空母機動部隊のなおしかた。(日本海軍の場合)前編

何もしてないのに機動部隊が壊れました。 1942年6月5日、日本海軍はミッドウェー海戦において空母四隻を失う大敗北をしました。 この敗因は、米軍が暗号を解読したことによる待ち伏せだったのですが、日本海軍は「攻勢に使える手札が大きく減った事」と「米空母部隊を撃破しない限り作戦行動が不可能になる」という点で大きな衝撃を受けていました。 なにせ、本海戦も前のポートモレスビー攻略作戦も米空母部隊の反撃により頓挫しており、これを撃破してしまえばそもそも待ち伏せを受けることもないという考えに至ります。 この時点では、後年に言われるような「攻勢から守勢に変わった転換点」と日本軍は考えておらず、あくまで「攻勢」を諦めていなかったのです。 その為、以後の日本海軍は「待ち伏せする米空母部隊の排除」を念頭に置いた対空母戦に特化した艦隊編成や搭載編成へと変わっていくのです。 さぁ、空母を緊急で増産しませう。 ミッドウェーでの敗戦で海軍は空母の緊急増勢計画を研究し、⑤計画等既定の軍備計画修正の中に含められることになり『戦艦、超甲巡の建造は全て取りやめ、航空母艦の建造を優先する。軽巡洋艦の建造隻数を減少し、駆逐艦、潜水艦、掃海艇、海防艦、駆潜艇の建造を大幅に増加する。』という内容の改⑤計画に改められていきます。 この改⑤計画で新造される空母は 5021号艦(改大鳳型)5隻 302号・改302号艦(雲龍型)13隻 となっていました。 ですが、空母の新規建造は最低でも2年の年月を必要とし、今すぐに空母が欲しい現状では即効性に欠けました。 それらに対し、比較的短期間で戦力化が望めそうだったのが使い道のなくなった水上機母艦・甲標的母艦を軽空母に改装することと、艦爆による先制攻撃の母艦として低速戦艦を改装することでした。 軽空母は、当時すでに飛行甲板の狭さから現行の機体を運用するのがやっとであり、次期新鋭機(彗星や天山など)の運用は困難なのは火を見るよりも明らかだったのですが、上層部は現状の対空母戦に対処できればいいと考えていたのだと思われます。 まぁ、その結果、軽空母が空母部隊に増えていくことで現地部隊は扱いに困ることになるのですが、それはまた別のお話。 さらに言うと、使い道がないと思われていた甲標的母艦が、直後のガダルカナル島輸送作戦で一番必要とされていた高速輸送艦の要件を満たしており、投入の機会を空母改装により逸したのもまた別のお話。 さぁ、ある物で機動部隊を再編しませう。 1942年6月12日に軍令部に出頭した源田実中佐はミッドウェー海戦の戦訓も取り入れた空母部隊再建案を提出します。 その内容は、一個航空戦隊の空母を大型空母2、小型空母1とし艦戦、艦爆の搭載数を増加させ代わりに艦攻減らすというものでした。 小型空母は主に艦隊の防御を担当し、大型空母を攻撃に専念させることを目的としており、空母の絶対数が不足している現状で使い道の限られている二線任務に割り当てられていた小型空母を艦隊で活用させようとしたのです。 また艦爆の増加は1939年頃の編成にあった機動航空隊の任務である敵機動部隊を先制攻撃し、飛行甲板を爆撃によって使用不能にするという方針に回帰した物でした。 また、戦前の艦隊決戦構想の最終目標であった米戦艦部隊の撃破は開戦劈頭の真珠湾攻撃により達成されており、日本の戦艦部隊はこの時にはすでにその存在意義を失いつつありました。また、艦隊決戦構想では空母部隊、巡洋艦部隊が前衛として進出し、決戦の障害となる米空母部隊を撃破した後に戦艦部隊同士の決戦に臨むといった方針でしたが、ミッドウェーではそれが逆に仇となり、航空決戦に敗れ制空権を喪失したために連合艦隊は戦艦などの有力な戦力を持ちながら撤退を余儀なくされただけでなく、その後の敵航空部隊の追撃に苦しみました。 その結果、当然の帰結ではありますが艦隊決戦のメインとなった対空母戦の艦隊編成として、巡洋艦部隊を進出させ、その後方に空母部隊を配置して米空母部隊を攻撃するという編成になり、たとえ先制攻撃を受けたとしても米空母艦載機の攻撃は前衛で吸収し、その間に後方の空母部隊の攻撃隊が米空母を叩くという構想になっていきます。 そして「艦隊決戦の主力艦隊」であった第一艦隊は解体が進み、伊勢、扶桑型の戦艦四隻は航空戦艦への改装が検討され、艦隊決戦の秘密兵器であった重雷装巡洋艦の大井と北上は南西方面艦隊への輸送作戦用として転出していくことになります。 こうして、戦前に日本海軍が夢見た「大艦巨砲主義による艦隊決戦構想」はここに崩壊したのでした。   そしてこの「航空機主体による艦隊決戦構想」がそのような結果を迎えたのかは次にお話することにしましょう。

海軍と炭酸飲料のこばなし

海軍さんの嗜好品  戦争において士気などを維持するのに嗜好品は貴重なものでした。なにせ、やる気がない中仕事をしてもなかなか捗らないように、士気が低いと兵士も弱くなるのです。  第一次世界大戦でもフランス軍は、兵士1人につき毎日4分の3リットル(通常のワインの瓶1本に相当)のワインを無料で支給し、イギリス軍も一日一口程度のラム酒を支給して士気の維持に努めたほど。  第二次世界大戦では救国戦闘機のスピットファイアがフランスにいるイギリス軍の為に落下タンクにビールを詰めたり、仕事熱心な米軍のおにいさんが最前線の小島にアイスクリーム製造機を配備したりと……これらは「兵士を甘やかすため」ではなく「効率よく兵士のやる気を出させるため」に用意されたのです。   WWIでガリポリに上陸したフランス軍のワイン  そういう意味では、昨今のミリタリーオタクの皆さんが小馬鹿にしがちであるイギリス軍の現代戦車に搭載されている電気式湯沸し器も士気の維持という点では侮れない装備です。敵の砲爆撃の嵐の中でも安全な装甲に包まれた戦車の中で火をたかずに暖かい食事や飲み物が楽しめたり、布の消毒ができたりするのです。皆さんだって冷たいコンビニ弁当ばっかりだと少しは暖かいものが恋しくなるでしょう?それが安全にできるのですごいんですよ。 とてもつおいイギリス軍の湯沸かし器  ……っと少し話がそれてしまいましたね。  それでは士気向上の嗜好品を大日本帝国の海軍さんはどうやっていたのかというと、甘いものでやる気を出させていました。  泊地などではかの有名な給糧艦間宮の間宮羊羹などの甘味の補給が有名ですが、巡洋艦以上の大型艦には自分たちでそう言ったものを作る手段がありました。    それが「ラムネ製造機」です!  海軍艦艇には、火災の時に火を消すために「二酸化炭素消火装置」というものが備え付けてあり、それを転用して「ラムネ製造機」というものを設置したのです。  この装備の設置については戦前からであり、昭和三年の「艦舷「ラムネ」製造機装備の件」という訓令が出されており、横鎮、呉鎮、佐鎮長官あて(舞鎮がないのは、当時軍縮条約により要港部に格下げされていたため)に海軍省大臣官房から 『其府麾下所属ノ既成戦艦、巡洋戦艦、巡洋艦、航空母艦、潜水母艦、給糧艦及其他必要ヲ認メタル艦舷ニシテ「ラムネ」製造機ヲ有セサルモノニアリテハ此際艤装品トシテ装備方取計フベシ 右訓令ス(後略)』  とあり、要約しますと 「横須賀、呉、佐世保の各鎮守府長官は、自分の部下所属で竣工済みの戦艦、巡洋戦艦、巡洋艦、航空母艦、潜水母艦、給糧艦そのほか必要な艦船でラムネ製造機を取り付けていない艦があるのならば、この機会にすべて取りつけるように」  というものになります。ここで駆逐艦や潜水艦等がないのは、ラムネ製造機を設置するにはスペースなどの制約があるからなのでしょうかね?実際に駆逐艦島風や駆逐艦山雲といった艦にはラムネ製造機は設置されていなかったという記述を見たことがあるのでそういう事なのでしょう。  ちなみに火を消すための炭酸ですので、そう無闇に使う事もできません。なので停泊時は「ボンベに入った炭酸ガスを陸上から買って製造」していたそうです。    なおその頃、仕事熱心な米軍さんは大型艦にアイスクリーム製造機を導入しており、米空母艦載機が不時着した際に駆逐艦などがパイロットを回収して引き渡せば、お礼にパイロットの体重分のアイスが貰えたそうな……やっぱり格が違うなぁ……

戦時中の鉄筋コンクリートについて、お話します。

まず、鉄筋コンクリートとはなんぞや。 明けましておめでとうございます。2023年もよろしくお願いしたりしなかったりしますね。 そんな新年の挨拶もほどほどに、今回の主題である鉄筋コンクリートについてますは話しておきましょうか。 鉄筋コンクリートとは、コンクリートの芯に鉄筋を配することで強度を高めたものを指し、コンクリートは圧縮力に強い反面、引張力には弱く、一度破壊されると強度を失う一方鉄はその逆で、引張強度が高い反面、圧縮によって座屈しやすいが、容易には破断しない粘り強さ(靱性)を持つを両者を組み合わせることで互いの長所・短所を補い合い、強度や耐久性を向上させるものが鉄筋コンクリートであります。 これは現代の鉄筋コンクリート   戦時中の鉄事情 さて、そんな鉄筋コンクリート君ですが、戦時中はどうだったのでしょうか? 戦時中で鉄と言えば、ある程度ミリタリーや近代史を齧っている皆様でしたら、昭和16年に公布された金属類回収令による金属供出によって寺の鐘やら学校や公園やらの銅像が撤去されて溶かされて資源化、軍事転用されたというのは良く知っている事でしょう。 何を隠そう、戦前の日本は鉄鋼産業に問題を抱えていた国でした。 まぁ、仮想敵国である米帝から屑鉄を輸入していた時点である程度は察してください。 鉄鋼産業は、鉄鉱石を製錬して鉄を作る「製鉄」と、鉄鋼製品の元である銑鉄を加工して鋼鉄や特殊鋼を作る「製鋼」に分けられます。 そして、鉄鉱石を製鉄して鉄にするよりも、屑鉄を溶かして鉄にするほうが、ずっと安く鉄を作れます。 戦前の日本は、後者の製鋼はそれなりの水準でしたが、前者の製鉄はイマイチでした。 で、屑鉄を買ってくれば「製鉄」する必要が無かったので、日本は屑鉄需要がとても高かったのです。 実際、日本は鉄鋼は80%程度を自給していましたが、その元となる銑鉄の自給率は60%に届きません。 さらに、日本の製鉄産業は経営が苦しくて技術革新が進まず、その製品である銑鉄の品質もイマイチでした。 そんな中で、船、自動車、鉄道、建築材などで大量のスクラップを出し、比較的品質の良い屑鉄をたくさん出すアメリカからは禁輸、果てには戦争までしようというのです。頭を抱えたくなりますよね。   鉄不足の中での鉄筋コンクリート建築 なので戦時中の日本は鉄不足に悩まされました。それは戦時中に建てられた鉄筋コンクリート建築にも見るとこができます。 例えば、「戦争」で「コンクリートの塊」と言えばまず頭に浮かぶと思われるのが、トーチカ、特火点とか言われる奴ですね。 私は昔、北海道に住んでいたのですが、北海道はその土地の広大さからか、あまり戦争遺構が撤去されずに放置されているパターンが多く見られます。そのため、苫小牧や網走といった米軍の上陸が予想された海岸線には未だにトーチカが多く残っています。 北海道に今も残るトーチカ跡。こういうのが多いのが北海道のいい所である。 その中でも私は厚真町の海岸線にあるトーチカを5年ほど前に見に行き、天井に登ったりしたのですが、崩れた壁面からは一本も鉄骨が出ていない。 少し離れたところにあったトーチカの基礎らしき場所も鉄骨が30センチ間隔で1本ずつ出ているといった状況。完全に鉄不足から鉄筋をケチったり使用しないでこれらを乱造していたという切羽詰まった当時の状況がこういったところからも見て取ることができます。 これだと鉄筋の引張力と粘り強さの恩恵を受けられない訳ですから、強度の落ちたトーチカで米軍の砲爆撃に耐えられるのかとても心配です。 また、去年の夏に南相馬市に行った時……と言っても本来の目的は相馬野馬追と南相馬市博物館に静態保存されているC50形蒸気機関車を見に行くのが目的だったのですけれど。 南相馬市博物館に静態保存されているC50。大正の傑作8620形を再設計したものの、その優秀な点を再設計でほぼほぼ潰してしまった悲しい子である。 この103号機はC50の特徴の一つであった調子の悪い本省細管式給水温め器を取り外してあるようだ。   その南相馬市博物館には戦時中に製造されたコンクリート柱の断面があり、それには鉄筋の代わりに竹が骨組みとして使われていたのです。鉄筋ならぬ竹筋コンクリートです。竹のしなやかさを鉄筋の代用としようとしたのでしょうがそれでも強度は落ちているであろう事と、腐食に弱い事は想像に難くありません。 これが博物館内と、静態保存されているC50の隣に腰掛けとして置いてあるのです。 「こんな貴重なものを腰掛けにするだなんて……なんて贅沢なことをしているんだ」と思いながら腰掛けてきました。 いい歴史成分の摂取になりました。 C50の隣に腰掛けとして設置されている竹筋コンクリート。環状に空いた穴の部分に竹が通っている。   鉄道レールと鉄筋コンクリート建築 さて、交通面では同じく昭和16に、不要不急線と指定された鉄道は線路がはがされ、レール等の金属が軍事転用されました(札沼線や白棚線など) 鉄道レールは不要不急線から引っぺがされた後は、もちろん溶かされたものもあったでしょうが、レールは入ってしまえばまっすぐな棒。なので鉄筋コンクリートの鉄筋として建材に流用されたものもありました。 例えば、厚真町にある共和トーチカでは崩れたコンクリート壁面からレールが見えるところがあり、レールをそのまま建材として流用したのが分かります。 このように戦時中の日本は深刻な鉄不足に悩まされながら、あるものを節約したり流用したりして、今の建築基準ではお粗末と言わざるをえない鉄筋コンクリート建築をして祖国防衛をしようと奮闘していたのです。  

栗田艦隊の反転について。お話しします。

~まえがき~ 以前、世界史べーたのマシュマロにこのような質問がありました。 戦後、米戦略爆撃調査団に対して「我々の主目的は機動部隊で湾内に入る目的は無かった」「(空母と輸送船が)両方いたら私は断然戦闘艦艇とわたりあったでしょう」という栗田中将の回答が全てを…続き→https://t.co/cJgagQuLrB#マシュマロを投げ合おう pic.twitter.com/FHUUeUHB3h — 世界史べーた(仮) (@sekaishibeta) July 31, 2022 これについてはツイートにもあるように、栗田長官は輸送船団と空母機動部隊を天秤にかけた結果。より価値のある空母を求めて艦隊を反転させたという訳です。 と言われても全然判断材料が足りないでしょうからそこらへんのお話をしていきましょう。 ~謎の反転。その真実~ 1944年10月25日0911時。サマール島近海。 第77.4任務群に属する「タフィ3」と称される護衛空母群との戦闘を終えた栗田艦隊旗艦大和は「逐次集レ」を命令。 大和からの命令を受けた各艦は終結を開始しますが、その中でも米軍機からの空襲は続いており。その規模は徐々に組織だったものになってきていました。 レイテに再度進撃を開始した栗田艦隊ですが、進撃中も空襲は続き、栗田長官の懐疑心は最高潮を迎えていた事でしょう。 なにせレイテ湾の敵情が全く分からないのです。 『サマール沖の戦闘中に目指す輸送船団は退避してしまったのではないか?』 『前日の0650時に最上艦載機の偵察情報であった戦艦4、巡洋艦2からなる戦艦部隊がレイテ湾で待ち構えているのでは?』 『空襲が組織的になってきたのは三群あると思われる敵空母機動部隊の残り二群が向かってきているのではないか?』 この時、小沢艦隊がハルゼー機動部隊を北方に誘引することに成功した報は栗田艦隊には届いておらず、サマール沖で撃破した空母部隊は正規空母の機動部隊の一群と考えられていました。 そして、ここで決定打となる入電が1100時に入ります。「ヤキ一カ」電です。 「0945スルアン灯台ノ5度113浬二敵機動部隊発見」 この南西方面艦隊からの情報に栗田艦隊司令部は大いに揺れました。 もととり「空船(輸送船)との心中は御免」という空気が艦隊首脳部に流れており、目指すレイテも昨日の最上機の情報以外、敵情が一切わからない中での機動部隊発見はまさに闇に差し込む唯一の光と言ってもいいでしょう。 例え戦死するなら艦隊決戦に死に場所を求めていた。栗田長官、小柳参謀長、大谷作戦参謀らによる協議の結果、艦隊は北方の敵艦隊に向かう事を決意し、未だに対空戦闘中だった1236時、栗田長官は「第一遊撃部隊ハ『レイテ』泊地突入ヲ止メ『サマール』東岸ヲ北上シ敵機動部隊ヲ求メ決戦爾後『サンベルナジノ』水道ヲ突破セントス」と打電。 ここに歴史は決したのであります。 ~もしも、栗田艦隊がレイテ湾突入をしていたら~ これはIFのお話です。と言ってもざっくりとしたのは以前にツイッタで話しましたが…… まぁ、あそこで栗田艦隊がターンしないでレイテ湾に突入しようにも、突入前に西村艦隊を打ちのめしたオルデンドルフ艦隊とぶつかるのは必死。 先のサマール沖海戦の結果も加味して日本艦隊が勝てたかというと……まぁ無理寄りでしょうなぁ https://t.co/X1XsCe6ZOt — 肉のZEKE22 (@zeke_22) July 31, 2022 それじゃあ、彼我の戦力差など夢物語では語れない、現実的な架空のお話をしていきましょうか。 さて、サマール沖海戦の後で栗田艦隊に残されていたのは 戦艦 大和、長門、金剛、榛名 重巡 羽黒、利根 軽巡 能代、矢矧 他、駆逐艦8隻といった陣容でした。 栗田艦隊には他にも重巡の鳥海、筑摩、鈴谷、熊野がいましたが、いずれもサマール沖海戦の米軍機による空襲や駆逐艦の雷撃により落伍または撃沈しており、鳥海には駆逐艦藤波、筑摩には野分が警戒艦として派遣されていました。(後に落伍艦、警戒艦は全て米軍の攻撃で撃沈している) その一方で、対峙するであろう米軍は半日前にスリガオ海峡で西村艦隊を撃破したジェス・B・オルデンドルフ少将の上陸支援艦隊が待ち構えており、TF78とTF79から成っており、その陣容は 戦艦 ミシシッピ、メリーランド、ウェストバージニア、ペンシルバニア、テネシー、カルフォルニア 重巡 ルイヴィル、ポートランド、ミネアポリス、シュロップシャー(豪海軍) 軽巡… Continue reading 栗田艦隊の反転について。お話しします。

やあやあ!我こそは(中略)なり!!!

  はじめに動画の話をしよう。 お久しぶりです。一ケ月ぶりくらいですかね? さて、無事にロレンス解説、全四回が終了しました!(予定より一回多いのはナイショ)   にしても、全然まだまだ紹介できるお話は残っているんですけれどね…… 例えばヒジャーズ鉄道の爆破の際に、導火線が短すぎて爆風をモロにくらって血まみれになったり、ロレンスの「人生初の殺人」を味方のアラブ部族のいがみ合いを解決するために決断して行ったりと本当にたくさんのエピソードがあるんですよ。君はもっと落ち着いて第一次世界大戦を生き抜くことはできないのか?   そう、生き抜くと言えば、大戦に従軍したロレンスの兄弟たちはどうなったのかと言いますと。 ロレンスの弟であるフランクは1915年5月9日、フランス北部のアラスにて塹壕内にいたところ、爆弾の破片によって即死。 同じく弟のウィルは英国航空隊の監的手(砲撃の着弾観測)に志願し、1915年10月23日ウィルの乗った飛行機はフランス上空にて撃墜されて戦死。26歳の彼は前線に出て一週間という短さで天に召されてしまいました。 五ヶ月の間に二人の弟を失ったロレンスの心境は内向きとなってしまい、それから数ヶ月の両親に対する手紙は間隔があいていき、その内容もぶっきらぼうなもので、フランクの事は書かなくなり、ウィルの事は一回漠然とほのめかした以外はそれを認めた記録もないそうです。   参考文献とか貼っていきませう。 という事で、今回の動画に使用した参考文献です。 ・コット・アンダーソン 著 ・山村 宣子 翻訳 ・出版社 白水社 ロレンスがいたアラビア(上)・(下) はい、これだけです。 あとはフサインのウィキペディアを少々といった感じですかね?資料少なくて恥ずかしくないの?(恥ずかしい)   次は何をやるんだい!? 次の動画ですけれど……今度はお家芸ともいえる兵器開発なんかをやったりやらなかったりしようかなと、思ったり思わなかったりしています。 ですので、来月以降も適当に待っていただけると幸いです。

やあやあ!我こそはロレンス(中略)なり!!!

はじめに お久しぶりです。ニケ月ぶりくらいですかね?   なんか二ヶ月の間に同人誌即売会に二回ほどサークル側で参加していたらいつの間にかこんな時期になっていました。なんか早いですね、時が経つのって   ちなみに9月にも即売会に出る予定です。会場でジークさんと握手だ!!!   そんなことより、動画の話をしよう そうです。動画の話ですよ。   といっても前回は第一次大戦序盤、発言力が無かったばっかりに傍観者でしかなかったロレンス君。 それが今回では、自信のあるアラビア半島でのゆめ作文が思ったより評判が良く、本人は不本意ながらもアラビア半島へ行くって感じですね。   ちなみに、動画では尺の都合でほとんど触れていませんけれど、ロレンスがアラビアでフサインの息子たちに会っている間、どっかのカエル国家が虎視眈々とアラブの土地を狙ってたり狙ってなかったりするんですよね。 そして、そんなカエル君の右手には悪名高き英国三枚舌外交の産物「サイクス・ピコ協定」が……   この時期になってくると同盟国である英国ですら眉を顰めるほどフランスのアラブに対する領土欲が露わになってきます。なんせ本土の北部がジャガイモ国家と地下足袋だけになって泥遊び(総力戦)してたら砲弾や毒ガスまみれでもうめちゃくちゃですからね、その補填としてオスマンの土地を欲しがったのでしょう。知らんけど。   そのせいでロレンスもなかなかに妨害されたりされなかったり……(ここら辺も動画に出せたらいいな。多分無理)   そんなわけで、恐らく次回にはロレンスの解説動画も完結になる予定です!   ……終わるよね?   終わらなかったら7月も画面の向こうでジークさんと握手だ!!!!!

各国陸軍の教範を読む

各国陸軍の教範を読む 教範とは、各国の軍隊が編纂する教科書・マニュアルのようなもので、 各国の軍事行動のドクトリン(基本的な思想・原則)が反映されている。 したがってこの教範を読めば、その軍隊の戦術教義を理解することができるのである。 本書では、第二次大戦までに編纂されたドイツ、フランス、ソ連、日本の各陸軍の、 師団から軍レベルの運用に関する教範を平易に読み解き、行軍、捜索、攻撃、防御などそれぞれの局面で、 各国軍がどのような戦術に基づいて戦おうとしていたのかを探っていく。 各国軍の戦術の基本となった「教範」から第二次世界大戦の陸戦を研究する一冊である。 理解を助ける図版・図表など40点以上を収録。   おすすめ本です 近代軍事史において、なぜドイツが電撃戦を採用し、なぜソビエト軍は縦深戦術を採用したのかというのがこの「教範」を読むことである程度理解することができます。つまり、各国の戦術志向の根幹を知ることができるのです。これを知っているか、知らないでいるかで「戦史」というものの見方はそれなりに変わってくるかもしれませんね。   書籍情報 著者:田村尚也 翻訳者:– 編集者:– その他:– 出版社:イカロス出版 出版年:2015/9/10 ISBN-10:4802200633 ISBN-13:978-4802200639

やあやあ!我こそはロレンス動画を作ったZEKE22と言ふ者なひけり!!!

じこしょうかいなんかするよ! どうも、ブログの世界では初めまして。ZEKE22と申します。 最近だと動画の世界では「豊和銃解説の人」Twitterでは「肉屋の人」なんて言われています。つまり要約すると「豊和製の銃を乱射している肉屋」ですね。なんて物騒な奴なんだ。   そんな事は置いておいて、もう少しだけ真面目に自分を紹介していきましょうか。 名前の「ZEKE22」とは中学の頃、とある蛇が潜入ミッションするゲームをプレイする時に英語のニックネームしかつけられず、その頃からミリタリーオタクをやっていた私は「英語なんも分からんし、前にコンビニで買った軍用機の本に乗っていた零戦のコードネームで良いか!」と「ZEKE」と名付けたのです。 「中学のガキならば普通に自分の名前でも付けろや」とか言われそうですが、その頃に一緒によく遊んでいた友人が「自分の名前つけるとかダセエし、何よりネットリテラシーがねえぜ!」と言って名前を変えていたので、その影響を大きく受けた結果ですね。 それから暫く「ZEKE」を使っていた私。ある日とあるロシア企業(最近ウクライナで起きた騒乱で本社がEUに移っていたの知ったけれど)の戦争ゲームをプレイする際、いつものようにニックネームをつけたところ「ZEKEは既に使われてるぜバーカ」と言われ、尾びれに22がついた「ZEKE22」という今のスタイルに落ち着いたという訳です。 ちなみに22の数字は零戦の二二型を意識しています。カッコイイですよね二二型。初期生産の二一型、特徴的な翼端の三二型、戦争末期の五二型系列なんかに比べるとパッせず、人気もイマイチな気がしますが、二一型よりラジエーターが減ってスッキリとし、五二型のように無理に性能を上げるべくゴチャゴチャと排気管が付いているわけでもない、まさに「美しい零戦」は二二型だと個人的には思っています。そんな二二型でも個人的には九九式二号三型20粍機銃に換装された甲型が好きです。翼から突き出た20粍機銃の銃身がとてもエッチで良い……と脱線はこれまでにしときましょう。 とまぁ、つけた理由が適当で「いつかニックネーム変えてぇ」と思っていたのですが、ありがたいことに投稿した動画は再生数が伸び、肉を売りだしたら「ジーク肉」なんて妙なブランド名がついてしまったので、このニックネームとは生涯仲良くしていくんだろうなぁ……なんて思っています。はい。 ……ってかこんなに自分について語ってても良いのかな?他のメンバーの自己紹介があまりにもあっさりしすぎていて不安になるんですけど。 ロレンス動画について語ろうね ……と言っても、ロレンスについて話したいことは大体動画に落とし込んでしまっているので「ロレンスの話が聞きたい?動画見ろや!」となってしまうんですよね。うーんこの。という訳で動画の話をしましょう。動画!トーマス・エドワード・ロレンスですよ!アラビアのロレンス!(謎テンション)   編集時については……あれは難産でした。はい。 なんせ、いつも解説に扱っているのは兵器等の「物体」で「人物」について深堀した解説って今回が初めてなんですよね。「物体も人物もさほど変わらんやろー!」と私自身もタカをくくっていたんですけれど、案外勝手が違う。 兵器等の人工物は、見たり読んだりしていると「設計者の意向」というのがある程度推測できるのですが、人物だとそういった意向が少し見えにくい。なんなら「何してんのお前」という部分もあるんですよ。 人工物なら「これは、謎です」と言えば済む(済ますな)のですが、人物は「どこまで心理を読み解けばいいんだこれ……」と悩んでしまいました。ひとつに「解説」といってもいろいろ違うんだなと思い知らされた瞬間でした。 まぁ、来月も似たようなことを書くのでこの辺りにしておきましょう。では、来月にまた。