おひさしぶりでっす。フォンスティーヴ(タコP)です。 大分間が空いてしまいましたね……。 さて、早速前回の続き……と行きたいところなのですが、これを書こうとしたちょうどその時、私の元に衝撃的なニュースが飛び込んできました。あの日本が誇る大指揮者、「小澤征爾」様がご逝去されてしまったと……。 ということで久々の執筆なのですが、少々話題を急カーブさせ、今回は先日お亡くなりになった小澤征爾さんについてお話ししようと思います。 ※この記事には独断と偏見、主観的意見が多分に含まれます。ご了承ください。 先日の小澤征爾様の訃報はネットニュースやメディアでデカデカと掲載されたので目に入った方は多いと思いますが、その中ではそもそも小澤征爾様が何者なのかご存知ない方もいらっしゃったと思います。 小澤征爾(以下敬称略)自体、主に20世紀に活躍された方で、近年では癌の影響であまり表舞台に姿を現していなかったので、おそらく昨今の10代20代の方々は特に知らない方が多いと思います。 小澤征爾は1935年に誕生した日本の指揮者で、おそらく近代日本音楽史の中で最も偉大な人物のうちの1人です。 彼はその生涯で日本人としての様々な偉業を成し遂げていますが、その中で特に偉大なものはやはりニューイヤー・コンサートの指揮でしょう。 クラシック音楽の本場であるオーストリア、ウィーンでは毎年元旦に「ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート」と評してコンサートが開かれています。 元旦の「ニューイヤー・コンサート」という名目ではウィーンだけでなくヨーロッパ各地、それこそ日本でも行われていますが、その中でもウィーンフィルニューイヤーコンサートだけは別格で、その場に指揮者として呼ばれるということはクラシック界の中では最高峰の名誉として扱われます。 そして、今までの歴史上そのコンサートに呼ばれた日本人は1人しかおらず、その人こそが「小澤征爾」なのです。 また、それと同じように数十年にも及ぶ長い伝統を誇るフランスのブザンソン国際指揮者コンクールでも日本人として初めて優勝。またドイツやアメリカなど、世界の様々な機関から勲章やメダルを授与されています。現代でも世界で活躍する日本人指揮者は多くいますが、これほどの功績を持った日本人は未だに現れていません。 また、ナチス政権のドイツを生き抜き、20世紀最高の指揮者とも名高い「ヘルベルト・フォン・カラヤン」、同時期のアメリカに生まれ20世紀のクラシック業界の最先端を走り常にリードしてきた「レナート・バーンスタイン」といった偉大な指揮者たちとも親交が深かったことも理由の一つに数えられます。 昭和当時の日本の音楽文化を西洋と対等まで押し上げた立役者の1人だと、筆者は考えます。 小澤征爾様、約半世紀、ありがとうございました。 それではみなさま、ご拝読ありがとうございました。
Category: 日本
『葵徳川三代』はいいぞ。(おすすめ大河ドラマ紹介 第5回)
※とある大河ドラマの紹介文です。ネタバレ注意! こんにちは、いのっちです! お久しぶりです! 何だかんだで2023年も終わりが見えてきましたね。 登録者数も1900人を超え、年末年始には投稿祭「革命祭」を開催と益々勢い盛んな「世界史べーた(仮)」をどうぞこれからもよろしくお願い致します! さて、今回も好きな「大河ドラマ」の御紹介をさせて頂きたいと思います(今回で5回目)。 過去ブログはこちら ⇒ 第1回「草燃える」 第2回「花神」 第3回「翔ぶが如く」 第4回「毛利元就」 今回は、現在放送中の「どうする家康」に因んで、「徳川家康(演:津川雅彦さん)」とその子の「徳川秀忠(演:西田敏行さん)」、そして孫の「徳川家光(演:尾上辰之助 [現・4代目尾上松緑]さん)」の親子三代が主人公を務める作品『葵徳川三代』(2000年[平成12]放送)を御紹介します! 余談ながら、筆者が初めてリアルタイムで観た大河ドラマです (世代がバレちゃう💦) 太閤・豊臣秀吉の死から始まり、「関ケ原の戦い」「大坂の陣」などの戦乱を経て「江戸幕府」が盤石になっていく時代(約40年間)を描いた作品です。よって前半は華々しい合戦シーンがある一方で、後半は幕府や朝廷を舞台にした政治劇が中心となります。 主役の津川さんや西田さんたちをはじめ、多くのベテラン俳優がキャスティングされていることでも有名ですね(当時は「老人大河」と揶揄されたとか💦) 本作の見所は何といっても映画並み(億単位)の予算を投じて撮影された「関ケ原の戦い」でしょうね♪(「どうする家康」ももうすぐ関ケ原だ!) 現在でも他の大河作品や歴史番組にも流用されている迫力満点の合戦シーンはまさにNHKの本気といった感じです。 九州出身の私としては、やはり「島津の退き口」のシーンはワクワクしますね♪ (史実なのかは存じ上げませんが) あと、語り部が有名な「徳川光圀(水戸黄門)(演:中村梅雀)」というのも面白いですよね♪ (「今宵も、お馴染みの顔でござる」のフレーズは癖になる) 歴史の研究者である彼が、祖父(家康)や伯父(秀忠)の業績を視聴者に紹介していくというのが本作品の基本的な構成になっています。 知名度が高いだけではなく、学問に精通しており、何より家康たちの時代から離れすぎていない彼が語り部に選ばれたことはまさに適材適所といえるでしょう。 (物語の終盤では彼自身が誕生するエピソードが描かれています。) まあ、本作の光圀は「サッカー」や「ホームラン」「スキャンダル」「プライバシー」など外来語をここぞとばかりに多様する一方で、「関ケ原の合戦の前哨戦」や「父親(徳川頼房[水戸藩の祖])の誕生シーン」に自ら顔を出すなど時空を超えて縦横無尽に駆け回るコメディ担当なんですがね(笑) これは本編がガチガチの「武家ことば」や「公家ことば」で固められているため、歴史に詳しくない視聴者が置いてけぼりにならないよう配慮したからだそうです。 温度差が凄い。 因みにまたまた余談、光圀の側にはこれまた有名な「助さん・角さん」のモデルとなる二人が控えているのですが、彼らは「女性」が演じています。天下泰平の時代が続いた結果、武士たちも華奢になった事とを表現するためだとか。 温度差が凄い。 さて本編に話を戻しますが、今作の中心人物(というか実質的な主人公)といえばやはり何といっても「二代将軍・徳川秀忠」でしょう。 本作は、説明不要の有名人である父親の徳川家康に比べると影が薄い彼の成長物語と言えます。 実際、ドラマ序盤ではどこか頼りなく迂闊さが目立った青二才といった感じでしたが、父や家臣たちの薫陶を受けながら徐々に身内や重臣、朝廷や大名にも一切容赦しない強かな天下人へと変貌を遂げていきます。(家族想いの面では一貫していましたが)… Continue reading 『葵徳川三代』はいいぞ。(おすすめ大河ドラマ紹介 第5回)
空母機動部隊のなおしかた。(日本海軍の場合)前編
何もしてないのに機動部隊が壊れました。 1942年6月5日、日本海軍はミッドウェー海戦において空母四隻を失う大敗北をしました。 この敗因は、米軍が暗号を解読したことによる待ち伏せだったのですが、日本海軍は「攻勢に使える手札が大きく減った事」と「米空母部隊を撃破しない限り作戦行動が不可能になる」という点で大きな衝撃を受けていました。 なにせ、本海戦も前のポートモレスビー攻略作戦も米空母部隊の反撃により頓挫しており、これを撃破してしまえばそもそも待ち伏せを受けることもないという考えに至ります。 この時点では、後年に言われるような「攻勢から守勢に変わった転換点」と日本軍は考えておらず、あくまで「攻勢」を諦めていなかったのです。 その為、以後の日本海軍は「待ち伏せする米空母部隊の排除」を念頭に置いた対空母戦に特化した艦隊編成や搭載編成へと変わっていくのです。 さぁ、空母を緊急で増産しませう。 ミッドウェーでの敗戦で海軍は空母の緊急増勢計画を研究し、⑤計画等既定の軍備計画修正の中に含められることになり『戦艦、超甲巡の建造は全て取りやめ、航空母艦の建造を優先する。軽巡洋艦の建造隻数を減少し、駆逐艦、潜水艦、掃海艇、海防艦、駆潜艇の建造を大幅に増加する。』という内容の改⑤計画に改められていきます。 この改⑤計画で新造される空母は 5021号艦(改大鳳型)5隻 302号・改302号艦(雲龍型)13隻 となっていました。 ですが、空母の新規建造は最低でも2年の年月を必要とし、今すぐに空母が欲しい現状では即効性に欠けました。 それらに対し、比較的短期間で戦力化が望めそうだったのが使い道のなくなった水上機母艦・甲標的母艦を軽空母に改装することと、艦爆による先制攻撃の母艦として低速戦艦を改装することでした。 軽空母は、当時すでに飛行甲板の狭さから現行の機体を運用するのがやっとであり、次期新鋭機(彗星や天山など)の運用は困難なのは火を見るよりも明らかだったのですが、上層部は現状の対空母戦に対処できればいいと考えていたのだと思われます。 まぁ、その結果、軽空母が空母部隊に増えていくことで現地部隊は扱いに困ることになるのですが、それはまた別のお話。 さらに言うと、使い道がないと思われていた甲標的母艦が、直後のガダルカナル島輸送作戦で一番必要とされていた高速輸送艦の要件を満たしており、投入の機会を空母改装により逸したのもまた別のお話。 さぁ、ある物で機動部隊を再編しませう。 1942年6月12日に軍令部に出頭した源田実中佐はミッドウェー海戦の戦訓も取り入れた空母部隊再建案を提出します。 その内容は、一個航空戦隊の空母を大型空母2、小型空母1とし艦戦、艦爆の搭載数を増加させ代わりに艦攻減らすというものでした。 小型空母は主に艦隊の防御を担当し、大型空母を攻撃に専念させることを目的としており、空母の絶対数が不足している現状で使い道の限られている二線任務に割り当てられていた小型空母を艦隊で活用させようとしたのです。 また艦爆の増加は1939年頃の編成にあった機動航空隊の任務である敵機動部隊を先制攻撃し、飛行甲板を爆撃によって使用不能にするという方針に回帰した物でした。 また、戦前の艦隊決戦構想の最終目標であった米戦艦部隊の撃破は開戦劈頭の真珠湾攻撃により達成されており、日本の戦艦部隊はこの時にはすでにその存在意義を失いつつありました。また、艦隊決戦構想では空母部隊、巡洋艦部隊が前衛として進出し、決戦の障害となる米空母部隊を撃破した後に戦艦部隊同士の決戦に臨むといった方針でしたが、ミッドウェーではそれが逆に仇となり、航空決戦に敗れ制空権を喪失したために連合艦隊は戦艦などの有力な戦力を持ちながら撤退を余儀なくされただけでなく、その後の敵航空部隊の追撃に苦しみました。 その結果、当然の帰結ではありますが艦隊決戦のメインとなった対空母戦の艦隊編成として、巡洋艦部隊を進出させ、その後方に空母部隊を配置して米空母部隊を攻撃するという編成になり、たとえ先制攻撃を受けたとしても米空母艦載機の攻撃は前衛で吸収し、その間に後方の空母部隊の攻撃隊が米空母を叩くという構想になっていきます。 そして「艦隊決戦の主力艦隊」であった第一艦隊は解体が進み、伊勢、扶桑型の戦艦四隻は航空戦艦への改装が検討され、艦隊決戦の秘密兵器であった重雷装巡洋艦の大井と北上は南西方面艦隊への輸送作戦用として転出していくことになります。 こうして、戦前に日本海軍が夢見た「大艦巨砲主義による艦隊決戦構想」はここに崩壊したのでした。 そしてこの「航空機主体による艦隊決戦構想」がそのような結果を迎えたのかは次にお話することにしましょう。
アメリカの裁判所について
お久しぶりです。せるヴぁんだです。今回のブログ担当ということで、「アメリカの裁判所」について徒然なるままに書き散らしたいと思います。 アメリカ「合衆国」というちょっと変わった国 The United States of America, 略してU.S.A。一昔前(?) に同タイトルの曲が流行りましたが、日本人としてよくよく考えてみれば、アメリカという国は奇妙な国家形態をしています。日本の場合、「国」と言えば日本国そのもの、その下の行政単位は県、市、区、群、町…というように刻まれていきます。(道州制万歳!) 一方のアメリカは、いわゆる連邦制国家なのです。2023年現在、全部で50州を抱える国ですが、この「州」という存在がいささか厄介なのです。おそらく、多くの人が州=県のようなイメージを持つのではないでしょうか。愛知県豊田市≒ミシガン州デトロイト市のように。 しかし、実際のところ、アメリカの各州は日本の都道府県よりもはるかに強い権限を持っています。なんたって「州の憲法」が作れてしまうのですから。(おまけに州兵という州知事直轄の軍事組織まで!そう、某Grand Theft Autoなゲームで手配度が最高になるとやってくる人たちですね)このため、アメリカという国には、連邦政府たる「アメリカ合衆国政府・議会・司法」と、小さな国家とも呼ぶべき、「州政府・議会・司法」が二重で存在しているのです。日本の地方自治体にもそれぞれ議会と行政は存在し、条例も制定できますが、さすがに憲法や法律(※1)は作れません。国の唯一の立法機関は国会のみと憲法で定められています。(第41条) ※1…多数ある「法」の中でも国会で制定された法を特に「法律」と呼びます。 一番の違いは「裁判所」の構造かも アメリカと日本は「三権分立」型の構造をしています。議会(立法)・行政・司法の三すくみですね。そのなかで、議会と行政については、上に見た通り、権限の強弱があるとはいえ、ある程度は似通っています。しかし、司法たる裁判所はまったく違う構造をとっています(なぜでしょうね?)この違いの原因を探るところまではパワーがないのですが(すみません。。。)ここでは組織構造の違いを簡単に紹介しようと思います。 1.日本 日本の場合、司法制度の頂点たる最高裁判所が1つあり、日本を八つの管区に分けて高等裁判所が設置されています。その下に第一審となる地方裁判所・簡易裁判所・家庭裁判所がたくさん存在することになります。このように、最高裁をトップとする単一ピラミッド構造が日本型司法制度ですね。 2.アメリカ アメリカはというと、裁判所も「連邦政府」と「州政府」の2つのピラミッド構造を取ります。アメリカの統治システムは原則として州政府が責任を負い、州政府ではできないことや特に必要とされる場合に、連邦政府に権限があるようになっています。たとえば、合衆国憲法の解釈・適用に関する問題は、州の裁判所ではなく連邦裁判所が審理する権限(管轄権)を持っています。このように、連邦裁判所が管轄権を持つのか・連邦と州いずれの裁判所にも管轄権があるのかなど、個々の訴訟問題の性質によって、どこで裁判するのかが決まります。連邦と州を比べると、連邦の方が力があり、上下関係があるようにも思えますが、州の裁判所システムが連邦の裁判所システムに従属しているようなことはありません。あくまでも「異なる別の裁判所システム」としてそれぞれ独立しており、管轄権の競合があった場合にのみ、個別に調整されています。(たいていは連邦法が優先します) A)州裁判所システム アメリカで提起される訴訟のほぼすべては、州裁判所へと持ち込まれます。州の裁判所システムは各州によって様々であり、特に統一されているわけではありません。基本的には州地方裁判所(District Court/Trial Court)・州控訴裁判所(Court of Appeals/Appellate Court)・州最高裁判所(Supreme Court)の三審制ですが、州によっては控訴裁判所がなく、第一審と最高裁判所の二審制を採る州も存在します。(デラウェア州、サウスダコタ州、ワシントンD.C.など) さらに、州によって憲法や法律の内容、蓄えられた経験(先例となる判例法)も違うため、同一の訴訟を別々の州で提起すると、必ずしも同じ結論や量刑にならない可能性もあります。有名な話では、国際的な企業が準拠法と管轄裁判所(※2)を選ぶ際、アメリカではニューヨーク州とデラウェア州が多いそうです。(デラウェア州なんて何もないのに!)これは、2州が企業紛争に関する豊富な先例を蓄えているからと言われています。 ※2…事件・紛争が起きた時、どの国・州の法律に基づいてどこの裁判所で審理するかということ。 また、アメリカ裁判所制度の最大の特徴と言ってよいのが、「巡回裁判所(Circuit Court)」の存在です。巡回裁判所はその名の通り、管轄する地区をぐるぐると巡回して移動式の裁判をしていたのです。残念ながら今はもう存在しませんが、馬に簡易的な審理台を引かせて、判事が裁判をして回っていたそうですよ。(当時は上等なクッションもなかったので、長時間の移動と審理で判事のお尻が破壊されたとの説も) (画像引用:HJ Erasmus, Circuit courts in the Cape Colony during the nineteenth century: hazards and achievements,Fundamina… Continue reading アメリカの裁判所について
海軍と炭酸飲料のこばなし
海軍さんの嗜好品 戦争において士気などを維持するのに嗜好品は貴重なものでした。なにせ、やる気がない中仕事をしてもなかなか捗らないように、士気が低いと兵士も弱くなるのです。 第一次世界大戦でもフランス軍は、兵士1人につき毎日4分の3リットル(通常のワインの瓶1本に相当)のワインを無料で支給し、イギリス軍も一日一口程度のラム酒を支給して士気の維持に努めたほど。 第二次世界大戦では救国戦闘機のスピットファイアがフランスにいるイギリス軍の為に落下タンクにビールを詰めたり、仕事熱心な米軍のおにいさんが最前線の小島にアイスクリーム製造機を配備したりと……これらは「兵士を甘やかすため」ではなく「効率よく兵士のやる気を出させるため」に用意されたのです。 WWIでガリポリに上陸したフランス軍のワイン そういう意味では、昨今のミリタリーオタクの皆さんが小馬鹿にしがちであるイギリス軍の現代戦車に搭載されている電気式湯沸し器も士気の維持という点では侮れない装備です。敵の砲爆撃の嵐の中でも安全な装甲に包まれた戦車の中で火をたかずに暖かい食事や飲み物が楽しめたり、布の消毒ができたりするのです。皆さんだって冷たいコンビニ弁当ばっかりだと少しは暖かいものが恋しくなるでしょう?それが安全にできるのですごいんですよ。 とてもつおいイギリス軍の湯沸かし器 ……っと少し話がそれてしまいましたね。 それでは士気向上の嗜好品を大日本帝国の海軍さんはどうやっていたのかというと、甘いものでやる気を出させていました。 泊地などではかの有名な給糧艦間宮の間宮羊羹などの甘味の補給が有名ですが、巡洋艦以上の大型艦には自分たちでそう言ったものを作る手段がありました。 それが「ラムネ製造機」です! 海軍艦艇には、火災の時に火を消すために「二酸化炭素消火装置」というものが備え付けてあり、それを転用して「ラムネ製造機」というものを設置したのです。 この装備の設置については戦前からであり、昭和三年の「艦舷「ラムネ」製造機装備の件」という訓令が出されており、横鎮、呉鎮、佐鎮長官あて(舞鎮がないのは、当時軍縮条約により要港部に格下げされていたため)に海軍省大臣官房から 『其府麾下所属ノ既成戦艦、巡洋戦艦、巡洋艦、航空母艦、潜水母艦、給糧艦及其他必要ヲ認メタル艦舷ニシテ「ラムネ」製造機ヲ有セサルモノニアリテハ此際艤装品トシテ装備方取計フベシ 右訓令ス(後略)』 とあり、要約しますと 「横須賀、呉、佐世保の各鎮守府長官は、自分の部下所属で竣工済みの戦艦、巡洋戦艦、巡洋艦、航空母艦、潜水母艦、給糧艦そのほか必要な艦船でラムネ製造機を取り付けていない艦があるのならば、この機会にすべて取りつけるように」 というものになります。ここで駆逐艦や潜水艦等がないのは、ラムネ製造機を設置するにはスペースなどの制約があるからなのでしょうかね?実際に駆逐艦島風や駆逐艦山雲といった艦にはラムネ製造機は設置されていなかったという記述を見たことがあるのでそういう事なのでしょう。 ちなみに火を消すための炭酸ですので、そう無闇に使う事もできません。なので停泊時は「ボンベに入った炭酸ガスを陸上から買って製造」していたそうです。 なおその頃、仕事熱心な米軍さんは大型艦にアイスクリーム製造機を導入しており、米空母艦載機が不時着した際に駆逐艦などがパイロットを回収して引き渡せば、お礼にパイロットの体重分のアイスが貰えたそうな……やっぱり格が違うなぁ……
近代中国研究のススメ
https://youtu.be/EONxJgy2WFc さて、先日私の投稿した↑ 「社会主義の中国伝来」ですが、 取り上げたほとんどの人物が日本に亡命または留学していました。 外国研究の難しさ どんな学問であっても研究をするとなったとき、そこでは積み上げられた先行研究を踏まえた上で、どんなに小さいことでもいいから、その山にプラスすることが求められます。 これが外国の歴史、文学、思想となると難しい。 どんな学問であっても 大抵、日本のことを対象とする学問であれば日本が研究の本場であり、アメリカのことを対象とする学問であればアメリカが研究の本場となるでしょう。 中国研究の場合 中国研究においては、日本が最も研究が進んでいるという時代がありました。 要因をパッと思いつくものをあげると 日本 ・前近代までの漢学の伝統の積み重ね ・近代以後の西洋的な学問の受け入れの早さ ・民主化の早さ 中国(大陸) ・民国期の政治的混乱 ・共産党による言論統制 台湾 ・国民党による言論統制 こんなところですかね。 現在は台湾は言論が自由となり、大陸もかつてと比べるとかなり緩和されました。 大陸の50年くらい前の研究を見ると意味もなくマルクスが引用されていて、初めて見たときは閉口したものです。 さて、いまや日本の中国研究は人も予算も減る一方。大陸の研究成果を見ずに研究することは不可能となりつつあります(多少分野の違いはあります) 日本人が近代中国をやるメリット さて、母国でない国のことを研究する意義という点では、近代中国は穴場なのです。 先述のとおり、重要人物の多くが日本に滞在していました。 では日本でどんな情報を得ていたのか?となると、 明治期の日本語文献を読みこなす必要があります。多様な形式の文語文や変体仮名といった、日本語を母語としていないと(していても)非常にとっつきにくいものを読めなければならないのですね。 日本人であることが、非常にメリットとなるのです。 ところが、日本においては、中国近代は研究者の人数が他の時代に比べて少ないのです。(文学は唐、思想は宋が多いかなと思います。歴史学の方はよく分かりません) 卒論のことをこれから考える中国学徒におかれては、近代にも目を向けていただければと思います。 (私も興味を持っていただけるための発信をがんばります……)
グラント大統領の記念碑を上野へ見に行こう
上野公園の南北戦争スポット!? 読者の皆さんは上野恩賜公園を訪問した事があるでしょうか? 博物館や動物園で有名な公園ですが、このブログを書いている3月末なら桜が見頃なお花見の名スポットでもあります。 しかしこの公園、日本では数少ない(?)米国史を感じられる場所となっています。と言う事で今回は南北戦争を北軍の勝利に導き、戦後に大統領を務めたユリシーズ・グラント、彼の訪日を今に伝える上野公園の植樹碑訪問ブログです。 この記念碑自体への行き方は結構簡単、上野駅公園口から直進して動物園正門の前で左手に見れば到着です。 ただし結構ひっそりした見た目なので、そこは注意かもしれません。記念碑のレリーフは中央はグラントの肖像、左右に英語と日本語で植樹碑設置の来歴が記されています。 (日本語の碑文は塗装が消えかかっててちょっと読み辛い……) グラントと言えば1865年に北部の勝利で幕を閉じた南北戦争で北軍の最高司令官に上り詰め、南軍のリー将軍を破り一挙に英雄となった人物です。その後1868年の大統領選に参戦すると、対抗する民主党の候補を獲得選挙人で大差を付け当選し第18代大統領として8年勤めます。 (彼が任期中に取り組んだ南部の再建も南北戦争後の重要な出来事でした) 1877年に大統領任期を終えたグラントは世界各国への訪問へ出発、1879年には日本を訪問し明治天皇への謁見を行い、足を延ばして日光へも訪れました。そしてこの訪日の際に記念植樹を行った場所の一つがこの上野公園なのです。 ちなみに肝心の植樹した木は記念碑から左に向くと今でも姿を確かめられ、二本のうち左側はグラント夫人による泰山木で、右側がグラント本人による檜です。そして明治時代に植樹された由縁が時代と共に薄れる事を憂いて昭和4年に記念碑が建立されました。 今回の訪問記はこの辺で終わろうと思いますが、有名な文化スポットが並び立つ上野で公園に佇む銅像や記念碑にも、普段は意識しない由緒が見つかるかもしれません。
ヤンデレの道真好きに徹底的に恨まれて眠れない防府天満宮縁起
道真以外道真じゃないの こんにちは、※(米印)です。 ひょっとしたらご存じの方もいるかもしれませんが、実は私、菅原道真が大好きなんです。 それはもう、世界史べーた(仮)で最初に出した動画がこれですもの。 (ただ、一応免罪符として置いておきますが、私はあくまで「好き」なだけで専門家とかではありません。その点は十分ご注意ください) この漢詩……道真のじゃないよね。誰の? さて、そこで問題になるのが海鳥さんのこのブログ記事です。海鳥さんは旅行に際して防府天満宮を訪問されたようでして、その由緒などを載せています。まだ読んでいないという方はぜひぜひ。 天満宮の参拝者が増えるのはいち道真ファンとしてとっても嬉しいことで、去年のくないさんの太宰府天満宮訪問を聞いたときと同じく踊り狂いました。 ところが、落ち着いて肩で息をしながら改めて記事を読んでみますと、そこにはこんな文がありました。 「此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ」 頬を冷や汗がつたいました。「これ、知らない」と。 言葉遣いや音の数からして、和歌ではなさそうです。それなら漢詩か、しかし見覚えがない。「菅家文草」や「菅家後集」に収録されている漢詩なら、見かけたことくらいはありそうなのに…… 瞬間、脳内に死ぬほど愛されて眠れなくなりそうなどこぞのヤンデレがインストールされ、「道真のこと世界で一番わかってるのは私なの! 他の誰でもない、私!」と叫び始めます。いやさすがにそれは思い上がりにもほどがある。ガチ研究者とかに勝つのは無理じゃん。そも専門家じゃないし。ただのファンですら私より上がいくらでもいるし…… ともあれ、脳内のヤンデレ妹(妹要素どこ?)をなだめるために、私はこの文について調べなければならなくなったのです。 道真は優しくてかっこよくて、でもちょっと脚色が多すぎるところはわかってた 最初に元文を確認してみましょう。防府天満宮さんのHPによりますと、「九州大宰府への西下の途中」に、「防府の勝間の浦に御着船」し、「『此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ』」と願ったのだといいます。 つまり、昌泰の変により左遷された際のものと考えるべきでしょう。 あれ? 「御着船」なの? 陸路じゃなくて……? 早速雲行きが怪しくなっていますが、ともあれまずは一般のご家庭にある川口久雄校注『菅家文草 菅家後集』を引っ張り出してみます。 道真の左遷後ですから、もし収録されているとすれば年代的に『後集』しかあり得ません。 しかして、川口本を見る限り、昌泰四年(左遷はその年初)の最初の詩は「自詠」で、 離家三四月 とあるのですが、「離家」(=左遷)から数か月経っていると言っているわけで、これは時期的にも既に大宰府に着いてから詠まれたものと思われます。 実際、他の詩を見てもそれらしいものはありません。したがって、『後集』には載っていないことがはっきりしました。 次に確認すべきは『大鏡』です。大鏡も地味にいくつか漢詩を載せており、有名どころでは「一栄一落是春秋」(一応川口本も載せている)はこちらに引きます。 が、駄目……っ! やはりそれらしきものはナシ。念のため和歌も確認しましたがやはり無い。 ひとまず、脳内ヤンデレ妹は「やっぱり私の知らない詩……」と、お兄ちゃん(道真)の浮気を恨みつつも、自分の記憶違いではないことの安堵をわずかばかり含んだ声色に変わりました。よしよし。この調子で頼むぞ。 でも菅家伝さんって面白いっていうより信頼性がないよね 薄々察していたのですが、やはり『後集』や『大鏡』にはなかった。実はこの辺であのツイートをしています。ヤンデレ妹を必死に抑えながら。 となると、次に見るべきはおそらく菅家伝。なお、「菅家伝」というのは俗称でありまして、基本的には『北野天神御伝』というものがそう呼ばれます。 しかし、残念ながら私のような一般家庭にはそんなものは置いてありません。デカい図書館か逸般の誤家庭を訪ねて見せてもらうほかない。 ちょいと出かけまして、一番参照される(と思われる)真壁俊信校注の神道大系本(『北野』(神社編11))を用意しました。 さて、分厚い本をひっくり返してみた結果は……ない。ここにもない。念のため頭から後ろまで漢詩は全部チェックしたのにそれっぽいものがひとつもない。 脳内ヤンデレ妹はこんらんしている! いや、まぁこれも薄々気づいていたんですよ。防府天満宮の話なんだから防府天満宮の縁起読まなきゃ出てこないかもな~って。なので、読みます。読みました。 用意したのは『防府天満宮縁起集』、ここに『松崎天神縁起絵巻』の詞書が載っています。 で、パラパラめくって漢詩らしきものを探すと……ない、ない!? マジで? そんなの道真じゃない!! ヤンデレ妹がいまにも暴発しそうなのですが、なんとかKOOLになって考えます。 こういうときは元文に戻るのがセオリー。「此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ」ともういっぺん睨めっこをしてみます。 にーらめっこしーましょ。わーらうっとまっけよ。 ……これ、ほんとに漢詩か?… Continue reading ヤンデレの道真好きに徹底的に恨まれて眠れない防府天満宮縁起
『翔ぶが如く』はいいぞ。(おすすめ大河ドラマ紹介 第3回)
※今回は、とある大河ドラマ紹介文です。 ネタバレ注意! こんにちは、いのっちです! いよいよ「23年度(令和5年度)」が始まりましたね。登録者も1000人を突破し、新メンバー(メ塩さん)も加わった新たなスタートをきる世界史べーた(仮)を本年度も何卒よろしくお願い致します! 最近は春らしい陽気が続き、ほんわか過ごしている私ですが、今日も歴史好きになった理由の一つ「大河ドラマ」の御紹介をさせて頂きたいと思います(今回で3回目!)。 過去ブログはこちら ⇒ 第1回「草燃える」 第2回「花神」 今回御紹介させて頂くのは、幕末の動乱から「西南戦争」・「紀尾井坂の変」に至る明治維新の激動と葛藤を主に薩摩の人々の目線で描いた作品『翔ぶが如く』(1990年[平成2]放送)を御紹介します! (放送当時、まだ生まれていたわけではないのですが💦) 本作は前回御紹介させて頂いた「花神」と同様に、司馬遼太郎さんの長編小説『翔ぶが如く』が原作になった作品です。 ただし、明治以降が舞台の原作に対して、ドラマは主人公の「西郷隆盛(演:西田敏行さん)」と「大久保利通(演:鹿賀丈史さん)」がまだ若かった時代から始まっており、「第一部(幕末編)」「第二部(明治編)」の二部構成になっています♪ (大河史上初の『二部構成作品』) 因みに「翔ぶ」という言葉は本来「とぶ」と読むことは出来ません(当て字ですから)。それにも拘わらずこの当て字を使っていることをよく目にするので本作の影響力は計り知れませんね♪ 本作は舞台が九州(「鹿児島」や「熊本」)ということもあって、九州出身の私にとってはかなり身近に感じられる作品です。父も「司馬遼太郎ファン」ですので西南戦争に関する史跡(熊本城や田原坂)をよく一緒に回ったものです。 本作の名シーンとして有名なものは、征韓の是非を議論する会議の場における「西郷と大久保の激論」でしょうね。 遣欧使節の一員として諸外国を視察し新たな国家体制の構築が急務だと痛感した合理主義者の大久保と、その留守を預かる中で新時代に取り残された人々の嘆きや怒りを一身に引き受けてきた情に厚い西郷は、たとえお互いを最大の理解者だと認めてあっていても激しく衝突せざるを得ませんでした。 (両者とも最期の瞬間は共に過ごした青春時代を思い出していました。(泣)) 議論が白熱する中で、普段は標準語を使っていた大久保も薩摩弁(鹿児島弁)に戻り、まるで若かりし頃のように激情をぶつけ合う二人の姿が非常に印象的です。 結局、政争に敗れた西郷は下野(鹿児島へ帰郷)するわけですが、それを告げられた大久保は「赤子にように始末が悪い!」と激怒します。それが二人の別れとなるわけです… かつて同じ夢を追いかけていたはずの幼馴染二人の悲劇的な決別は、「明治維新」という新時代を創造する一大事業の困難さを象徴するものだと思います。 その過程で生じる矛盾や歪みを二人はハッキリと理解しており、西郷に至っては「(新しい世の中を創る為に行った倒幕の戦で)もっともっと人が死ぬべきだった。公家も大名も士農工商全てを焼き尽くして、その焼け跡の中から新しい日本を築くべきだった。(要約)」と今の大河ドラマでは絶対主人公が言えないような「かなり過激なこと」を言っています(戦後の日本を彷彿とさせる台詞ですね)。 様々な役を大河ドラマで演じてきたことで有名な西田敏行さんですが、その懐の深い将器を有する好人物ながら、時に謀略も厭わず狂気じみた革命論を吐露する本作の西郷隆盛役が個人的には一番好きでね♪(会津を有する福島県出身の西田さん的には複雑な役どころだったみたいですが…) 本作には他にも、実務能力や先見性を評価されながらも急進かつ攻撃的な性格が災いして新政府内で孤立、後に反乱の指導者となる「江藤新平(演:隆大介さん)」。野心家で保身のためには同志も切り捨てる冷徹な面がある一方で、厳しい局面においては身分の低い公家から成り上がっただけの度胸・胆力を見せる「岩倉具視(演:小林稔侍さん)」。若い頃は軽率な面が目立ったものの、経験を積むうちに見識高く成長、後に「敬愛する兄・隆盛」と「尊敬する先輩・大久保」との板挟みで苦しむことになる「西郷従道(演:緒形直人さん)」など様々な魅力的な人物が登場しますよ! 是非御自身の眼でお確かめください! それでは今回はここで筆をおかせて頂きます。 これからも機会があったら好きな大河ドラマを紹介していきますね♪ それでは失礼致します! 〇(><)
【呼び名の違い】”儒教”か? それとも”儒学”か? : ついでに”儒家”も
儒教・儒学・儒家の呼び方の違い 「儒教」は「儒学」と呼ばれることがあります。この両者はほぼイコールであり、「儒教」と書いてあるのを「儒学」と書き換えても差し支えのないことがほとんどです。そのほか「儒家」と書き換えてもいい場合も多いかと思います。 日本史・世界史・倫理・国語等の教科書や資料集・便覧でも、これらは統一されず、場面場面によって異なる名前で登場します。 私が1月に投稿したこちらの動画においても、呼称は統一していません。「儒教」「儒学」「儒家」の3つすべての名を場面場面で使いわけています。 この呼称の問題については儒教全般の入門書である以下の2書でふれられています。 ・宇野 精一 『儒教思想』講談社(学術文庫) 1984 ・土田 健次郎『儒教入門』東京大学出版会 2011 「儒教」「儒学」については、両書ともに以下のような使い分けをする傾向があるとします。 宗教的側面を強調する場合……「儒教」 学問的側面を強調する場合……「儒学」 本のタイトルで「儒教」を使っているように、一般的な呼称は「儒教」の方になります。 とはいえ、近代以前においては「儒」の一字で指し示すことが多く、富永仲基も『翁の文』において「儒教」「儒学」「儒家」のどれも全く使っていません(「儒道」「仏道」という語はみえます) 「儒教」と「儒学」使い分けは上述の宇野・土田両氏の言うとおりだと思いますが、両氏があまり触れていないが、敬仲個人がよく使う「儒家」を加えて使い分けを考えてみたいと思います。 (「儒教」の言い換えは他にもたくさんあり、魯迅はよく「礼教」を使いますね。近代には「孔子教」と言うこともありました。土田氏は現代中国では「儒学」の呼称をよく使う旨を述べていますが、「儒家」も日本よりも現代中国の書物のほうが使用頻度が高い気がします。) ここで「儒家」の語を用いた場合の例示をしておくと、 「儒教では~」と同義で用いる場合は「儒家の説では~」「儒家思想では~」となります。 敬仲の普段やっている使い分け 具体的には対比するものによって使い分けするのがしっくりくると思います。 仏教・道教・神道・キリスト教等の他宗教と並べた場合……「儒教」 江戸期において「国学」「蘭学」と並べた場合……「儒学」 古代において「道家」「法家」「墨家」と並べた場合……「儒家」 富永仲基の動画においては、基本は仏教・神道と並べますから、「儒教」を使いました。 しかし、仲基当人が学んだ学問としては「儒学」と言い、 仲基の中国思想の考察の際には、墨家や道家と並べますから儒家と言いました。 (まあ儒家は人や学派を指す呼称ですから、「儒教」「儒学」とイコールにするより、「儒学者」の方が意味としては近いかもしれませんね) 董仲舒以前を「儒家」、以後を「儒教」とする見解について メンバーのいのっちさんの「世界史ザックリ解説part3/12」では 漢の武帝の時代に行なわれた董仲舒による儒教の「官学化」について触れられています。 前漢においては、「黄老の術」(道家)が流行したり、法家的な官僚がいて、儒家の勢力は強くありませんでした。しかし董仲舒の献策によって、儒教が王朝の正式な学問と認められたことで、以後の歴代王朝では基本的に、官僚=儒教を学んだ人物となります。 これも「国教化」というべきだとか、実際に儒教一尊となったのはもっと後だとか様々な議論があります。 (董仲舒の研究者である鄧紅氏が諸説を整理しています。) https://kitakyu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=394&item_no=1&page_id=13&block_id=431 その中の一つに、儒家を中心に諸子の思想が統一され、儒教が成立したという説があります。 私は大学の講義においてこの見解を聞き、この立場をとる板野長八氏の著書を読んだものだから、ずっと董仲舒以前を「儒家」とし、以後を「儒教」と区別するのが通説だと誤解していました。 (板野長八『儒教成立史の研究』岩波書店 1995 ) (そのためいのっちさんには大変な迷惑をおかけしました。当初を「儒教の官学化」だったのを、余計な私の指摘で「儒家が官学となり儒教成立」に変更。さらに私がそれが通説でないことに気が付いて「儒教の官学化」に戻していただく、ということがありました。)… Continue reading 【呼び名の違い】”儒教”か? それとも”儒学”か? : ついでに”儒家”も