります。 それこそが、日本における近代産業発展の要因の一つ、industrious revolution(勤勉革命)なのです。 ただの言葉遊びなんだ。すまない 賢明な読者の皆様は既にお気づきのことかと思いますが、速水らが唱えた「industrious revolution(勤勉革命)」の「インダストリアス」は、「industrial revolution(産業革命)」の「インダストリアル」にかけているのです。だから、私は先ほど「超重要な意味」があると述べたのですよ。 ……あんまりこんなことをやっていると、そのうち批判的なトマトがカイコクシテクダサーイと飛んで来そうですので、本題に行きましょう。 速水らの主張は次のようなものです。 江戸期には、長時間の労働を行うことで生産量を高めるという「勤労」が、人々の間に広まりました。これは彼らが「独立した経済主体として行動し得るようになった」ことによるものであり、より具体的には、生産量を高めることで生活水準を高められる、という信頼が生まれたことによるものです。 何を当たり前のことを、そんなのオセアニアじゃ常識なんだよ! と仰る方もいるかもしれません。 たしかに、私たちはふつう、働けば働くほど豊かになると信じています。もちろん部分的にはそうでないこともありますが。たとえば3人分の仕事がなぜか1人に押し寄せているとか、それを下手に頑張っちゃうと補充が来ないとか…… んんっ、ともあれ、少なくとも社会の大部分にはその信念が成り立ちます。成り立つことにしておいてください。成り立たなかったら悲しいので。 ところが、前近代の、とくに農業セクターでは必ずしもそうではありませんでした。 というのも、「胡麻の油と百姓は絞れば絞るもの」などと言われたように、農業従事者のもとには最低限を残して、それ以外を全部年貢でとってしまう、というようなシステムも珍しくはなかったのです。 しかし、近代に向かうにつれ、「勤勉革命」が起きてゆきました。 そのためのひとつの画期は、速水らも提示している「定免法」の導入です。 それまでの、生産量に応じて年貢量を決める「検見法」に対して、毎年一定量の年貢を取るシステムを「定免法」といいます。すなわち、米俵で10俵と年貢が決まっていれば、15俵収穫しても、20俵収穫しても、あるいは100俵収穫しても、10俵以外は全部自分のものにできるのです。 これは経済学者の大好きな「インセンティブ」(動機)というものに他なりません。定免法は生産量を増やすインセンティブとして機能したと考えられています。 そして、生産量を増やせば、余分な分を生活水準向上に使ったり、あるいはさらに翌年の生産量を増やすための肥料を買ったり、なんてこともできるようになるのです。そこで、先に述べたような、「生産量を高めることで生活水準を高められる」という信頼が生まれます。これが「勤勉革命」です。 維新後の近代産業導入の中で、「勤勉革命」は様々な形で表出します。たとえば職工の勤労はわかりやすい例でしょうし、あるいは庶民の教育への意欲もこの文脈に位置づけられるかもしれません。 既成の経済成長モデルであるSolow-Swan modelなどは、もっぱら資本蓄積と技術進歩(と人口)に着目しますから、速水の労働力の投下への着目は非常に鋭い指摘だったのです(と私は思います)。 まとめにかえて 今回は、主に「産業革命」前後の連続性に着目して論じました。ただし、私が「一部」や「~もある」という言い方を繰り返してきたように、これらは連続性「だけ」で語れるものでもありません。そこには断絶だって存在しますし、さらには連続性と断絶性がミックスされたような分野もあります。 経済は複雑なのです。それを言っちゃあおしめえよ、という感じですが、論文一本や書籍一冊なんかで語り切れるものでは到底ありません。いわんやこんなブログをや。 けれども、他のブログでも言及したと思いますが、それを理解した上でどのような視角で見るのか、というのが大切になってきます。… Continue reading 日本の「インダストリアル」revolutionと「インダストリアス」revolution
道真第二回の参考文献と、寛平遣唐使問題の諸説
文人官僚の限界を超えて♪ 道真は来たんだよ おひさしぶりです。「みっちざねにしてあげる♪(してやんよ)」という曲(捏造)が頭から離れない※(米印)です。 菅原道真解説の第二回、ご覧いただきありがとうございます(見ろよ、という圧)。 さて、今回は文献紹介と補足解説を行っていきます。前回も言いましたが、私は平安期日本史の専門家ではありませんので、参考程度にしてくださいね。 参考文献紹介 渤海使関連 上田雄(2004)『渤海国 東アジア古代王国の使者たち』講談社学術文庫。 ※文庫本なのでお手軽。渤海使の基礎情報はほとんどこれが網羅しています。ちなみにこれは1992年の『渤海国の謎 知られざる東アジアの古代王国』(講談社現代新書)を元にした本なので、どっちかが見つかればぜひ読んでください。 古畑徹(2018)『渤海国とは何か』(歴史文化ライブラリー 458)、吉川弘文館。 ※渤海の国自体についてはこれがおすすめです。ただ、渤海使についてはそこまで詳しく扱っていないのです…… 上田雄(2002)『渤海使の研究 日本海を渡った使節たちの軌跡』明石書店。 ※専門書です。各回の渤海使(違期入朝含む)を詳細に記しています。ちなみに都言道くんの下心もこれのおかげで知りました。 寛平遣唐使問題 渡邊誠(2013)「寛平の遣唐使派遣計画の実像」『史人 5号』広島大学大学院教育学研究科下向井研究室。 ※論文です。増村~石井の議論がよくまとまっています。寛平遣唐使問題に興味を持った方はまず読んでみてください(リポジトリに公開されているので無料で読めます) 石井正敏著、村井章介、榎本渉、河内春人編(2018)『遣唐使から巡礼僧へ』(石井正敏著作集 第二巻)、勉誠出版。 ※石井の論文集です。「いわゆる遣唐使の停止について」と「寛平六年の遣唐使計画について」、それから「寛平六年の遣唐使計画と新羅の海賊」が寛平遣唐使問題を扱っています。「いわゆる~」は「其日」問題、「~新羅の海賊」は「新羅賊」説まわりの否定なので、もし個別に論文を探すなら「~計画について」(道真の二つの文章の読解)をどうぞ。 増村宏(1988)『遣唐使の研究』同朋舎出版。 ※結構古いですが、だいぶ先進的な議論を行っています。ただし、他説批判がメインなので増村自身の説は見えにくいかもしれません。だいたいの古い説は「増村を見ろ」で終わります(え 滝川幸司(2019)「菅原道真と遣唐使(一) 『請令諸公卿議定遣唐使進止状』『奉勅為太政官報在唐僧中瓘牒』の再検討」『詞林 65』大阪大学古代中世文学研究会 滝川幸司(2020)「渡唐の心情は詠まれたのか 寛平の遣唐使と漢詩文」『語文 115』大阪大学国語国文学会。 ※滝川先生の論文です。直前までこれに気づかずに作ってしまって、「まぁどうせそんな変わらんやろ」と読んでみたら論理でぶん殴られてしましました。上のやつはweb上で公開されてますので、ぜひ読んでみてください。 道真の再検討要請の理由の諸説(紹介しきれなかったもの) 鈴木靖民の「新羅賊」説 石井らが否定。そもそも、史料を素直に読めば道真が理由にしたのは「唐に着いてからの困難」だったはずなので、唐に着く前(渡航)を問題にするのはナンセンスだと私は思う。 「大義名分説」や「社会経済説」などなど。 増村によくまとまってるからそっちを読んでください……でよろしいでしょうか。早期の説なのでちょっと…… 「藤原氏陰謀説」 藤原氏が道真を遠ざけようとして、というのは明らかに無理筋。ただし、個人的には、本編で述べたような「意思疎通不足」は陰謀に求めることもできなくはないのかなと思ったり。というのも、道真は結構全方面から嫌われていたので(悲しい)、宇多の近臣に道真を疎む者が居てもおかしくはない。ただ、あえて陰謀があったと考える必要性は薄いと思う。 ほか、私の個人的な雑感 滝川は遣唐使再検討の根拠は「中瓘の録記」と断じているが、個人的には早計な感がある。道真が個人的に持っていた伝手を辿ったり、(場合によってはあまり公にできない)商人などから得た情報をもとにしていた可能性は考えられる。その場合は森説に近いものがあるのかもしれない。 ただ、中瓘録記未読説を取らないなら、中瓘の録記で既に渡唐停止を勧めているわけで、それ以上に何か決め手となる情報とは一体なんぞや、という疑問は残る。やはり本編で出したようなコミュニケーション不足に求めた方が無難な気が……しかし根拠はないわけで。やっぱりわからん。 今回は寛平遣唐使問題をかなり深堀りできたと思います。たぶん最新研究とそこそこ同じ景色が見られているのではないかと。ただ、そのせいでちょっと次回の目途が立っておりません……6月に投稿できたらいいなぁ……(そして今回に比べたら薄味でも許して下さい。むしろ今回が異常なんです)
菅原道真-学者政治家の栄光と没落
学者ながら右大臣に昇進するが、無実の罪で大宰府に左遷された菅原道真(845~903)。藤原氏の専横が目立ち始めたこの時期、学問を家業とした道真は、英邁で名高く、宇多天皇に見出され異例の出世を果たす。天皇による過大な評価・重用に苦悩しつつも、遣唐使派遣など重大な国政に関与。だが藤原氏の策謀により失脚する。本書は、学者、官僚、政治家、漢詩人として、多才がゆえに悲劇の道を辿った平安貴族を描き出す。 【アマゾン書籍情報から引用】 菅原道真 濃縮還元100% 道真の人生はどこを切り取っても見どころがあります。私の動画本編でも扱う(予定の)ように、親族、幼少期、出世、外交とのかかわり、そして左遷…… それらを余すところなく、新書一冊にぎゅぎゅっと濃縮したのがこの本です。 新書と侮るなかれ。滝川先生は『菅原道真論』(塙書房)のような専門書も記している、21世紀を代表する道真研究者です。正直なところ、これさえ読んでしまえば道真成分のほとんどは摂取出来てしまうと言ってよいでしょう。 もし、これだけでは足りない、ストレートの道真ジュースが飲みたいんだ、ということであれば、巻末の参考文献や私の文献案内(ダイマ)から色々漁ってみてくださいね。……諭吉が群れを成して逃げ出すのは覚悟の上で(え 書籍情報 著者:滝川 幸司 翻訳者:– 編集者:– その他:– 出版社:中央公論新社 出版年:2019/9/14 ISBN-10:4121025598 ISBN-13:978-4121025593