海軍と炭酸飲料のこばなし

海軍さんの嗜好品  戦争において士気などを維持するのに嗜好品は貴重なものでした。なにせ、やる気がない中仕事をしてもなかなか捗らないように、士気が低いと兵士も弱くなるのです。  第一次世界大戦でもフランス軍は、兵士1人につき毎日4分の3リットル(通常のワインの瓶1本に相当)のワインを無料で支給し、イギリス軍も一日一口程度のラム酒を支給して士気の維持に努めたほど。  第二次世界大戦では救国戦闘機のスピットファイアがフランスにいるイギリス軍の為に落下タンクにビールを詰めたり、仕事熱心な米軍のおにいさんが最前線の小島にアイスクリーム製造機を配備したりと……これらは「兵士を甘やかすため」ではなく「効率よく兵士のやる気を出させるため」に用意されたのです。   WWIでガリポリに上陸したフランス軍のワイン  そういう意味では、昨今のミリタリーオタクの皆さんが小馬鹿にしがちであるイギリス軍の現代戦車に搭載されている電気式湯沸し器も士気の維持という点では侮れない装備です。敵の砲爆撃の嵐の中でも安全な装甲に包まれた戦車の中で火をたかずに暖かい食事や飲み物が楽しめたり、布の消毒ができたりするのです。皆さんだって冷たいコンビニ弁当ばっかりだと少しは暖かいものが恋しくなるでしょう?それが安全にできるのですごいんですよ。 とてもつおいイギリス軍の湯沸かし器  ……っと少し話がそれてしまいましたね。  それでは士気向上の嗜好品を大日本帝国の海軍さんはどうやっていたのかというと、甘いものでやる気を出させていました。  泊地などではかの有名な給糧艦間宮の間宮羊羹などの甘味の補給が有名ですが、巡洋艦以上の大型艦には自分たちでそう言ったものを作る手段がありました。    それが「ラムネ製造機」です!  海軍艦艇には、火災の時に火を消すために「二酸化炭素消火装置」というものが備え付けてあり、それを転用して「ラムネ製造機」というものを設置したのです。  この装備の設置については戦前からであり、昭和三年の「艦舷「ラムネ」製造機装備の件」という訓令が出されており、横鎮、呉鎮、佐鎮長官あて(舞鎮がないのは、当時軍縮条約により要港部に格下げされていたため)に海軍省大臣官房から 『其府麾下所属ノ既成戦艦、巡洋戦艦、巡洋艦、航空母艦、潜水母艦、給糧艦及其他必要ヲ認メタル艦舷ニシテ「ラムネ」製造機ヲ有セサルモノニアリテハ此際艤装品トシテ装備方取計フベシ 右訓令ス(後略)』  とあり、要約しますと 「横須賀、呉、佐世保の各鎮守府長官は、自分の部下所属で竣工済みの戦艦、巡洋戦艦、巡洋艦、航空母艦、潜水母艦、給糧艦そのほか必要な艦船でラムネ製造機を取り付けていない艦があるのならば、この機会にすべて取りつけるように」  というものになります。ここで駆逐艦や潜水艦等がないのは、ラムネ製造機を設置するにはスペースなどの制約があるからなのでしょうかね?実際に駆逐艦島風や駆逐艦山雲といった艦にはラムネ製造機は設置されていなかったという記述を見たことがあるのでそういう事なのでしょう。  ちなみに火を消すための炭酸ですので、そう無闇に使う事もできません。なので停泊時は「ボンベに入った炭酸ガスを陸上から買って製造」していたそうです。    なおその頃、仕事熱心な米軍さんは大型艦にアイスクリーム製造機を導入しており、米空母艦載機が不時着した際に駆逐艦などがパイロットを回収して引き渡せば、お礼にパイロットの体重分のアイスが貰えたそうな……やっぱり格が違うなぁ……

グラント大統領の記念碑を上野へ見に行こう

上野公園の南北戦争スポット!? 読者の皆さんは上野恩賜公園を訪問した事があるでしょうか? 博物館や動物園で有名な公園ですが、このブログを書いている3月末なら桜が見頃なお花見の名スポットでもあります。 しかしこの公園、日本では数少ない(?)米国史を感じられる場所となっています。と言う事で今回は南北戦争を北軍の勝利に導き、戦後に大統領を務めたユリシーズ・グラント、彼の訪日を今に伝える上野公園の植樹碑訪問ブログです。 この記念碑自体への行き方は結構簡単、上野駅公園口から直進して動物園正門の前で左手に見れば到着です。   ただし結構ひっそりした見た目なので、そこは注意かもしれません。記念碑のレリーフは中央はグラントの肖像、左右に英語と日本語で植樹碑設置の来歴が記されています。 (日本語の碑文は塗装が消えかかっててちょっと読み辛い……)       グラントと言えば1865年に北部の勝利で幕を閉じた南北戦争で北軍の最高司令官に上り詰め、南軍のリー将軍を破り一挙に英雄となった人物です。その後1868年の大統領選に参戦すると、対抗する民主党の候補を獲得選挙人で大差を付け当選し第18代大統領として8年勤めます。 (彼が任期中に取り組んだ南部の再建も南北戦争後の重要な出来事でした) 1877年に大統領任期を終えたグラントは世界各国への訪問へ出発、1879年には日本を訪問し明治天皇への謁見を行い、足を延ばして日光へも訪れました。そしてこの訪日の際に記念植樹を行った場所の一つがこの上野公園なのです。 ちなみに肝心の植樹した木は記念碑から左に向くと今でも姿を確かめられ、二本のうち左側はグラント夫人による泰山木で、右側がグラント本人による檜です。そして明治時代に植樹された由縁が時代と共に薄れる事を憂いて昭和4年に記念碑が建立されました。 今回の訪問記はこの辺で終わろうと思いますが、有名な文化スポットが並び立つ上野で公園に佇む銅像や記念碑にも、普段は意識しない由緒が見つかるかもしれません。  

ヤンデレの道真好きに徹底的に恨まれて眠れない防府天満宮縁起

道真以外道真じゃないの  こんにちは、※(米印)です。  ひょっとしたらご存じの方もいるかもしれませんが、実は私、菅原道真が大好きなんです。  それはもう、世界史べーた(仮)で最初に出した動画がこれですもの。 (ただ、一応免罪符として置いておきますが、私はあくまで「好き」なだけで専門家とかではありません。その点は十分ご注意ください)   この漢詩……道真のじゃないよね。誰の?  さて、そこで問題になるのが海鳥さんのこのブログ記事です。海鳥さんは旅行に際して防府天満宮を訪問されたようでして、その由緒などを載せています。まだ読んでいないという方はぜひぜひ。  天満宮の参拝者が増えるのはいち道真ファンとしてとっても嬉しいことで、去年のくないさんの太宰府天満宮訪問を聞いたときと同じく踊り狂いました。    ところが、落ち着いて肩で息をしながら改めて記事を読んでみますと、そこにはこんな文がありました。 「此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ」  頬を冷や汗がつたいました。「これ、知らない」と。  言葉遣いや音の数からして、和歌ではなさそうです。それなら漢詩か、しかし見覚えがない。「菅家文草」や「菅家後集」に収録されている漢詩なら、見かけたことくらいはありそうなのに……  瞬間、脳内に死ぬほど愛されて眠れなくなりそうなどこぞのヤンデレがインストールされ、「道真のこと世界で一番わかってるのは私なの! 他の誰でもない、私!」と叫び始めます。いやさすがにそれは思い上がりにもほどがある。ガチ研究者とかに勝つのは無理じゃん。そも専門家じゃないし。ただのファンですら私より上がいくらでもいるし……    ともあれ、脳内のヤンデレ妹(妹要素どこ?)をなだめるために、私はこの文について調べなければならなくなったのです。   道真は優しくてかっこよくて、でもちょっと脚色が多すぎるところはわかってた  最初に元文を確認してみましょう。防府天満宮さんのHPによりますと、「九州大宰府への西下の途中」に、「防府の勝間の浦に御着船」し、「『此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ』」と願ったのだといいます。  つまり、昌泰の変により左遷された際のものと考えるべきでしょう。    あれ? 「御着船」なの? 陸路じゃなくて……?  早速雲行きが怪しくなっていますが、ともあれまずは一般のご家庭にある川口久雄校注『菅家文草 菅家後集』を引っ張り出してみます。  道真の左遷後ですから、もし収録されているとすれば年代的に『後集』しかあり得ません。  しかして、川口本を見る限り、昌泰四年(左遷はその年初)の最初の詩は「自詠」で、 離家三四月 とあるのですが、「離家」(=左遷)から数か月経っていると言っているわけで、これは時期的にも既に大宰府に着いてから詠まれたものと思われます。  実際、他の詩を見てもそれらしいものはありません。したがって、『後集』には載っていないことがはっきりしました。    次に確認すべきは『大鏡』です。大鏡も地味にいくつか漢詩を載せており、有名どころでは「一栄一落是春秋」(一応川口本も載せている)はこちらに引きます。  が、駄目……っ! やはりそれらしきものはナシ。念のため和歌も確認しましたがやはり無い。    ひとまず、脳内ヤンデレ妹は「やっぱり私の知らない詩……」と、お兄ちゃん(道真)の浮気を恨みつつも、自分の記憶違いではないことの安堵をわずかばかり含んだ声色に変わりました。よしよし。この調子で頼むぞ。 でも菅家伝さんって面白いっていうより信頼性がないよね  薄々察していたのですが、やはり『後集』や『大鏡』にはなかった。実はこの辺であのツイートをしています。ヤンデレ妹を必死に抑えながら。  となると、次に見るべきはおそらく菅家伝。なお、「菅家伝」というのは俗称でありまして、基本的には『北野天神御伝』というものがそう呼ばれます。  しかし、残念ながら私のような一般家庭にはそんなものは置いてありません。デカい図書館か逸般の誤家庭を訪ねて見せてもらうほかない。  ちょいと出かけまして、一番参照される(と思われる)真壁俊信校注の神道大系本(『北野』(神社編11))を用意しました。    さて、分厚い本をひっくり返してみた結果は……ない。ここにもない。念のため頭から後ろまで漢詩は全部チェックしたのにそれっぽいものがひとつもない。  脳内ヤンデレ妹はこんらんしている!    いや、まぁこれも薄々気づいていたんですよ。防府天満宮の話なんだから防府天満宮の縁起読まなきゃ出てこないかもな~って。なので、読みます。読みました。    用意したのは『防府天満宮縁起集』、ここに『松崎天神縁起絵巻』の詞書が載っています。  で、パラパラめくって漢詩らしきものを探すと……ない、ない!? マジで?   そんなの道真じゃない!!  ヤンデレ妹がいまにも暴発しそうなのですが、なんとかKOOLになって考えます。  こういうときは元文に戻るのがセオリー。「此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ」ともういっぺん睨めっこをしてみます。    にーらめっこしーましょ。わーらうっとまっけよ。    ……これ、ほんとに漢詩か?… Continue reading ヤンデレの道真好きに徹底的に恨まれて眠れない防府天満宮縁起

『翔ぶが如く』はいいぞ。(おすすめ大河ドラマ紹介 第3回)

※今回は、とある大河ドラマ紹介文です。 ネタバレ注意!   こんにちは、いのっちです!   いよいよ「23年度(令和5年度)」が始まりましたね。登録者も1000人を突破し、新メンバー(メ塩さん)も加わった新たなスタートをきる世界史べーた(仮)を本年度も何卒よろしくお願い致します!   最近は春らしい陽気が続き、ほんわか過ごしている私ですが、今日も歴史好きになった理由の一つ「大河ドラマ」の御紹介をさせて頂きたいと思います(今回で3回目!)。   過去ブログはこちら ⇒ 第1回「草燃える」  第2回「花神」   今回御紹介させて頂くのは、幕末の動乱から「西南戦争」・「紀尾井坂の変」に至る明治維新の激動と葛藤を主に薩摩の人々の目線で描いた作品『翔ぶが如く』(1990年[平成2]放送)を御紹介します! (放送当時、まだ生まれていたわけではないのですが💦)   本作は前回御紹介させて頂いた「花神」と同様に、司馬遼太郎さんの長編小説『翔ぶが如く』が原作になった作品です。   ただし、明治以降が舞台の原作に対して、ドラマは主人公の「西郷隆盛(演:西田敏行さん)」と「大久保利通(演:鹿賀丈史さん)」がまだ若かった時代から始まっており、「第一部(幕末編)」「第二部(明治編)」の二部構成になっています♪ (大河史上初の『二部構成作品』)     因みに「翔ぶ」という言葉は本来「とぶ」と読むことは出来ません(当て字ですから)。それにも拘わらずこの当て字を使っていることをよく目にするので本作の影響力は計り知れませんね♪   本作は舞台が九州(「鹿児島」や「熊本」)ということもあって、九州出身の私にとってはかなり身近に感じられる作品です。父も「司馬遼太郎ファン」ですので西南戦争に関する史跡(熊本城や田原坂)をよく一緒に回ったものです。     本作の名シーンとして有名なものは、征韓の是非を議論する会議の場における「西郷と大久保の激論」でしょうね。   遣欧使節の一員として諸外国を視察し新たな国家体制の構築が急務だと痛感した合理主義者の大久保と、その留守を預かる中で新時代に取り残された人々の嘆きや怒りを一身に引き受けてきた情に厚い西郷は、たとえお互いを最大の理解者だと認めてあっていても激しく衝突せざるを得ませんでした。 (両者とも最期の瞬間は共に過ごした青春時代を思い出していました。(泣))   議論が白熱する中で、普段は標準語を使っていた大久保も薩摩弁(鹿児島弁)に戻り、まるで若かりし頃のように激情をぶつけ合う二人の姿が非常に印象的です。   結局、政争に敗れた西郷は下野(鹿児島へ帰郷)するわけですが、それを告げられた大久保は「赤子にように始末が悪い!」と激怒します。それが二人の別れとなるわけです…   かつて同じ夢を追いかけていたはずの幼馴染二人の悲劇的な決別は、「明治維新」という新時代を創造する一大事業の困難さを象徴するものだと思います。   その過程で生じる矛盾や歪みを二人はハッキリと理解しており、西郷に至っては「(新しい世の中を創る為に行った倒幕の戦で)もっともっと人が死ぬべきだった。公家も大名も士農工商全てを焼き尽くして、その焼け跡の中から新しい日本を築くべきだった。(要約)」と今の大河ドラマでは絶対主人公が言えないような「かなり過激なこと」を言っています(戦後の日本を彷彿とさせる台詞ですね)。   様々な役を大河ドラマで演じてきたことで有名な西田敏行さんですが、その懐の深い将器を有する好人物ながら、時に謀略も厭わず狂気じみた革命論を吐露する本作の西郷隆盛役が個人的には一番好きでね♪(会津を有する福島県出身の西田さん的には複雑な役どころだったみたいですが…)   本作には他にも、実務能力や先見性を評価されながらも急進かつ攻撃的な性格が災いして新政府内で孤立、後に反乱の指導者となる「江藤新平(演:隆大介さん)」。野心家で保身のためには同志も切り捨てる冷徹な面がある一方で、厳しい局面においては身分の低い公家から成り上がっただけの度胸・胆力を見せる「岩倉具視(演:小林稔侍さん)」。若い頃は軽率な面が目立ったものの、経験を積むうちに見識高く成長、後に「敬愛する兄・隆盛」と「尊敬する先輩・大久保」との板挟みで苦しむことになる「西郷従道(演:緒形直人さん)」など様々な魅力的な人物が登場しますよ!   是非御自身の眼でお確かめください!   それでは今回はここで筆をおかせて頂きます。 これからも機会があったら好きな大河ドラマを紹介していきますね♪   それでは失礼致します! 〇(><)

海鳥腰慰安旅行 ~in 湯田温泉~

皆様お疲れ様です!海鳥です! 先日、私のサークルで旅行に行きました。今回はJR西日本さんの「サイコロきっぷ」を利用しての旅行でした。 「サイコロきっぷ」とは、5000円で新大阪から西日本各地の決められた場所への往復切符が手に入る切符です。今回の目的地には福岡県「博多」、島根県「出雲」、山口県「湯田温泉」、石川県「加賀温泉」の四か所でした。 いざサイコロ! さぁ回すぞ!とのことで 私ともう一人で回し、私が「出雲」。もう一人が「湯田温泉」でした。 温泉好き二人は迷わず湯田へ。まさかの一週間前に決定。金無し二人による限界旅行が始まりました。 旅一日目 集合は新大阪。マジで毎週新幹線乗ってる生活を過ごしているおかげか、集合はすぐでき二人で喫煙所へ。 紫煙を交えつつ近況報告を済ませ、我々はホームへ。 ヤニカスの海鳥の為に指定席は喫煙ルーム目の前に。最高な気遣いである。 新山口到着!! 新山口について時刻は12時過ぎ。新山口で一度改札を降り昼食へ行きました! 私はピザを、連れはステーキを注文し、昼からのお酒で気分は最高!いざ湯田温泉へ! ところが… 車社会山口が我々に牙を向けました。 なんと次の列車は一時間後。新山口周辺で遊べるようなところは見つけることができませんでした… 逆方向!防府へ! 私たちはとりあえず防府へ向かいました! 防府といえば「防府天満宮」! 防府天満宮は「日本最初の天神さま」と言われています。 防府天満宮が祀っているのが菅原道真公 時は平安時代。承和(じょうわ)12年(845年)~延喜(えんぎ)3年(903年)を生きた平安貴族であり学者、漢詩人、政治家だったそうですね。 昌泰4年(901年)、時の権力者藤原氏によって無実の罪を着せられ、九州大宰府へ左遷されることになりました。その2年後、大宰府で薨去されました。 その後、都では天変地異が続き左遷にかかわった人々が次々に亡くなりました。このことから人々は「道真公の怨霊の仕業に違いない」といい、京都で神として祀られたらしいです。今の北野天満宮ですね。 「いや、じゃあここいつできたねん」って話ですけど。道真公が薨去された翌年にできたみたいですね。 道真公は、九州大宰府への西下の途中、時の周防国(山口県)国司である土師氏(道真公と同族)を頼り、本州最後の寄港地となる防府の勝間の浦に到着。 「此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ」(解釈:この港を出発すれば次はいよいよ九州であるが、この防府の地は天皇のいらっしゃる京の都とまだ地続きである。願わくはここ松崎の地に住まいを構え「無実の知らせ」を待っていたい。) と願い九州へ向かったそうです。そしてそれから二年後、道真公が薨去された丁度その日、府勝間の浦に神光が現れ、酒垂山(現・天神山)に瑞雲が棚引き人々を驚かせたそうです。 国司を始め里人たちは道真公の御霊魂が光となり雲となって「此地」に帰ってこられたと悟り、翌年の延喜4年(904)道真公の願われた通り、御霊魂の「居」を「この所」である松崎の地に建立して「松崎の社」と号したのが始まりだそうです。 これで私は「太宰府天満宮」、「北野天満宮」、「防府天満宮」の「日本三大天神」すべてへ訪れることができました! なんだかんだ忙しくて行けなかった初詣ということで、おみくじを引かせていただきました。 おみくじ「恋愛:ちょっと待ちなさい」 いやいやいや、ちょっとまて。そんな直球あんの!?マジで笑いましたわ笑 これ以外は普通で「今年も努力しましょう」って感じだったので頑張りたいと思います! そして我々はホットチョコで体を温め湯田へ… 湯田温泉到着! もうマジで最高でした。 温泉大好き海鳥ちゃんたちは即温泉へ!温まりながらここまで来て一生サークルのことを話し続ける物好き二人。のぼせかけたころ我々はお湯から上がり、居酒屋へ! 鯨や馬刺しなどを食べながら酒を飲み交わし、またサークルの話。 もうめちゃくちゃよかったですね。 これだけで終わるはずもなく二軒目へ… 記憶ないです。   旅二日目 なんだかんだ朝早起きすることができました。速攻朝風呂へ向かい、ホカホカになった後「狐の足あと」へ向かいました。 この悪魔配合を食しました。 プリンもお酒もめちゃくちゃおいしかったですね! 一階には中原中也のコスプレがあったのでパシャリ 帰るわよ 新山口へ戻りまた居酒屋へ… 海鮮居酒屋でしたがめっちゃおいしかったですね~ おわりに 山口でも湯田と防府は初めて訪れたのですが、めちゃくちゃ楽しかったですね。山口はお酒もおいしいしまた行きたいですね!今度は「獺祭」をいただきに行きたいと思います! ではこんな適当なものを読んでいただきありがとうございました!… Continue reading 海鳥腰慰安旅行 ~in 湯田温泉~

『オックスフォードブリテン諸島の歴史1 ローマ帝国時代のブリテン島』読書メモ

今回のブログも読書メモです。 前回は世界史リブレットと言う軽い本でしたので、今回はオックスフォード(慶應義塾大学出版会の翻訳版)からヘビー級の『オックスフォードブリテン諸島の歴史1 ローマ帝国時代のブリテン島』です。 本書のシリーズは今までイングランド史が中心になりがちだったUK周辺の歴史を、非イングランド地域での近年の国民意識の高まりを受け、その他の地域もまとめて「ブリテン諸島」として地理的区分としてとらえなおすという、欲張りな試みをしています。とはいっても一人の筆者や編者が体系的に通史を組み立てて書くことは難しかったようで、各分野の専門家による論文集に近い体裁です。 シリーズ内において本書はローマ時代を扱います。この時代について編者ピーター・サルウェイ氏は序論で、研究者には大きく二種類の態度があるとしています。一つはローマ帝国の一辺境に過ぎず、その歴史を叙述するには絶えず帝国の中心の動きを見据え続ける必要があるというもの。もう一つはローマの支配は表面的なものに過ぎず、真の意味でのローマ化はなく、独自の地域であったというものです。地域主義が盛んな昨今において、後者の方が受け入れられやすいのは容易に想像できましょう。編者は客観的な視点を重視するべきとしていますが、ローマンブリテン研究では特に公平性が保たれていないと考えています。そうした古くからの研究者の態度に警鐘を鳴らしつつ、本書の序論は終わります。 さて各章を見てみましょう。本書を通じて意識されていることはブリテン島が当時どれほどローマ的であったかと言うことです。ローマによって文字がもたらされたブリテン諸島。文献史学をやるならローマから見るしかないのです。それ以外のことが知りたければ考古学をやりましょう。実際イギリスの文化財保護政策や新しい調査手法によってローマン・ブリテンには新たなメスが通ずるっ込まれているのです。考古学による成果を交えつつ本書は新しいローマン・ブリテンの叙述を目指しています。 第1章「ブリテン諸島の変容 カエサルの遠征からボウディッカの反乱まで」 本章を担当したティモシ―・ウィリアム・ポター氏は古代ローマ専門の考古学者にして大英博物館の先史・ローマ時代ブリテン島部門の学芸員でした。そして2000年に55歳の若さで亡くなっています。本章では限られた資料の中でローマ時代初期のブリテン島の様相を叙述しています。本章でとりわけ注目されるのが、カエサルによる占領失敗からクラウディウスによる南部ブリテン島の占領までの期間に、すでに社会変化が始まっていたということです。社会変化の内容として挙げられるのは記録される部族名の違いなどから考えられるブリトン人社会における混乱(戦乱)、発掘により発見された品々から推測されるローマ文化の受容です。そしてカエサルによる占領後もブリトン人社会では保守派と新ローマ派に分かれ、不安定な状況が続いていたと考えています。今っぽく言えば、治安が悪かったのが初期ローマ時代のブリテン島だということです。筆者はブリトン人の自主性を評価し、ブリトン人自らがローマ化に進んでいったと考えているように思えました。 第2章「新たな出発 ボウディッカの敗北から三世紀まで」 本章を担当したマイケル・フルフォード氏は後期鉄器時代の定住地考古学、ローマ時代の都市と農村の考古学が専門のレディング大学の先生です。本章は第1章の続きとして読むことのできるものです。治安の悪かったブリタニア属州もローマの急速な拡大が止まり、安定へと舵を切り始めた時代を説明しています。イングランドの数か所の都市では、ボウディッカの反乱により形成された焦土層が年代特定の鍵となることなど、日本とは違ったイギリスの考古学の面白い特徴を紹介してくれています。この時代に北辺では長城を建設していますが、長城建設そのものに莫大な資材や労力が必要なことを考慮すれば、長城の建設ができたこと自体、ブリタニア属州の安定と豊かさを示しているとみています。ブリタニア属州は兵士の貯蔵庫的な役目も果たし、余裕があるときはカレドニア(スコットランド)に攻め入り、そうでないときは他所に兵を引き抜いて防御に徹したことも興味深い内容です。しかし3世紀ともなるとローマ内部での騒乱に巻き込まれ、属州内の都市も防御を迫られたようです。本章ではローマ側の記述が多く、ブリテン島はローマの一部として語られ、ブリトン人の動きに関する記述は少ないです。 第3章「古代末期のブリテン島 四世紀以降」 本章を担当したP.J.ケイシー氏はローマ時代末期のブリタニアについての著作のあるダラム大学の人です。なんかネットで拾えるよさげな情報が少なかったです。本章では第2章の続きでもあり、どうもローマ衰退期のブリタニアでは豊かな生活が維持されていたらしいことが記述されています。ローマで四分統治などが始まったころ、属州でも地方分権が進んだ結果、ブリトン人エリートが政治に関わりやすくなり、結果としてローマがブリタニアから手を引いたときにブリトン人政権が安定することができたのではないかとしていますが、資料が少なすぎてよくわからないようです。ローマが撤退した結果文明を支えられる人種がいなくなって元の先史時代の生活に戻ったかのような書きぶりだった昔の歴史叙述には批判的なのは確かです。とはいってもゲルマン人侵入以後急速にローマ的制度が失われていったことは認めています。ブリトン人がローマに順応し、ローマの制度を活用できていたとするあたり、ブリトン人に対する高評価が見て取れます。まぁゲルマン人に飲み込まれたんですけどね。 第4章「属州ブリタンニアにおける文化と社会の関係」 本章を担当したジャネット・ハスキンソン氏はイギリス版放送大学、オープン大学で古典の講師をしています。そのため著書はローマの文化史のものが多く、もちろんローマン・ブリテンについても著書があります。古典の先生であっても考古学的な成果を無視することはありません。本章以降は通史から離れて各分野の専門家による解説となります。かつて歴史家によって失敗と言われていたローマン・ブリテンの美術については、なぜそのようになったのかを考察するべきであるとし、その悲劇の弁護を試みています。ブリトン人の文化の中にローマのものが入ってきたんだからただ単純にまねしたんじゃないんじゃないかと言うことです。でも作品だけじゃそれが何だって言うのかよくわからないし、解釈はいくらでもできてしまうというのが限界のようです。 第5章「景観への影響 農耕、定住地、産業、インフラ」 本章を担当したリチャード・ヒングリー氏とデイヴィッド・マイルズ氏はいずれも考古学者。ヒングリー氏は鉄器時代とローマ時代のブリテン島の考古学で特に景観に注目しています。マイルズ氏についてはイングリッシュ・ヘリテッジという、イングランドの文化財行政を担う場所で主任研究員をしているようですが、同姓同名の人が多く、ネットではあまり多くのことが分かりませんでした。景観とは人の手が加わった地理のようなものと言えるでしょう。かつて森林が生い茂っていたブリテン島は狩猟者が獣を集めるために木を切ったり、農地を広げたりすることでハゲはじめ、土壌流出を引き起こし、低地には土砂がたまって湿地のようになったという話などです。居住地でいえば、ローマ兵の駐屯地を中心にローマ的な地区があり、それが道路で結ばれてその間にも広がり、低地部はローマ的な景観を見せていたようです。しかし山間部などはローマ以前の様式を残し、環濠定住地を使い続けたようです。それでもそうした遺跡の中からローマの工芸品が出てくるので、ローマの影響から逃れられていたわけではないそうです。ローマがブリテン島を放棄したのちもローマの景観は残り続けたという話は第3章と共通し、5世紀末にはその景観は消え失せたとしています。 第6章「世界の縁 帝国最前線とその向こう側」 本章を担当したデイヴィッド・J・ブリーズ氏はローマ時代の辺境に関する考古学の専門家で、スコットランドでの調査も行っていたようです。調査の成果によりアントニヌスの長城が世界遺産に登録されています。本章はローマの領域から目を離し、特にカレドニア(スコットランド)を解説しています。しかし、非軍事的定住地の出土遺物は少なく、遺跡の分布調査や発掘もそれほど進んでいないという悲しい現実があるようです。はっきりしていることはスコットランド、特に北部ではローマ由来の出土遺物はかなり少ないということで、先住民の意図なのか交易がなかったのか、とにかくローマ側との交流が少なかっただろうという話です。 結論 編者ピーター・サルウェイ氏による結論では、私のように集中して全部理解して読み切ることのできなかった人のために本書を改めてまとめています。あ、こんなこと書いてたっけなぁ見落としたなぁなど思いながら読む場所ですね。 さてここまで偉そうに読書メモを書きましたが、私自身読書力が弱いので、鍛えるために書かせていただいております。この読書メモを見たうえで本書を読んで、全然違う、まったく読書の助けにならなかった、などご指摘があるかもしれません。そこについてはすべて私の浅学の責任であるためここであらかじめお詫びいたします。ひとまず最後まで読んでいただきありがとうございました。 以下メモを書かせていただいた書籍のアマゾンのページです↓ オックスフォード ブリテン諸島の歴史〈1〉ローマ帝国時代のブリテン島

チェコ旅行の備忘録

はい、皆様ここではお久しぶりです。 なんだか新型コロナに関する規制が徐々に緩和されそうな情勢ですが、やはりまだ海外旅行を自由に楽しめるようになるまでは時間がかかりそうなので、今回も自由に旅行ができたあの頃を懐かしみながらブログを書いていきたいと思います。 今回紹介していくのはチェコ旅行の様子です。 私の動画シリーズでももう何回も擦っていますが、何回も擦るのは今までに行った海外の中でもトップクラスに感動した国だからでもあります。なお記事内の写真は全て筆者撮影です。 1.旧市街広場   やはりチェコと言えば印象に強く残っているのはこの旧市街広場です。旅行時は確か1月初旬とかで、辺りにはクリスマスマーケットの装飾がまだ多く残っていました。 その様子は上から見た写真だと分かりやすいです。屋台でスナックを購入し小腹を満たしたのは良い思い出となっています。   2.プラハ城 プラハ城もまたチェコを代表する観光地でしょう。当時はあまり良いカメラを持っていなかったので(写真はi pod touchの第5世代で撮影)、画質はあまり良くないんですが、遠くに佇む幻想的な城の姿は強く印象に残っています。RPGだとラスボスが住んでそう。   実は… おそらく知る人はかなり少ないかと思いますが、私はチェコを含めた中欧の旅行動画を投稿してた時期があります。(現在は全て非公開) 当時はまだ○学生とか○校生でしたが、今思うと現在更新中の全世界解説につながるようなことをしてたんです。たまには初心を思い出すのもいいですね。   それではまた機会があればお会いしましょう、それでは~!

『宮廷文化と民衆文化』読書メモ

歴史を学ぶものは動画なんか見ずにちゃんとした本を読むべきなのは当然のことなのですが、私は動画を作るために本を読んでばかりで、いつの間にか本を読むことを目的とした読書ができなくなっておりました。 そこで今回からは今後の読書モチベーションのために本を紹介していくこととしました。しかし、読書がはかどっていなかった私に紹介できる本は今のところこの以下の本ぐらいでしょうか。 『宮廷文化と民衆文化』世界史リブレット …薄い本です。今度はごつい本を紹介するので許して… 本書はブルゴーニュからブルボンまでの宮廷文化とフランスの近世民衆文化を取り上げて、その二者がブルジョワ階級の勃興で統合されるところまでを扱っています。とはいっても内容はほぼ宮廷文化で、民衆文化とブルジョワの説明はわずかです。私は民衆文化やブルジョワ文化などより宮廷文化に興味があったので全く問題ありませんでしたが、民衆文化側に興味を持たれている方にはお勧めできないでしょう。ただし18世紀の生活に付随した文化を勉強し始めるためならいいのではないかと思います。 さて軽く各章の内容をお伝えしますと以下のようなものです。 ①ブルゴーニュとウルビーノの宮廷 本章で宮廷文化の始まりは15世紀ごろのブルゴーニュであると述べられています。それ以前の宮廷文化、シャルル・マーニュやアリエノール・ダキテーヌと分けたのは武だけではなく文の力を有して形成された文化だからだとしています。晩餐はもちろん、音楽や蔵書、入市式などの儀礼において当時西欧において最も壮麗なことでブルゴーニュは知られていたのです。そのブルゴーニュに次いで紹介されるのはルネサンス期のイタリア宮廷であり、特にウルビーノを中心にしています。宮廷は王の住居であるだけでなく、それまでの修道院や教会に代わる文化の発信地でもあることが様々な部分から語られています。 ②フランスの宮廷 宮廷と言えばだれもが思い浮かべるバロックからロココの時代のヴェルサイユ。ベルばらの聖地です。ブルゴーニュやウルビーノが栄えていたころのフランスは、内乱やらペストやらで悲惨な状況でした。それが収まっても宗教改革による動乱が起こり、七転八倒の時代が続きました。そうした状況の中でも着実にルイ14世時代に花開く宮廷文化の下地が出来上がっていることを示しています。特に下積み時代のフランスに特徴的な移動宮廷の記述は興味深いです。そのあとは皆さんご存知の、ヴェルサイユに固定された宮廷文化の王道です。国王の行動がすべて儀式と化す、24時間舞台の上のような生活。そして収入源を求める貴族たちの阿諛追従。そりゃプチ・トリアノンに農場を作ってのんびりもしたくなりますね。 ←プチ・トリアノンです。こっちはヴェルサイユ宮殿。たまに来る分には豪華でいいところですが、ここで暮らせとなれば話は別。   ③民衆文化 民衆文化は普段の自分の周りでも何か片鱗が見えてきそうな内容です。不安から逃れるようにお祭りの時には騒ぎ、情けない男は集団でつるし上げて制裁する。暴力性が垣間見える部分もありますが、なんだ人間ってそんなに変わってないんだなと思えます。庶民本の普及で本が非日常を与える役割を担い始めたと書かれているところは、あぁ古き良き時代が去っていくのだなと郷愁を感じずにはいられません。 ④ブルジョワ文化による統合 本章はわずか4ページです。放埓な財政が生み出した買官制度により宮廷にやってきたブルジョワが、宮廷外にその高度な文化を持ち出していくというところを説明しているのですが、それがどうやって民衆文化と融合して現代文化になったかまでは説明してはいません。そこからさきは読者が調べる課題なのかもしれません。   と以上のように後半は記述が少ないのですが、その直後に参考文献が列挙されています。初学者にやさしい世界史リブレット、とりあえず何から読んだらいいか悩んだときにぜひおすすめのシリーズです。