ご挨拶 皆さま、はじめまして。現在Youtubeで主に戦史解説を目的に活動している、まるくすと申します。よろしくお願いいたします。 さて、これをご覧の皆さまの中で「まるくす」と聞くと赤い国や赤い思想を連想される方が何人かいらっしゃると考えられるのですが、如何でしょうか?…結論から言わせて頂くと、私の名前は実は「そっち」の「まるくす」では無く、かのローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌス由来なのです。 ただ、私と彼の接点を話すとなが~くなってしまうため割愛し、私自身特段ローマ史に詳しい訳でもなんでもないので、彼についての詳細は専門の方に言をお譲りします(なんやねん)。なにはともあれ、私は彼の生き様に感化されて戦史に関心を持つきっかけとなったのです。 人は幸福を追求する生き物であり、また争いを止むことの出来ない哀しい種族であるということは、この世の真理のように考えさせられます。かつて「哲人皇帝」と称されたマルクス=アウレリウス=アントニヌスは、その半生を戦地に身を投じながら、幸福とは、人とは、人生とは何か、生涯それらのことを思索し続けた人としても知られています。私が普段勉強し、取り上げている「戦史」は人の生き様、幸福と不幸、また争うことの意味を、あらゆる方向から教えてくれます。 歴史を知る人であれば、「古代オリエント史」や「古代ローマ史」、「三国志」等のような英雄譚や人物列伝を好む方も中には少なからずいらっしゃるかと存じます。私が普段解説させて頂いている「日露戦争史」は、先述に列記した古代史に優るとも劣らない程、数多くの個性あふれる人物が登場します。 例えば上記リンクの解説動画「鴨緑江会戦」で主役として焦点をあてた黒木為楨(敬称略)は、日露戦争中の日本陸軍第一軍司令官として出征し、知る人ぞ知る勇猛さを持つ「猪突猛進」の軍人として知られています。「三国志」を引き合いに例示すると楽進(字は文謙)に近いイメージでなないでしょうか(城壁よじ登りフレンズ)。しかし近年、彼は知られざるもう一つの非凡な「個性」を備えていたことが明らかにされています(下記に続く)。 黒木将軍が備えるもう一つの個性、それは「第六感」です。はい、所謂「シックスセンス」と呼ばれるそれです。「オカルトの話してる?」と思った方、暫しお待ちください。これはオカルトでも伝説の話でもなく、史料的根拠に基づくれっきとした事実なのです。 時は1904年七月三十日から八月一日にかけてロシア軍と日本軍との間で行われた戦闘「楡樹林子・様子嶺の戦い」での出来事です。黒木大将率いる第一軍はケルレル中将麾下のロシア軍と様子嶺の陣地を巡って激戦を交えていました。 戦闘が経過したある時、第一線近くの小山で横臥していた黒木は突然起き上がり「副官!」と叫びました。驚いた副官が駆け寄ると黒木は「副官、大急ぎで予備隊へ、前進を命じろ」と命令しました。副官が前進目標を聞こうとするも黒木は「早く、早く」と連発したため、副官は急ぎ馬で予備隊の下に駆け付け「軍司令官命令、予備隊前進!」と叫びました。 その後しばらくして第一線から敵兵退却の報が伝わりました。ロシア軍が退却した理由は指揮官のケルレル中将が戦死したため、ロシア軍が陣地攻撃を断念したことにありました。つまり黒木は第一線の指揮官(師団長)や幕僚が戦況を見極める前に、敵兵退却の兆候を読み取り、軍予備隊の前進を直接命令したのです。副官の反応からもわかるように、軍幕僚は黒木がなぜ予備隊に前進命令を出したのかを理解していませんでした。(『新史料による日露戦争陸戦史』及『金星の追憶 回顧八十年』に基づく) 当時第一軍参謀だった福田雅太郎は黒木を評し「丁度老船頭が潮の満干を見て、天候を卜すやうに、戦闘の潮合を見ることの非常な老巧者であつた」と述べています。まさに、黒木は老船頭が持つそれの如く「第六感」を備えた人物であったのです。 さて、上記で紹介した黒木将軍のように「戦史」においては、非凡な個性や意外な側面をも有す数多の「人物」の生き様と接することが出来ます。私は戦史を探求し、その関心の輪を広げていけるよう、これからもyoutubeを通して活動を行います。もしこのブログを読んで、戦史や人物伝、或いは歴史そのものに興味を持った方がいらしたとすれば、それは私にとって至上の喜びです。
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理神論争~神を理解せよ~その政治的背景を少し
貴方は神を信じますか?今でこそ「別に信じていない」と言えるのですが、17世紀のイングランドではそんなこと言えません。当時はみんな神を信じていますし、多少疑問に思っていても常識のある人なら神を信じているような発言をしたものです。ところで、かつては人間ごときに理解できないと考えられていたあまりにも偉大過ぎる神ですが、フランシス・ベーコンやデカルトなどによる科学革命が進行し、17世紀の後半では「世界は理性でとらえられるものだ」という考えが次第に力を増していました。ニュートンの万有引力の法則が星空も地上と同じ法則によって動いていることをあかしたというのはその成果の一つです。他方フランスでは月の圧力が潮の満ち引きを引き起こすと考えられていましたが、少なくとも神を安易に用いない説明を世界に対して向け始めたことが重要です。 こうした科学的な思考の黎明期にあっても神の存在は当然信じられていました。当時は神を理解するために自然を探求していたからです。ニュートンも世界を創造した神にとって空間は感覚器官であり、時折この世界に干渉すると述べています。反発した人々は「時折介入しなければならないのは全能の神にしては不完全だ」と反論しています。こうした反発者にとって神は時計職人のようなものでした。完璧な世界という時計を作った神は、その見事な調和が動き始めてからは、介入せず、それでも世界は動くと言う考え方です。神の存在を証明する試みもこの時期にデカルトやスピノザによって理性的に試みられます。ここでは何が重要かと言うと、人間が神を理解しようと試みたことです。人間の思考が及ばないような次元にいるとは考えていないのです。もちろん多くの人は昔ながらの、人の理解の及ばない全能の神を想像したのでしょうしが、知識人には神を理解したいという欲求が沸いていたのです。 神を理性で理解する試みは政治的な要因も働いていました。イングランドの宗教は国教会ですが、この教会は多くの人々を包摂するために、教義にはゆとりがありました。そこには従来のカトリック的な啓示(限られた人の前のみに明かされる神の言葉)や儀式を重んじる高教会派と、聖書を重視するプロテスタントの原則に近い低教会派がありました。この二つの派閥の争いで、高教会派はある程度まとまりをもつ中、低教会派は国教会からも除外された派閥とも交流を持ちました。この除外された派閥とも交流を持つことで広く仲間を募る広教会派が生まれるのですが、何しろもともと意見が違って別派閥になったのですから団結力に欠けます。そこで彼らの思想の中心に自然神学、つまり啓示に頼らずに理性で神を理解しようとする考えが据えられたのです。 高教会派と低教会派はトーリーとホイッグに結びついています。カトリック的要素のある高教会派はトーリーに属するわけですが、トーリーはカトリックを公言するチャールズ2世の弟の王位継承を支持していました。当時彼の王位継承は国を二分する争いになっていて、カトリック嫌いなイングランド人としては伝統に反してでも弟の王位継承を避けるべきか、伝統にのっとるべきかで割れていたのです。ホイッグは低教会派、広教主義でしたが、伝統の強い力に対抗するためにも理性を持ち出す必要があったのでしょう。 と、まとまったようなまとまってないような話は以上です。
いつ『因果関係がある』と言えるのか:金本位制離脱と実質金利の事例
「○○が××を引き起こした」 日常会話では、「○○のせいで××になった」とか、「○○が××の原因だ」とか、「○○が××を引き起こした」といった発言を、私たちはかなり気軽に行っています。 上の鍵括弧内のような発言は、因果関係を主張しているものです。○○という原因があったから、××という結果が起きたのだ、という関係ですね。 しかし、もしもわずかなりともアカデミックな、あるいは厳密な議論を要する場にいるならば、因果関係という語には極めて慎重にならなければなりません。 さもなくば、あなたのもとに「ドーモ、トウケイ・ガクシャです。素人質問で恐縮なのですが……」とニンジャがエントリーしてくることになるでしょう。コワイ! そんな恐ろしいニンジャを避けるために、今回は因果関係の話をしましょう。 ……なお、申し訳程度の歴史要素として、後半には「大恐慌後の金本位制の離脱は、実質金利を低下させたのか?」という問題の因果推論の論文を扱います。 あなたはヨーグルト会社の社長です まずは、因果関係を主張することがどれだけ難しいか、という話を、具体例を使って考えてみます。 あなたはヨーグルト会社の社長だとしましょう。そこへ、経済学を修めたと称する怪しげなコンサルがやってきてこう言います。 「うちの製品を使いましょう! そうすれば売り上げが倍になります!」 (グラフ作成には「ちゃちゃっと」: https://chachart.net/bar を使用) そのコンサルは続けて、 「このグラフを見てください! 弊社製品を導入している企業は、そうでない企業の倍以上を売り上げています! 弊社製品が売り上げを大きく増やしたんです! だから、御社も弊社製品を導入すれば売り上げが増えますよ!」 などとのたまうわけです。 さぁ、ヨーグルト会社の社長たるあなたはどうしますか? 正解は…… 「イヤーッ!」 「グワーッ! サヨナラ!」コンサルは爆発四散! アイサツ前のアンブッシュは一度まで認められています。アンブッシュにも耐えられないコンサルは実際サンシタなため、話を聞く必要もない。 あっはい。真面目にやります。 さて、先ほどのグラフをもう一度見てみてください。このグラフは、製品の導入と売上に相関があることを示しています。 では、その相関関係が因果関係であると、つまり、製品を導入した「から」売上が増えた、という関係があると言えるでしょうか? 私がそのヨーグルト会社の社長だったら、迷いなくコンサルにアンブッシュを仕掛けます。じゃないや、ええと、製品を導入した「から」売り上げが増えた、とは言えないと思います。 考えられる他の理由は、大きく3種類に分けられます。 まず1つ目が、まったくの偶然という可能性です。 有名な例としては、ニコラス・ケイジと何かを結び付けるやつですね。ニコラス・ケイジの映画出演数とプールの溺死者数とか。 ここでは、ニコラス・ケイジの映画出演数と、ノースダコタ州の運輸保安検査官の数の相関を貼っておきます。綺麗に相関しているように見えますが、これを因果関係だと主張するのは相当難しいでしょう。 ニコラス・ケイジが出演する→身体は闘争を求める→犯罪リスクが高まる→保安検査官が増える……なんて、さすがに無理筋。その次はアーマードコアの新作でも出るのか? (出典: Tyler Vigen – Spurious Correlations: https://tylervigen.com/spurious/correlation/5837) とはいえ、このコンサルの例では(導入済企業数がとんでもなく少ないとかでない限りは)完全な偶然とは言いにくいでしょう。命拾いしたな。 では第2の理由、逆向きの因果がある可能性に行ってみましょう。つまり、製品を導入したから売上が増えた、のではなく、売上が高いから製品を導入した、ということです。 これは可能性がありそうです。売上の少ない企業は、そもそも製品を導入する余裕なんかないんじゃないかと言われれば、コンサルも「アバーッ!」と爆発四散することでしょう。 最後の理由は、まったく別の、第3の要因が関係している可能性です。 色々と考える余地があるのですが、たとえば、コンサルが大企業にばかり営業をかけているとしてみましょう。この場合、大企業であることが、営業→導入の要因であると同時に、売上の大きさの要因でもあります。 この場合も、製品導入が売上を増やしたという因果関係があるとは言えませんね。コンサルはしめやかに爆発四散! これで、「因果関係」を主張することの難しさについてはご理解いただけたと思います。反対に、もしもあなたがコンサル側の立場なら、こうした指摘にも耐えられるように理論武装重点で挑む必要があるということです。備えよう。 ところで、さらに追い打ちをしておくと、たとえ、製品を導入したから売上が増えたという因果関係があったとしても、ヨーグルト会社がこれを導入すべきかは断言できません。なぜなら、そのヨーグルト会社にとって、売上が増えるかどうかは定かではないからです。 これはいわゆる「外的妥当性」という問題です。たとえば、売上が増えた企業たちは、ヨーグルトとはまったく違うものを作っている企業かもしれません。ブロッコリーとか。そのときには、ヨーグルト会社にもそのまま同じ結果が現れるとは考えにくいでしょう。 Rubinの因果モデル それでは、厳密な因果関係を立証するためにはどうすればいいのでしょうか? 勘のいい方はお気づきかもしれませんが、「厳密な」議論をするためには、数学を避けて通ることはできません。ここでは、ちょっとだけ数学を使って、因果関係を考えてみましょう。 なお、どうしても数学が苦手だという方は、ここは読み飛ばしてもらっても構いません。 いま、iさんの原因となる処置をDᵢとしましょう。DᵢはYes(Dᵢ=1)かNo(Dᵢ=0)のいずれかになるような変数です。一方で、原因が決まったのちのiさんの結果(潜在アウトカム)はYᵢ(1), Yᵢ(0)として、Yᵢ(1)もYᵢ(0)も実数値を取るとしましょう。 先ほどの例でいえば、Dᵢはi社の製品の導入(Dᵢ=1)と非導入(Dᵢ=0)に対応し、Yᵢ(1)は導入したときのi社の売上、Yᵢ(0)は導入しなかったときのi社の売上です。 こういうふうに書いたとき、Dの処置効果(Treatment… Continue reading いつ『因果関係がある』と言えるのか:金本位制離脱と実質金利の事例
好きな歴史上の人物というのは、好きな架空のキャラクターと同じではないか?
「歴史好き」と「歴史学者」の違い ※随筆です。敬仲の他の記事と異なり、本記事には学術的根拠はありません。 先日ツイッター(現X)にて、ある興味深いツイートを見ました。 ある歴史研究者の引用の言葉の引用として歴史学者は歴史上の特定の人物への尊敬、心酔、共感といった個人への崇拝や愛着から距離を置くべき と書いてあったのです。 (投稿主様および、発言主の歴史学者の方への迷惑となるやもしれませんので、リンクは控えます) さらに投稿主様はこれを、「歴史好き」と「歴史学者」の違いとおっしゃっています。 この両者の違いは以前に「歴史が好きだから史学科に行く?」という配信をしたように、当チャンネルにとって重要な議題ですね。 さて、ツイッターに戻ります。これを見た瞬間、私は「その通りだ」という賛同と「それはどうかな?」反対という全く別方向の感情が同時に生じました。 それは何故か? まず私は「文学」・「思想哲学」の徒であって、「歴史学」の徒ではありません。 「歴史好き」と「歴史学者」の中間といか、この両者のX軸上は中間ですが、Y軸方向にずれているとでもいいましょうか。 歴史上の人物が登場する古典や、歴史上の人物の著作物を好みます。 歴史学の研究成果を参照しますし、歴史学に片足を突っ込んだものを研究対象とすることもあります。しかし特定の著作者、あるいはその著作物を研究対象とすることが基本となります。 よって、ある文学者の作品を正確に理解する、ある思想家がなぜその思想を着想できたのか探る、そのためには尊敬や心酔はともかく、少なくとも「共感」は必要ではないでしょうか。どういう空間的・時間的で状況でそれを書いたのか探るわけですから。 そもそも、研究対象の人物の著作を全部読み込むというような研究の前提となる作業をするには、愛着がなくては不可能でしょう。その著作物を素晴しいと思っていなければ、丁寧には読めないでしょう。「共感」には誤読を防ぐ役割があります。 その故に、「歴史学者」といえど、特定の個人に対して思い入れを持たないことが100%正しいことと言えるのかな?という疑問が生じました。 一方で「歴史上の特定の個人」を好きだというのは、適切な研究姿勢であるためにという以前に、極めて不確かなことだと考えています。 「好きな歴史上の人物」は誰?という質問 私はたまに「好きな歴史上の人物」を聞かれることがあります。歴史ファンほか、人から歴史に詳しいと思われている人なら一度は聞かれたことのある質問でしょう。 (人物というか「武将」という聞かれ方が多い気がしますが) この質問には非常に回答に困ります。 おそらく聞く人は「好きな歴史上の人物」について、偉大な帝王や武将を名前を期待する方するでしょう。しかし、そうした人物の事跡はともかく、日常での発言や行動は様々な脚色された話が多量にくっついていて、その人の実態を把握することは困難です。本当に実態をつかみ取れるのはここ数十年の人物だけではないでしょうか。 また、「好きな歴史上の人物」へいだくイメージを、小説やドラマといったフィクションを排除してもつことは難しいのではないでしょうか。 つまり、「好きな歴史上の人物」というのは「好きな架空のキャラクター」とほとんど変わらないのではないでしょうか? 好きな人物はフィクションにまみれているが、著作物には当人が現れているのでは? 具体例をあげてみましょう。私は中国文学は大学での専攻領域の一部であり、かつ『三国志演義』のファンです。 故に「好きな三国志の武将は?」とたまに聞かれるのですが、 小説として聞いてきているのか、歴史として聞いてきてるのか毎回迷います。 そして迷ったときは「曹操」と答えます。 曹操なら小説のキャラクターとしても、歴史上に実在した人物としても好きと言えるからです。 『三国志演義』はもちろん、『世説新語』に面白い話として紹介される曹操は架空のキャラクターになるでしょう。 陳寿の『三国志』とその注釈として引かれる書物に登場する曹操も、どのていど脚色されたものかわかりません。 しかし、彼の著作、詩は本物です。実在した詩人としての曹操のことを好きだということができます。 私にとって儒家思想は、批判的な見方を伴う研究対象であると同時に、近代以前に広くおなわれたよう修身としても学ぶ対象でもあります。 とは言え自身の著作がない孔子や、そもそも創造された堯舜のような聖人たちを私は「尊敬する歴史上の人物」としてあげることはできません。 しかし優れた著作のある朱子や王陽明は私にとって「尊敬する歴史上の人物」ということができます。 (彼ら自身というよりは、彼らの考えたもの、作ったものへの尊敬といった方が適切かもしれません。) とは言え『荘子』には「書物に書かれたことなど、『古人の糟魄(このりカス)』だ」という説があります。 著作物は哲学者、文人の全てを詰め込んだものではなはありません。神髄といえるものがどれだけ書物にあらわれているかは不確かです。さらに現代に伝わる過程で欠けたり、他人が付け足したりということもあります。 好きな歴史上の人物、尊敬する歴史上の人物というのは、好きな架空のキャラクターと同じく、みんなが見たい偶像を見ているだけかもしれませんね。それを言ってしまえば、同じ時代を生きる人、直接言葉を交わす身近な人さえも、全てを理解することはできないのですから。
AIは仕事を奪ってくれない、という話
chat gptはマジですごい お久しぶりです。※(米印)です。 今回はちょっと軽めでお送りします。もともとはもうちょっとちゃんとしたブログを書く予定だったのですが……まぁその、だいたい花粉が悪い。 あれなんなんですかね。仕事してる間はまったく気にならないのに、娑婆に出た瞬間に悶絶する羽目になる。そのことを友人に話したら、「会社は換気がちゃんとしてるからでは?」とのこと。明日から24時間会社で過ごそうと決めました。 ……なんて話はさておき。今日は最近あちこちで話題沸騰、千客万来、会社人口、じゃねえ、膾炙人口、のAIについてちょこっと触れようかと思います。 実際すごいんですよ、最近のAIは。たとえば、私はプログラミングがあんまり得意じゃなかったんですけれども、AIちゃんのおかげで効率が爆上がりしました。 ……いやまぁ、「○○のコード書いて!」って聞いた結果を丸写しして、怒られたらエラーメッセージをまた丸コピして「chat gptえもうん、また[任意の言語]に怒られたよお」と泣きつくだけなんですが。 これがかなーりすごいんです。なんなら、コメントとかもちゃんと書いてくれますんで、過去の自分が書いたコードよりも数億倍意図がわかりやすい。 それでも、けっこうちゃんとプログラミングとかやってる友人に言わせると、「それはもう昨年には通り過ぎたんだが」とのことで、私はたぶん相当周回遅れらしく。こんぴーたーの時代はすさまじい速度だなぁ、と思うなど。 とはいえ、そういうすさまじい変化を後々から見て、「いやぁ、こんなの当然のことで」と偉そうにご高説を垂れることこそ経済学の本領です。今回もそれに倣おうじゃありませんか。 やってみせろよ、ピケティ! なんとでもなるはずだ! ダルトンだと!?(ピグー・ダルトン条件) あっはい、まじめにやります…… えっ、上司のお世話をかわってくれるんですか? ○○年後には××%の仕事が奪われる! みたいなニュースを目にしたことがある方は、かなり多いんじゃないでしょうか。 安心してください、それは事実です。 「いま」私やあなたが行っているお仕事は、多くの場合、AIやロボット、あるいはほかの何かによって、置き換えられることでしょう。 なんとなれば、このブログさえ、私の文章を大量に学習させたAIや何かを作ってしまえば、容易に用意(ここ激ウマギャグ)できてしまうものです。 あ、一応言っておくと、私はこのブログはAIやらを使わずに書いていますよ。自分の手で「激ウマギャグ」とか打ち込んでいるわけです。悲しくなってきたな。やっぱ今からでもAI使ってたってことにならんか? 話を戻して、AIの話です。もちろん、今のAIはいっくらすごいすごいと言っても、だいたいは「入社1日目の大型新人」みたいなものです。贔屓目に見ても、「今日きたばっかりの有名コンサル」あたり。 とにかく、「その会社」やら「その状況」で何が求められているのか、ということをまったく理解してくれません。AIとやらは、ネ申エクセルの使いかたも学ばなければ、上司の不機嫌のサインを発見することもできないのです。だから、今はまだ私たちも、満員電車に揺られてはブルシット・ジョブにいそしみ、上司にぺこぺこしてお賃金を貰えているわけです。 しかし、たとえばAIにも「社員教育」ができるようになったらどうでしょう。ちょうど新入社員にやるのと同じように。 そうしたら、もはや人間とAIの間に、違いはほとんどなくなってしまいます。どころか、ほとんどの領域では、AIの方がうまくやるかもしれません。彼らは、パソコン入力にキーボードとマウスなんて前時代的な遺物は不要です。他人と話すよりも、アレクサと話す方がストレスは溜まらない、という人も少なくないでしょう。 とにかく、大事なのは、私やあなたのやることは、将来的にはAIにもできる可能性が高いということです。経済学者らしい、小難しく嫌味ったらしい言い方をすれば、AIは人間と代替的な関係になり得るのです。 これを経済学的に理解すれば、人間とAIが同じ市場(労働市場)で競争する羽目になる、ということになります。 であれば、問題は労働の「価格」――賃金です。 もしもまったく同じ商品、たとえば明治のヨーグルトとしましょう。これが右の棚では150円。左の棚では100円で売っていたら、誰だって左の棚のヨーグルトを手に取ります。 もちろん、世の中にはヨーグルトにお金を払うことに快感を覚える人もいるかもしれませんが、それは相当な少数派です。せいぜいは、やたらめったら疑り深い人が、「何か違うものがあるんじゃないか」と右の棚からも1つ買うかどうか、というくらいでしょう。 労働についても、同じことが言えます。企業は、もしもまったく同じ人が2人いたら、少しでも安い給料で雇える方を選びます。 それが、「まったく同じ人」でなくて、「まったく同じAI」でも、「まったく同じ(仕事ができる)人間とAI」でも、結論は変わりません。 つまり、あなたの仕事を、あなたが今貰っている賃金よりも安く行うことができるAIが生まれたら、あなたの仕事はAIに奪われるのです。 そして、その可能性は決して低くはありません。なにせ、chat gptは1か月あたり20ドル(3000円程度)なのですから。 ろうどうからは にげられない! では、仕事を奪われたら、どうなるのでしょうか? 「ひょっとしたら、働かなくてよくなるんじゃないか?」とか、期待しましたか? しかし まわりこまれてしまった! 残念ながら、そうは問屋が卸しません。その理由は、やはり賃金です。 たとえば、神の舌を持つAIがあらわれて、ヨーグルトソムリエ100人全員が職を奪われたとしましょう。 そうしたら、今度は職にあぶれた人間が100人世の中に増えるわけです。(いったん、失業保険などの社会保障を無視すれば)彼らは、そのままではご飯を食べていくこともできませんから、それまでよりもずっと安い賃金でも働きたがることになります。 そうすると、「もう少し安い給料でなら、追加で雇ってもいいかな」と思っていたヨーグルト工場が手をあげるわけです。「うちにおいでよ!」と。 こうして、元ヨーグルトソムリエはヨーグルト工場員として再就職を果たすわけです。もちろん、どんな産業でも、同じことが起きます。 ヨーグルト工場がロボットを導入して人間が要らなくなったら、今度はまた別の仕事を探します。これの繰り返しです。そのうち、またヨーグルトソムリエに就くことになるかもしれません。 だから、あなたも私も、今の仕事をAIが奪ってくれたとしても、次の仕事を探して働き続けることになるのです。 安心してください、仕事はいくらでもあります。私たちの欲望は底なしで、AIがどんなに多くを作っても、さらに多くを求めます。新しい仕事がいくらでも生まれます(記憶に新しいところでは、ウーバーイーツなんかがそうですね)。 最低限度の生活でなくて、「便利な世の中」とやらで暮らし続けたいのであれば(というか、そう思っているからこそ、あなたは今日も職場に足を運んだのでしょう)、そうした仕事たちから、少しでも自分にとってマシな働き口を探して、ずっと働き続けなければならないのです。 知らなかったのか……? 労働からは、逃げられない…………!! とはいえ、暗い話ばかりでもなくて ところで、AIに仕事を奪われる、というと、なんだかとても嫌なことに感じるかもしれません。 しかし、よくよく考えてみると、そうなったとしてもどうせ働き続けるのですから、昨今の皆さんが励んでいる転職とたいして変わらないのです。 むしろ、AIが急速に進歩して、私たちの仕事を次々に奪っていく時代は、私たちにとって定期的に転職の機会、つまり、より自分に合った仕事へと移る機会が与えられるということでもあるかもしれません。 何も、元ヨーグルトソムリエが全員ヨーグルト工場に勤める必要はないのです。その舌を活かして別のソムリエになったり、あるいは料理人になったり、それともまったく別の仕事をはじめたり。選択肢は山ほどあります。 彼らが最初にヨーグルトソムリエになったのは、たとえば大学の卒業直後で、自分の適性を何も知らない状態で就いたものだったかもしれません。そうしたら、転職するタイミングでは、ヨーグルトソムリエとしてのキャリアを積む中で、自分のことをもっと深く理解できていることでしょう。 その上で、星の数ほどある仕事から、いちばん自分にあっている(と思う)ものを選ぶわけですから、「私にはヨーグルトソムリエしかなかったんだ!」という六花みたいな例外を除けば、だいたいはそう悪くない結果になるはずです。… Continue reading AIは仕事を奪ってくれない、という話
ウィリアム1世は正しかったのか
イングランド史を学ぶととりあえず大きなターニングポイントとしてノルマン征服を習うと思います。その実行者であるウィリアム1世は武力で王位をもぎ取り、武力で住民を従わせ、戦争の最中に亡くなった、まさにヴァイキングの末裔、天国ではなくヴァルハラが似合う王だったことでしょう。 現代の価値観からすればとんでもない乱暴者とさえ思われるウィリアム1世ですが、そう決めつけてしまうのは全く想像力に乏しく、我々はなぜ彼がその圧倒的パワーを持ちえたのかを考察しなければなりません。多くの地域を支配した歴史を持つイングランドの歴史教育では、この点で執拗に問いを立ててきます。少なくとも私が持っているコリンズのKeyStage3段階の教科書では執拗です。この段階は11-14歳を対象にしたものですが、学習の目標は説明ができるようになることで、例えば「王はなぜ力と対話を用いる必要があったのか」と言う話題について話すことができる、といったものです。少年時代から支配とは何かを学ぶわけですね。 ウィリアム1世がなぜ王位を狙ったのかは聞くまでもないでしょう。私たちが際限なく価値を追求するように、中世の王たちも際限なく価値ある土地を追求します。むしろ狙える土地があるのに狙わなかったことの方が疑問とされるべきことです。戦争を起こしたら犠牲者たちへの説明はどうなるかなど考えません。むしろウィリアム1世はそれによく配慮した側です。彼は教皇から直々に支持を得た聖なる軍を率いたのです。この戦いで死ぬことはキリストのためになり、倒れた相手は不信心者なのです。それに加えて、後継者亡くして死んだ王の親戚かつ友人であり、後継者指名を受けていた(と言う主張)のであり、中世ではウィリアム1世のイングランド王位請求は悪いことなど一つもないでしょう。 神のご加護(彗星の出現、ドーヴァー海峡の天候変化のタイミング、先に競争相手が別で戦う羽目になったことなど、様々な幸運はそう呼ぶほかないぐらいです)で土地を得ましたが、問題はその土地をどう維持するかです。なんと当時のイングランド人500,000人程度に対してウィリアム1世の同胞ノルマン人は10,000人程度、1人で50人の異民族を支配しなければならなかったのです。50人の外国人が働く工場をあなた一人が任されて、彼らに仕事を最大限させるにはどうすればいいのでしょう。機嫌を取ればなめられるだけで相手は要求をエスカレートさせるでしょうし、いつの間にかあなたが彼らの下僕となります。かといって苛烈に扱えば、あなたは工具を片手にした50人から報復を受けるでしょう。ノルマン人は自身の安全を確保するためにまず城を作りました。当時イングランドにはノルマン人が「城」と呼ぶような城はありませんでした(アングロ=サクソン人からしたら城と呼べるものはあったかもしれませんが)。ノルマン人のモット・アンド・ベイリー方式の城郭は当時としては防御が固く、不意打ちを受けないよう住民からは離れて建てられました。こうした恐怖によってウィリアム1世はがちがちに構えてイングランドを支配しました。 優しくスマートに統治するのが理想でしょうが、時には恐怖に頼らざるを得ないこともあるものですというお話です。ウィリアム1世はそのせいか、あまり評判がいい王様ではなく、どちらかといえば侵略者として記憶されていると思います。
フォンスティ音楽教室③ 小澤征爾様について超ざっくり
おひさしぶりでっす。フォンスティーヴ(タコP)です。 大分間が空いてしまいましたね……。 さて、早速前回の続き……と行きたいところなのですが、これを書こうとしたちょうどその時、私の元に衝撃的なニュースが飛び込んできました。あの日本が誇る大指揮者、「小澤征爾」様がご逝去されてしまったと……。 ということで久々の執筆なのですが、少々話題を急カーブさせ、今回は先日お亡くなりになった小澤征爾さんについてお話ししようと思います。 ※この記事には独断と偏見、主観的意見が多分に含まれます。ご了承ください。 先日の小澤征爾様の訃報はネットニュースやメディアでデカデカと掲載されたので目に入った方は多いと思いますが、その中ではそもそも小澤征爾様が何者なのかご存知ない方もいらっしゃったと思います。 小澤征爾(以下敬称略)自体、主に20世紀に活躍された方で、近年では癌の影響であまり表舞台に姿を現していなかったので、おそらく昨今の10代20代の方々は特に知らない方が多いと思います。 小澤征爾は1935年に誕生した日本の指揮者で、おそらく近代日本音楽史の中で最も偉大な人物のうちの1人です。 彼はその生涯で日本人としての様々な偉業を成し遂げていますが、その中で特に偉大なものはやはりニューイヤー・コンサートの指揮でしょう。 クラシック音楽の本場であるオーストリア、ウィーンでは毎年元旦に「ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート」と評してコンサートが開かれています。 元旦の「ニューイヤー・コンサート」という名目ではウィーンだけでなくヨーロッパ各地、それこそ日本でも行われていますが、その中でもウィーンフィルニューイヤーコンサートだけは別格で、その場に指揮者として呼ばれるということはクラシック界の中では最高峰の名誉として扱われます。 そして、今までの歴史上そのコンサートに呼ばれた日本人は1人しかおらず、その人こそが「小澤征爾」なのです。 また、それと同じように数十年にも及ぶ長い伝統を誇るフランスのブザンソン国際指揮者コンクールでも日本人として初めて優勝。またドイツやアメリカなど、世界の様々な機関から勲章やメダルを授与されています。現代でも世界で活躍する日本人指揮者は多くいますが、これほどの功績を持った日本人は未だに現れていません。 また、ナチス政権のドイツを生き抜き、20世紀最高の指揮者とも名高い「ヘルベルト・フォン・カラヤン」、同時期のアメリカに生まれ20世紀のクラシック業界の最先端を走り常にリードしてきた「レナート・バーンスタイン」といった偉大な指揮者たちとも親交が深かったことも理由の一つに数えられます。 昭和当時の日本の音楽文化を西洋と対等まで押し上げた立役者の1人だと、筆者は考えます。 小澤征爾様、約半世紀、ありがとうございました。 それではみなさま、ご拝読ありがとうございました。
ホームページの更新が面倒だった
はじめに 最近は、DKIMやらDMRACを設定していないメールの存在価値がなくなりつつあります。このブログサイトことWordPressから送られてくるメールについても例外ではなく、なんなら結構前からメールが届かない状態でした。それでも、新しいメンバーが増えたときや、メンバーがパスワードを忘れたとき以外はメール機能を全く使用しないので、そこまで問題はありませんでした。 けれども、影響がないからと言って放置しておくのも問題と考えたため、メールの問題は外部のメールサーバーに転送してもらうことで解決を図りました。まあ、今回の本題はメールではないのですが。 FTPってめんどう 私がこのサイトの運用を担当することになってから、そろそろ1年になると思います。精力的に運用に取り組んでいたかと言われれば全くそうではなく、強いて言えば「革命祭」のページを追加したくらいです。 ページを更新するときはどのような作業を行うのか、簡単に説明します。 1 ダウンロード済みのページソースを編集する 2 ローカルで仮想環境を立ち上げ、動作を確認する 3 サーバーの管理画面からFTPでアクセスできるようにする 4 FTPソフトを立ち上げて、サーバーに接続する 5 該当のページが格納されているフォルダまで移動し、アップロードする 6 本番環境で動作を確認する そんなに難しくなさそうと思った方もいるかもしれません。私も最初の方は面倒ではありませんでした。しかし、最近になって急にこの開発フローが面倒に感じるようになってしまったのです。一番面倒なのは、サーバーのパスワードをパスワードマネージャーからいちいちコピーしてこないといけないことでしょうか。 私は断片的かつ曖昧な知識で突っ走る人間です。しーあいしーでー(CI/CD)とか、えすえすえいち(SSH)とか、どこかで聞き齧った言葉を引っ提げて、どうにかならないか考えることにしました。ただ、借りてるサーバーのプランによると、SSHでの接続はできないようでした。最初にローカル開発環境を作ったときに、データベースの中身を引っこ抜くのですら、すさまじく面倒だった記憶がよみがえりました。ところどころでVPSよりAWSやGCPが便利なことがわかる気がします。でも、スケーラビリティと使いやすさを犠牲にしても、グループで運用する場合は定額課金であるメリットはめちゃくちゃ大きいです。 git-ftp が良さそう 最初は、GitHubのメインブランチにマージされたコードが自動でアップロードされてくれないかなと考えていましたが、色々と難しそうだったので、「git-ftp」というソフトを使用することにしました。設定方法などは下記を参照ください。 『【Git】git-ftpを使ってFTPアップロード』 https://qiita.com/narcolepcy_/items/621986bfe0c2183781a1 (閲覧日:2024年1月16日) おそらく、すべてをgitで管理させると不都合が起こるので、トップページやメンバーページのソースコードが置いてあるフォルダのみを管理することしました。あとは、gitignoreを使って面倒そうなものを弾いてよしです。 どのように便利になるのか これの便利なところは、動作確認後は 「git ftp push」 のコマンドで自動的に差分をアップロードしてくれるところです。なので、ローカルでの動作確認からアップロードまでの面倒さがかなり少なくなります。上記の手順だと、4と5を一つのコマンドでやってくれています。
共通テスト(世界史)を解いてみた 2024
どうも、いのっちです! 今更ですが、新年明けましておめでとうございます!✨ そして、年末年始に開催した動画投稿祭「革命祭」の応援、本当にありがとうございました♪ 多くの動画投稿者様に御参加いただき、ニコニコ動画をはじめ多くの方々にもサポートをいただき、何より多くの視聴者の方々に動画を御視聴いただけたということで、べーた一同大感激✨です。 重ね重ね、本当にありがとうございました! (また似たような企画をやれたらいいなあ) 近いうちに「まとめ動画」や「生放送」という形で振り返りをさせて頂きますので、またご覧いただけると幸いです♪ あと私事ですがまだ投稿できていない後編も頑張って作成します…💦 (年末年始は体調を崩していたので勘弁してください) さて、「世界史べーた(仮)」お祭り開催中にチャンネル登録者が2000人を超え、チャンネル開設2周年を無事に迎えることが出来ました。 そんなめでたい年始に行われるといえば「共通テスト」! 私の頃は「センター試験」と呼ばれてましたが(懐かしいなあ) 高校時代、世界史をほとんど履修出来なかった私ですが、去年までに世界史通史動画を半分(全12本予定の内6本)投稿したわけですし、 今なら半分以上解けるはずだ(皮算用)! ということで、早速「世界史B」に挑戦してみました! 結果は… 88点!(ドドン) おお、意外と解けているではないか(33問中4問不正解) 「オットー大帝」や「ノルマン・コンクェスト」など前回の動画で触れた人物や事件が出ているのも嬉しかった♪ 知識が無かったとしても、しっかり文章を読めば考察できる問題が増えている印象でした。(完全なグラフ読解問題とかもありましたし) しかし、やはり近現代が苦手…💦 それに読解で正解したような問題も知識でスパスパ答えられるようになりたい…! ということで後半の世界史動画もコツコツと制作していきたいと思います♪ そして、いつかは「世界史検定」を受けてみたい! そんな目標を語りつつ、今回のブログはここまでにしたいと思います。 本年も「世界史べーた(仮)」をよろしくお願い致します!!
『葵徳川三代』はいいぞ。(おすすめ大河ドラマ紹介 第5回)
※とある大河ドラマの紹介文です。ネタバレ注意! こんにちは、いのっちです! お久しぶりです! 何だかんだで2023年も終わりが見えてきましたね。 登録者数も1900人を超え、年末年始には投稿祭「革命祭」を開催と益々勢い盛んな「世界史べーた(仮)」をどうぞこれからもよろしくお願い致します! さて、今回も好きな「大河ドラマ」の御紹介をさせて頂きたいと思います(今回で5回目)。 過去ブログはこちら ⇒ 第1回「草燃える」 第2回「花神」 第3回「翔ぶが如く」 第4回「毛利元就」 今回は、現在放送中の「どうする家康」に因んで、「徳川家康(演:津川雅彦さん)」とその子の「徳川秀忠(演:西田敏行さん)」、そして孫の「徳川家光(演:尾上辰之助 [現・4代目尾上松緑]さん)」の親子三代が主人公を務める作品『葵徳川三代』(2000年[平成12]放送)を御紹介します! 余談ながら、筆者が初めてリアルタイムで観た大河ドラマです (世代がバレちゃう💦) 太閤・豊臣秀吉の死から始まり、「関ケ原の戦い」「大坂の陣」などの戦乱を経て「江戸幕府」が盤石になっていく時代(約40年間)を描いた作品です。よって前半は華々しい合戦シーンがある一方で、後半は幕府や朝廷を舞台にした政治劇が中心となります。 主役の津川さんや西田さんたちをはじめ、多くのベテラン俳優がキャスティングされていることでも有名ですね(当時は「老人大河」と揶揄されたとか💦) 本作の見所は何といっても映画並み(億単位)の予算を投じて撮影された「関ケ原の戦い」でしょうね♪(「どうする家康」ももうすぐ関ケ原だ!) 現在でも他の大河作品や歴史番組にも流用されている迫力満点の合戦シーンはまさにNHKの本気といった感じです。 九州出身の私としては、やはり「島津の退き口」のシーンはワクワクしますね♪ (史実なのかは存じ上げませんが) あと、語り部が有名な「徳川光圀(水戸黄門)(演:中村梅雀)」というのも面白いですよね♪ (「今宵も、お馴染みの顔でござる」のフレーズは癖になる) 歴史の研究者である彼が、祖父(家康)や伯父(秀忠)の業績を視聴者に紹介していくというのが本作品の基本的な構成になっています。 知名度が高いだけではなく、学問に精通しており、何より家康たちの時代から離れすぎていない彼が語り部に選ばれたことはまさに適材適所といえるでしょう。 (物語の終盤では彼自身が誕生するエピソードが描かれています。) まあ、本作の光圀は「サッカー」や「ホームラン」「スキャンダル」「プライバシー」など外来語をここぞとばかりに多様する一方で、「関ケ原の合戦の前哨戦」や「父親(徳川頼房[水戸藩の祖])の誕生シーン」に自ら顔を出すなど時空を超えて縦横無尽に駆け回るコメディ担当なんですがね(笑) これは本編がガチガチの「武家ことば」や「公家ことば」で固められているため、歴史に詳しくない視聴者が置いてけぼりにならないよう配慮したからだそうです。 温度差が凄い。 因みにまたまた余談、光圀の側にはこれまた有名な「助さん・角さん」のモデルとなる二人が控えているのですが、彼らは「女性」が演じています。天下泰平の時代が続いた結果、武士たちも華奢になった事とを表現するためだとか。 温度差が凄い。 さて本編に話を戻しますが、今作の中心人物(というか実質的な主人公)といえばやはり何といっても「二代将軍・徳川秀忠」でしょう。 本作は、説明不要の有名人である父親の徳川家康に比べると影が薄い彼の成長物語と言えます。 実際、ドラマ序盤ではどこか頼りなく迂闊さが目立った青二才といった感じでしたが、父や家臣たちの薫陶を受けながら徐々に身内や重臣、朝廷や大名にも一切容赦しない強かな天下人へと変貌を遂げていきます。(家族想いの面では一貫していましたが)… Continue reading 『葵徳川三代』はいいぞ。(おすすめ大河ドラマ紹介 第5回)