やあやあ!我こそはロレンス(中略)なり!!!

はじめに お久しぶりです。ニケ月ぶりくらいですかね?   なんか二ヶ月の間に同人誌即売会に二回ほどサークル側で参加していたらいつの間にかこんな時期になっていました。なんか早いですね、時が経つのって   ちなみに9月にも即売会に出る予定です。会場でジークさんと握手だ!!!   そんなことより、動画の話をしよう そうです。動画の話ですよ。   といっても前回は第一次大戦序盤、発言力が無かったばっかりに傍観者でしかなかったロレンス君。 それが今回では、自信のあるアラビア半島でのゆめ作文が思ったより評判が良く、本人は不本意ながらもアラビア半島へ行くって感じですね。   ちなみに、動画では尺の都合でほとんど触れていませんけれど、ロレンスがアラビアでフサインの息子たちに会っている間、どっかのカエル国家が虎視眈々とアラブの土地を狙ってたり狙ってなかったりするんですよね。 そして、そんなカエル君の右手には悪名高き英国三枚舌外交の産物「サイクス・ピコ協定」が……   この時期になってくると同盟国である英国ですら眉を顰めるほどフランスのアラブに対する領土欲が露わになってきます。なんせ本土の北部がジャガイモ国家と地下足袋だけになって泥遊び(総力戦)してたら砲弾や毒ガスまみれでもうめちゃくちゃですからね、その補填としてオスマンの土地を欲しがったのでしょう。知らんけど。   そのせいでロレンスもなかなかに妨害されたりされなかったり……(ここら辺も動画に出せたらいいな。多分無理)   そんなわけで、恐らく次回にはロレンスの解説動画も完結になる予定です!   ……終わるよね?   終わらなかったら7月も画面の向こうでジークさんと握手だ!!!!!

歴史総合について

2022年度から学習指導要領が大きく変わったのはご存じでしょうか?新しい指導要領ではすべての教科に「主体的・対話的深い学び」が重視され、歴史分野では「歴史総合」が必修化されました。 中学、高等学校において社会科、地歴科は「暗記科目」であると考えられてきました。この歴史=暗記科目から脱却するのために近現代の世界史と日本史を統合して「歴史総合」が生まれました。この教科では知識を学ぶだけではなく、知識を活用して歴史的思考力を身につけさせることが求められています。 歴史総合の教科書では、最初の章において「近代とは何か」という問いが設定されています。皆さんにおいて、近代というのはどのような時代だと思いますか?色々な観点があると思いますが、私は時間という概念が大きく変化した時代だと思います。今日、私たちは時間に縛れています。学生は授業時間、社会人は就業時間を意識して生活を送っています。それは、工業化が進み、時間規律を重視した労働慣行が成立したことが背景にあります。そして、この変化には学校教育も大きな役割を果たしてきました。 明治時代の小学生徒心得には次のように書かれています。「第二条 毎日参校は授業時限10分前たるべし。第七条 もし授業の時限に後れ参校するときは、みだりに教場に至るべからず。遅刻の事情を述べて教師の指示を持つべき事」 「時限に後れ参校する」というのは、今風に言うと「遅刻」するということです。つまり、労働条件の変化、学校制度の進展などを通じて、時間規律が強化されて、その結果「遅刻」をするという概念が生まれたのです。 さて、長くなってしまいましたが、これからも進化を続ける世界史ベータを今後ともご贔屓のほどよろしくお願いします。

男いのっち一人旅! in 鎌倉 その3(お墓参り編)

さあ前回のブログ(リンク)の続きです! 約1か月ぶりの続編投稿になってしまい大変申し訳ございません💦 「鎌倉弾丸旅行記」は今回がラストになります!✨   「鶴岡八幡宮」の正門をくぐると正面に広がっているのは参道にあたる「若宮大路」です(何故か写真紛失という大失態💦)。 因みに大路の中央、一段高くなっている歩道は「段葛(だんかずら)」。頼朝が妻・政子の安産祈願の為に御家人たちに築かせた道が原型になっているそうです。   因みにこの「若宮大路」、ただの一本道というわけではなく、八幡宮側に近づくにつれて「道幅が狭く」なっております。「遠近法」を利用して実際以上に距離を長く見せているとか。ほえ~   それはさておき、一旦八幡宮の東側に徒歩で向かいます。「頼朝時代の御所(大倉幕府)」があった方向ですね(現在は小学校になってます♪)。   というわけでまずは「源頼朝」のお墓(いきなりのビックネーム)! 住宅地の奥にある丘の上、そこまで目立つ場所ではなかったのですが、大勢の観光客の方がいらっしゃってました。大河パワー恐るべし!✨   更にその付近には「北条義時」や「大江広元」など御家人たちのお墓がありました! 反抗的な御家人たちが多い中(ドラマ設定)、頼朝を献身的に支えている御二方は、今でも鎌倉殿の側で眠っているんですね♪ 主人公の義時は勿論、広元もドラマ終盤まで活躍する重要人物ですのでこれからの活躍に注目です!      さあ、次は八幡宮を挟んで反対側(西側)に徒歩で移動します。そろそろ足が悲鳴を上げ始めました…💦   次の目的地は鎌倉五山の第三位「寿福寺」です。 「北条政子」が、頼朝の父「源義朝」の館があった場所に建てた禅宗のお寺です。(例によってコロナの為に御朱印は頂けませんでした…) このお寺には「北条政子」とその次男「源実朝」のお墓があります(裏手の山腹)。頼朝と違う場所にお墓があるのはちょっと意外でしたが、息子と一緒なら寂しくないでしょうね。 頼朝夫婦は八幡宮を挟んで東西から今でも鎌倉の街を見守っているのでした(しみじみ)。     最後に徒歩で向かった(本日最長の距離)のは、有名な「鎌倉大仏(高徳院)」です。 鎌倉を代表する寺院ですが、実は誰がどういった経緯で建立したのかよく分かっていないミステリアスなお寺だったりします(鎌倉時代に建てられたのは間違いないようです)。 あと現在大仏様は野ざらしですが、かつては大仏殿があったそうです。    この時点で足は限界、時間も迫っていましたので今回の「鎌倉弾丸旅行」は終了となりました💦(心地よいクタクタ)。   それぞれの場所は巡って歩き回る間にも「和田義盛」や「畠山重忠」など大河ドラマにも登場する人々ゆかりの地を偶然発見するなど、街中至る所が歴史を感じる場所で、九州民の私としては非常に貴重で楽しい時間を過ごすことが出来ました♪✨   実は、今月末に再び関東への出張が決まっておりまして、その際はまた「旅行記」のようなもの執筆できればと思っています。   それでは今回はここまで。   最後までお読みいただきまして、本当にありがとうございました!✨ 〇(><)  

道真第二回の参考文献と、寛平遣唐使問題の諸説

文人官僚の限界を超えて♪ 道真は来たんだよ  おひさしぶりです。「みっちざねにしてあげる♪(してやんよ)」という曲(捏造)が頭から離れない※(米印)です。    菅原道真解説の第二回、ご覧いただきありがとうございます(見ろよ、という圧)。  さて、今回は文献紹介と補足解説を行っていきます。前回も言いましたが、私は平安期日本史の専門家ではありませんので、参考程度にしてくださいね。   参考文献紹介 渤海使関連   上田雄(2004)『渤海国 東アジア古代王国の使者たち』講談社学術文庫。 ※文庫本なのでお手軽。渤海使の基礎情報はほとんどこれが網羅しています。ちなみにこれは1992年の『渤海国の謎 知られざる東アジアの古代王国』(講談社現代新書)を元にした本なので、どっちかが見つかればぜひ読んでください。   古畑徹(2018)『渤海国とは何か』(歴史文化ライブラリー 458)、吉川弘文館。 ※渤海の国自体についてはこれがおすすめです。ただ、渤海使についてはそこまで詳しく扱っていないのです……   上田雄(2002)『渤海使の研究 日本海を渡った使節たちの軌跡』明石書店。 ※専門書です。各回の渤海使(違期入朝含む)を詳細に記しています。ちなみに都言道くんの下心もこれのおかげで知りました。   寛平遣唐使問題 渡邊誠(2013)「寛平の遣唐使派遣計画の実像」『史人 5号』広島大学大学院教育学研究科下向井研究室。 ※論文です。増村~石井の議論がよくまとまっています。寛平遣唐使問題に興味を持った方はまず読んでみてください(リポジトリに公開されているので無料で読めます)   石井正敏著、村井章介、榎本渉、河内春人編(2018)『遣唐使から巡礼僧へ』(石井正敏著作集 第二巻)、勉誠出版。 ※石井の論文集です。「いわゆる遣唐使の停止について」と「寛平六年の遣唐使計画について」、それから「寛平六年の遣唐使計画と新羅の海賊」が寛平遣唐使問題を扱っています。「いわゆる~」は「其日」問題、「~新羅の海賊」は「新羅賊」説まわりの否定なので、もし個別に論文を探すなら「~計画について」(道真の二つの文章の読解)をどうぞ。   増村宏(1988)『遣唐使の研究』同朋舎出版。 ※結構古いですが、だいぶ先進的な議論を行っています。ただし、他説批判がメインなので増村自身の説は見えにくいかもしれません。だいたいの古い説は「増村を見ろ」で終わります(え   滝川幸司(2019)「菅原道真と遣唐使(一) 『請令諸公卿議定遣唐使進止状』『奉勅為太政官報在唐僧中瓘牒』の再検討」『詞林 65』大阪大学古代中世文学研究会 滝川幸司(2020)「渡唐の心情は詠まれたのか 寛平の遣唐使と漢詩文」『語文 115』大阪大学国語国文学会。 ※滝川先生の論文です。直前までこれに気づかずに作ってしまって、「まぁどうせそんな変わらんやろ」と読んでみたら論理でぶん殴られてしましました。上のやつはweb上で公開されてますので、ぜひ読んでみてください。   道真の再検討要請の理由の諸説(紹介しきれなかったもの) 鈴木靖民の「新羅賊」説  石井らが否定。そもそも、史料を素直に読めば道真が理由にしたのは「唐に着いてからの困難」だったはずなので、唐に着く前(渡航)を問題にするのはナンセンスだと私は思う。   「大義名分説」や「社会経済説」などなど。  増村によくまとまってるからそっちを読んでください……でよろしいでしょうか。早期の説なのでちょっと……   「藤原氏陰謀説」  藤原氏が道真を遠ざけようとして、というのは明らかに無理筋。ただし、個人的には、本編で述べたような「意思疎通不足」は陰謀に求めることもできなくはないのかなと思ったり。というのも、道真は結構全方面から嫌われていたので(悲しい)、宇多の近臣に道真を疎む者が居てもおかしくはない。ただ、あえて陰謀があったと考える必要性は薄いと思う。   ほか、私の個人的な雑感  滝川は遣唐使再検討の根拠は「中瓘の録記」と断じているが、個人的には早計な感がある。道真が個人的に持っていた伝手を辿ったり、(場合によってはあまり公にできない)商人などから得た情報をもとにしていた可能性は考えられる。その場合は森説に近いものがあるのかもしれない。  ただ、中瓘録記未読説を取らないなら、中瓘の録記で既に渡唐停止を勧めているわけで、それ以上に何か決め手となる情報とは一体なんぞや、という疑問は残る。やはり本編で出したようなコミュニケーション不足に求めた方が無難な気が……しかし根拠はないわけで。やっぱりわからん。        今回は寛平遣唐使問題をかなり深堀りできたと思います。たぶん最新研究とそこそこ同じ景色が見られているのではないかと。ただ、そのせいでちょっと次回の目途が立っておりません……6月に投稿できたらいいなぁ……(そして今回に比べたら薄味でも許して下さい。むしろ今回が異常なんです)

男いのっち一人旅! in 鎌倉 その2(「鶴岡八幡宮」周辺編)

さあ前回のブログ(リンク)の続きです! 本当は前後編にまとめようと思っていたのですが、後編が長くなりそうでしたので「全3回」でお届けすることにしました♪💦 北鎌倉駅から「巨福呂坂(縁起良さそうだけど、鎌倉幕府滅亡時の激戦地)」を徒歩で超え、ついに鎌倉の中心といっても過言ではない「鶴岡八幡宮」に向かいます!   それにしても学生の集団の多いこと多いこと(修学旅行?)。 大河ドラマが放送中ですし、人気のスポットなのでしょうか? 彼らの中から新しい「歴史好き」が生まれるといいですね♪✨ さあ、そしてあの「鶴岡八幡宮」(公式HP)です! 鎌倉を発展させた「源頼朝」はこの鶴岡八幡宮の社殿を中心に「鎌倉の街路」や「幕府の中枢」を整備していきました。つまり文字通り「鎌倉の中心」というわけです。   因みに鶴岡八幡宮の基になった「由比若宮(元八幡とも、鶴岡八幡宮とは別の場所にあります)」(紹介ページ)を創建したのは頼朝から見て約100年前の先祖にあたる「源頼義」という人物です。   その辺りのお話については下記の拙作動画にまとめておりますので是非御覧になってください(ダイマ)♪ リンク:3分で歴代天皇紹介シリーズ! 「70代目 後冷泉天皇」   早速「世界史べーた(仮)」の更なる発展を祈願した後、境内を散策しました(幸せ)。 そして、今年限りの観光スポットにも足を延ばしました。 それは「大河ドラマ館」(公式HP)です!  八幡宮の境内にあるんですね。✨ 「作中で使用された衣装や小道具」、「ドラマ制作の裏側を紹介するムービー」など大河ドラマファンなら興奮必至の展示の数々。九州民の私が2年連続で「関東の大河ドラマ館」を訪問することが出来るとは夢にも思いませんでしたが、素敵な思い出になりました。✨ 今年鎌倉を訪れる予定がある方は是非足をお運びください♪   しかし、「鎌倉弾丸旅行」はまだ中盤。 名残惜しいですが、これからドラマにも登場する人々ゆかりの地を歩いて回らねばなりません!💦   というわけで次回は「お墓参り」編です! (そんなタイトルでいいのか💦)

菅原道真解説の参考文献と、参考文献じゃないけどおすすめな本

道真好きによる道真好きの道真好きのための……  はじめまして、道真を千と二百年前から愛してる(アクエリオン並感)※(米印)です。    菅原道真解説の第一回はいかがでしたでしょうか。  さて、今回はまず純粋におすすめな本と、参考文献の中でとくに紹介したいと思った本を載せておきます。  ただし、断っておきますが私は平安期日本史の専門家ではありません。あくまでも参考程度にどうぞ。 純粋におすすめな本 灰原薬『応天の門』(BUNCH COMICS)、新潮社。  comicです。漫画です。でもこれがほんっとーに良いんだわ。  私の道真イメージドンピシャだし、在原業平なんてそういやこの男に口説かれたわって記憶が捏造されるレベルだし、島田忠臣ですらほのかな薄暗さがよく似合ってるし、紀長谷雄もドリブルがうまい。  紀長谷雄の扱いだけは若干気になりますが、これが将来あんな立派になると思うと目頭が熱くなるのでやっぱり良いかもしれない。  年齢性別種族生死問わず全存在が読んでください。    本来は「リンクはちゃんと用意するよ~」って言われてるけど我慢ならんのでもう貼っちゃいます。  全人類が読む(しなさい)(極度乾燥しながら)   応天の門 1巻(book walkerさんのサイトにジャンプします)       滝川幸司(2019)『菅原道真 学者政治家の栄光と没落』中公新書。  正直これだけ読んでおけばいいんじゃないかな。滝川幸司氏は後述する専門書も書いていらっしゃる方なので、信頼性も十分。それでいてわかりやすく道真を紹介しています。  あれ? 私の動画の存在価値どこ……? となってしまったので、私は「ここに載ってないことを解説してやろう」とか思ってしまったんですね。    その結果がこれ(大量の資料の山)だよ!   参考文献 (以下、文献はそれぞれ年代順に並べています)   漢詩メインタイプ 川口久雄校注(1966)『菅家文草 菅家後集』(日本古典文学大系 72)、岩波書店。 ※ちゃんと漢詩を読むならこれは必須。冒頭の「解説」には川口久雄の道真論が載っている。これだけでも読む価値あり。ただし価格が……   後藤昭雄(1993)『平安朝文人志』吉川弘文館。 ※題の如く、平安期の漢詩について触れている。菅原是善、島田忠臣(この本では「嶋」の字を用いている)、紀長谷雄にもそれぞれ一章を割いていることが特徴的。道真の兄弟についての議論はこの本に大いに助けられた。ただし、このような悪く言えば些末な議論が多いため、全体の流れをつかむというような趣ではないように思う。   小島憲之、山本登朗(1998)『菅原道真』(日本漢詩人選集 1)、研文出版。 ※漢詩がメインの書籍。「はじめに」の議論には見るべきところがあり、また本編では川口以後の研究もある程度反映されている。が、全体としてみれば川口の下位互換という感じが否めない。「お金ないけど道真の漢詩読みたい」という場合には選択肢に入るか。   興膳宏(2005)『古代漢詩選』(日本漢詩人選集別巻)、研文出版。 ※万葉歌人から道真までの漢詩を載せている。菅原清公の漢詩も解説付きで載っていたり。また、道真の師の島田忠臣にも一章を割いている。道真も当然一章が割かれているが、古体詩を取り上げているのは特徴的。平仄や押韻のわかりやすい解説もあり、漢詩の流れをつかみたいという方には勧められるが、道真だけ知りたいという場合には適さないか。   (例外) 文草の会(2014)『菅家文草注釈 文章篇 第一冊(巻七上)/第二冊(巻七下)』勉誠出版。 ※詩以外の文について注をつけている。川口のやり残した仕事を担ってくれるすっごい有能……なのだが、当然一般向けではない。それから巻八以降は出るのでしょうか……     一般書(非漢詩タイプ) 坂本太郎著、日本歴史学会編(1962)『菅原道真』(人物叢書シリーズ)、吉川弘文館。 新装版-1990第一刷。 ※道真研究には必須級の書籍。文体は古めながらも平易で読みやすい。ただし、当然ながら新しい研究などは反映されていないので、その点には注意。… Continue reading 菅原道真解説の参考文献と、参考文献じゃないけどおすすめな本

男いのっち一人旅! in 鎌倉 その1(北鎌倉編)

皆さん、こんにちは「いのっち」です! 今回は初の「旅行記」です♪   実は絶賛関東出張中の私ですが、大河ドラマの影響で「鎌倉に行ってみたい!」と思い立ち、普段あまり使うことがない電車やバスを乗り継いで、人生初の「鎌倉」に行ってまいりました。 (九州民にとって、こういう機会が無いとなかなか行くことが出来ませんから💦) 普通なら「鎌倉駅に到着後、若宮大路を通って鶴岡八幡宮を目指す!」というのが王道なのでしょうが、ひねくれ者の私は敢えて一つ手前の「北鎌倉駅」で下車、歩いて鎌倉の中心部を目指すことにしました♪   ※因みに北鎌倉駅周辺は「山ノ内」という地名でして、室町時代に活躍した「山内上杉氏」の館があった場所です(豆知識)。   最初に訪れたのが駅のすぐ側にある「円覚寺」(公式HP) 元寇の時の執権「北条時宗」が、戦争の犠牲者を供養する目的で建立した寺院です。   鎌倉五山の「第二位」としても有名ですね♪   「九州民としては是非お参りせねば!」と早速参拝しました。 ありがたやありがたや~(因みに私の宗派は「浄土真宗」です。)   次に路線は挟んで反対側にある「浄智寺」(公式HP)に向かいます。(五山の第四位)   … と思ったのですが、その手前に縁切り寺として名高いあの「東慶寺」(公式HP)が!? (豊臣秀頼の娘「天秀尼」が住持を務めたことでも有名ですね)   流石は鎌倉、有名な寺院が歩ける範囲にたくさんあります♪✨(幸せ)   今のところ切りたいような御縁は御座いませんが(むしろくださいお願いします)、折角なのでお参りしました。   因みに浄智寺ですが、コロナのせいで御朱印は頂けませんでした… おのれコロナぁ!!! (# ゚Д゚)   さあ次はいよいよ鎌倉五山の第一位「建長寺」(公式HP) !   時宗の父である「北条時頼」が南宋の禅僧「蘭渓道隆」を御招きして創建した「禅宗(臨済宗)」のお寺です(日本史の御勉強)♪ (高校時代、京都の「建仁寺」とゴチャゴチャになっていたのはいい思い出…💦)   流石は第一位、規模が大きい….(絶句)! 壮大な「三門」を通って「仏殿」でお参りしてきました。 時間が限られていたのが本当に惜しかったです(一ヵ月くらい滞在したい)💦   というわけで、どちらかというと神社に行くことが多い私にとって、立て続けに寺院を参拝する(しかも鎌倉五山のうち三寺を含む)という貴重な経験をすることができた「北鎌倉」でした♪ (因みにこの時点でだいたい約1km歩いてます)   しかし、余韻に浸っている時間はありません!   休む間もなく建長寺を出発、『太平記』や『梅松論』にも登場する激戦地「巨福呂坂」を超え、いよいよあの「鶴岡八幡宮」を目指します!(建長寺から約800m) というわけで、次回「鎌倉中心部編」です♪(続く) (`・ω・´)ゞ

やあやあ!我こそはロレンス動画を作ったZEKE22と言ふ者なひけり!!!

じこしょうかいなんかするよ! どうも、ブログの世界では初めまして。ZEKE22と申します。 最近だと動画の世界では「豊和銃解説の人」Twitterでは「肉屋の人」なんて言われています。つまり要約すると「豊和製の銃を乱射している肉屋」ですね。なんて物騒な奴なんだ。   そんな事は置いておいて、もう少しだけ真面目に自分を紹介していきましょうか。 名前の「ZEKE22」とは中学の頃、とある蛇が潜入ミッションするゲームをプレイする時に英語のニックネームしかつけられず、その頃からミリタリーオタクをやっていた私は「英語なんも分からんし、前にコンビニで買った軍用機の本に乗っていた零戦のコードネームで良いか!」と「ZEKE」と名付けたのです。 「中学のガキならば普通に自分の名前でも付けろや」とか言われそうですが、その頃に一緒によく遊んでいた友人が「自分の名前つけるとかダセエし、何よりネットリテラシーがねえぜ!」と言って名前を変えていたので、その影響を大きく受けた結果ですね。 それから暫く「ZEKE」を使っていた私。ある日とあるロシア企業(最近ウクライナで起きた騒乱で本社がEUに移っていたの知ったけれど)の戦争ゲームをプレイする際、いつものようにニックネームをつけたところ「ZEKEは既に使われてるぜバーカ」と言われ、尾びれに22がついた「ZEKE22」という今のスタイルに落ち着いたという訳です。 ちなみに22の数字は零戦の二二型を意識しています。カッコイイですよね二二型。初期生産の二一型、特徴的な翼端の三二型、戦争末期の五二型系列なんかに比べるとパッせず、人気もイマイチな気がしますが、二一型よりラジエーターが減ってスッキリとし、五二型のように無理に性能を上げるべくゴチャゴチャと排気管が付いているわけでもない、まさに「美しい零戦」は二二型だと個人的には思っています。そんな二二型でも個人的には九九式二号三型20粍機銃に換装された甲型が好きです。翼から突き出た20粍機銃の銃身がとてもエッチで良い……と脱線はこれまでにしときましょう。 とまぁ、つけた理由が適当で「いつかニックネーム変えてぇ」と思っていたのですが、ありがたいことに投稿した動画は再生数が伸び、肉を売りだしたら「ジーク肉」なんて妙なブランド名がついてしまったので、このニックネームとは生涯仲良くしていくんだろうなぁ……なんて思っています。はい。 ……ってかこんなに自分について語ってても良いのかな?他のメンバーの自己紹介があまりにもあっさりしすぎていて不安になるんですけど。 ロレンス動画について語ろうね ……と言っても、ロレンスについて話したいことは大体動画に落とし込んでしまっているので「ロレンスの話が聞きたい?動画見ろや!」となってしまうんですよね。うーんこの。という訳で動画の話をしましょう。動画!トーマス・エドワード・ロレンスですよ!アラビアのロレンス!(謎テンション)   編集時については……あれは難産でした。はい。 なんせ、いつも解説に扱っているのは兵器等の「物体」で「人物」について深堀した解説って今回が初めてなんですよね。「物体も人物もさほど変わらんやろー!」と私自身もタカをくくっていたんですけれど、案外勝手が違う。 兵器等の人工物は、見たり読んだりしていると「設計者の意向」というのがある程度推測できるのですが、人物だとそういった意向が少し見えにくい。なんなら「何してんのお前」という部分もあるんですよ。 人工物なら「これは、謎です」と言えば済む(済ますな)のですが、人物は「どこまで心理を読み解けばいいんだこれ……」と悩んでしまいました。ひとつに「解説」といってもいろいろ違うんだなと思い知らされた瞬間でした。 まぁ、来月も似たようなことを書くのでこの辺りにしておきましょう。では、来月にまた。

フィリップス曲線くん『おはよう!!』 私『寝てろバカ!』 という話

インフレと物価について ※若干の時事ネタを含みますが、政治的な主張を含んでいるわけではありません。どうかその点をよく理解して、視野を明るくし、共感から離れて見てください(テレビのテロップ並感)。    現在、インフレがアメリカで大きな問題となっています。1月のCPI(消費者物価指数)は前年同月比で7.5%も上昇しました。少し前までは、このインフレは「transitory」(一時的なもの)と言われていましたが、どうやら一時的では収まらなさそうだ、という見方が大勢になってきたようです。  「いやいや、そんなツマラナイ話はいいから、歴史の話をしなさいよ」と思ったあなた。申し訳ない。しかし、ちょっとばかり歴史とも絡んできますから、もう少し我慢してください。  それは「フィリップス曲線」です。 フィリップス曲線は ぐうぐう ねむっている  フィリップス曲線とはなんぞや、という話を少ししましょう。これは「失業率と物価上昇率」または「失業率と(名目)賃金上昇率」の間にある関係を示した曲線です。ここで物価上昇率と賃金上昇率をあげているのは、ふつう、この2つは強く相関するためです。以後は物価で統一しましょう。  横軸に失業率を取り、縦軸に物価上昇率を取ると、負の相関(すなわち右下がりの関係)があらわれることがわかっています。こういうことを言うと数学者に怒られますが、形状としては反比例の曲線をイメージするとわかりやすいと思います。  つまり、失業率が下がると、物価が上がってしまい、インフレになるのです。経済学者は「トレードオフ」という言葉が好きなので、この関係を「失業率とインフレのトレードオフ」とか言ったりします。あっちを立てればこっちが立たず。人生はだいたいそんなもんです。      ところが!  最近、「フィリップス曲線のフラット化」が指摘されるようになりました。フラット化というのは、文字通り平らになってしまうということです。横たわる直線をイメージしてみてください。そう、失業率が下がってもインフレにならないのです!  じゃあいくらでも失業率を下げられるじゃないか! そう思った時期が私たちにもありました。 フィリップス曲線は めをさました!  みんなが「平ら」とか「絶壁」とか言うから、フィリップス曲線くんは目を覚ましてしまいました。お前らのせいです。あーあ。    冗談はさておき、事実として、アメリカはインフレになってしまったのです。失業率は3%台まで改善しましたが、物価は上がりました。もちろん、賃金も上昇しています。フィリップス曲線はフラットではなくなってしまいました。    ここで、当然疑問が出てきます。「なんでインフレになったの?」ということです。あるいは質問を変えても良いでしょう。「なんで今まではインフレにならなかったの?」と。    残念ながら、どちらの問いにも、経済学者は断定的には答えられません。  物価はとにかく難解なのです。いまだに経済学者は物価のことをよくわかっていません。なにせ、2020年の段階では「これはデフレになる」と言われていたのですから。現実は皆さんがよくご存じの通り、インフレになっています。  もっと言ってしまえば、「フィリップス曲線のフラット化」の原因として、経済学者たちはたびたび「インフレ予想」を話題に上げていました。簡単に言ってしまえば、「インフレになると思っていないからインフレにならない」という話です。それなら、むしろ「デフレになる」と言っていた今回は、どうしてインフレになったのでしょうか。わからないことだらけです。    けれども、推論することはできます。今回はその手掛かりの一つとして、歴史上のインフレについて見てみましょう。 そう、ようやく本題なのです  もっともわかりやすいインフレの例は、江戸末期の万延貨幣改鋳でしょう。  背景をちょっとだけ説明すると、当時は金銀比価(金と銀の交換比率)が日本と外国で違ったため、その差を利用して儲けることができたのです。これでは日本国内から金が流出してしまいます。そこで、幕府はやむを得ず金貨(小判)をおよそ1/3の価値(量目)まで下落させる改鋳を行いました。これで流出の危険は去ります。  ところが、ちょっと思い出していただきたいのが、江戸期の金貨は計数貨幣であったということです。金貨の価値が下がろうと、1枚は1両と決まっています。さらに、このときの幕府は、改鋳をスムースに進めるため、市中の旧金貨1枚と新金貨3枚をただちに交換し、差額(出目)を懐に入れたりはしなかったといいます。つまり、市中の貨幣量がいきなり3倍になってしまったのです。  貨幣で買えるもの(たとえばお米とか)の価値は変わらないのに、貨幣だけが増えてしまえば、当然貨幣の魅力は下がります。したがって、物価は上がり、猛烈なインフレが起きました。      次の例を見てみましょう。第二次世界大戦後の日本に目を向けてみます。  このとき、いわゆる傾斜生産と復興のために、復興金融金庫(以下復金)は莫大なお金を市中に供給しました。有名な「復金インフレ」です。  正直なところ、このインフレについての解説はほとんどこれで済んでしまうのですが……ひとつだけ付け加えたいことがあります。というのも、実は復金が設立される前から既にインフレははじまっていたのではないか、という議論があるのです。これは復金では説明できません。  しかし、その時期にインフレが起きていたとしても、原因はかなりはっきりしています。馬場財政以来(高橋財政以来ではないか、という指摘もありますが)無頓着に発行され続けた赤字国債の日銀引き受けです。やはり莫大なお金を市中に供給していたものが、戦後になって統制経済がゆるみ、顕在化したというのが今のところの定説です。結局、その議論の結論も復金とほとんど同じ、「市中でお金がだぶついた」ということになります。      最後の例は私たちにもなじみ深い、「狂乱物価」です。 (また日本か! という突っ込みはご勘弁を……)  この例は、一見今までの事例と異なるように思えます。私たちは「オイルショックによって狂乱物価が起きた」という文脈で語りがちです。たしかに、石油製品(トイレットペーパーなど)は、当時大きな問題となりました。ところが、よくよく調べてみると、石油製品以外も値上がりしていたとわかってきました。これはオイルショックでは説明しきれません。  ひとつの説として、ここでも「市中でお金がだぶついた」のではないかという指摘があります。田中内閣の列島改造や、ニクソンショックからの一連の通貨混乱の中、金融緩和が続けられたことなどによって、市中のお金がだぶついたという議論です。 物価ちゃんは一筋縄では攻略できない  さて、ここまで3つの例を見てきました。どの例も、「市中のお金がだぶつく」というのが原因になっていそうだ、ということがわかりますね。インフレになったのは、市中のお金がだぶついたからで、インフレにならなかったのは市中のお金がだぶついていなかったから。そういう説明ができそうな気がしてきます。  現在のアメリカの場合なら、コロナ禍の対応でかなりの財政支出を行ったことや、それまでずっと行って来た金融緩和(単純に言えば、市中のお金を増やすことです)が原因になるでしょう。    ところが、実はこれだけでは不十分です。市中のお金がだぶつくことが原因だとしても、どうにもインフレまでの間には時間的ラグがあるように見えます。  赤字国債の日銀引き受けは戦前から行われていましたが、インフレが問題になったのは戦後です。田中内閣がはじまったのは「狂乱物価」よりも前です。現在のアメリカの場合も、新型コロナウイルスがcovid“19”と言われるように、コロナ禍のはじまりはもっと前です。  個別に説明のしようはありそうですが、もっと簡素にモデル化できなければ、経済学者は「物価がわかった」なんて口が裂けても言えません。  もちろん、ラグがまったくないという主張もできるでしょう。たとえば「あるラインを越えたらインフレがはじまる」という考え方です。しかし、その「あるライン」が明確でない以上、やはり問題は残ります。  ちなみに、この問題は上記の説明にも言えます。「だぶつく」が明確に数値化されなければ、経済学者は不満顔のままなのです。    しかし、わからないことに何かしらの解釈をあてて、モデルを作ってゆくのが経済学者の仕事でもあります。今回ご紹介したフィリップス曲線はその一つです。そして、今回は起き上がってしまった理由に「市中のお金がたぶつく」という解釈を与えました。… Continue reading フィリップス曲線くん『おはよう!!』 私『寝てろバカ!』 という話