イングランド史を学ぶととりあえず大きなターニングポイントとしてノルマン征服を習うと思います。その実行者であるウィリアム1世は武力で王位をもぎ取り、武力で住民を従わせ、戦争の最中に亡くなった、まさにヴァイキングの末裔、天国ではなくヴァルハラが似合う王だったことでしょう。 現代の価値観からすればとんでもない乱暴者とさえ思われるウィリアム1世ですが、そう決めつけてしまうのは全く想像力に乏しく、我々はなぜ彼がその圧倒的パワーを持ちえたのかを考察しなければなりません。多くの地域を支配した歴史を持つイングランドの歴史教育では、この点で執拗に問いを立ててきます。少なくとも私が持っているコリンズのKeyStage3段階の教科書では執拗です。この段階は11-14歳を対象にしたものですが、学習の目標は説明ができるようになることで、例えば「王はなぜ力と対話を用いる必要があったのか」と言う話題について話すことができる、といったものです。少年時代から支配とは何かを学ぶわけですね。 ウィリアム1世がなぜ王位を狙ったのかは聞くまでもないでしょう。私たちが際限なく価値を追求するように、中世の王たちも際限なく価値ある土地を追求します。むしろ狙える土地があるのに狙わなかったことの方が疑問とされるべきことです。戦争を起こしたら犠牲者たちへの説明はどうなるかなど考えません。むしろウィリアム1世はそれによく配慮した側です。彼は教皇から直々に支持を得た聖なる軍を率いたのです。この戦いで死ぬことはキリストのためになり、倒れた相手は不信心者なのです。それに加えて、後継者亡くして死んだ王の親戚かつ友人であり、後継者指名を受けていた(と言う主張)のであり、中世ではウィリアム1世のイングランド王位請求は悪いことなど一つもないでしょう。 神のご加護(彗星の出現、ドーヴァー海峡の天候変化のタイミング、先に競争相手が別で戦う羽目になったことなど、様々な幸運はそう呼ぶほかないぐらいです)で土地を得ましたが、問題はその土地をどう維持するかです。なんと当時のイングランド人500,000人程度に対してウィリアム1世の同胞ノルマン人は10,000人程度、1人で50人の異民族を支配しなければならなかったのです。50人の外国人が働く工場をあなた一人が任されて、彼らに仕事を最大限させるにはどうすればいいのでしょう。機嫌を取ればなめられるだけで相手は要求をエスカレートさせるでしょうし、いつの間にかあなたが彼らの下僕となります。かといって苛烈に扱えば、あなたは工具を片手にした50人から報復を受けるでしょう。ノルマン人は自身の安全を確保するためにまず城を作りました。当時イングランドにはノルマン人が「城」と呼ぶような城はありませんでした(アングロ=サクソン人からしたら城と呼べるものはあったかもしれませんが)。ノルマン人のモット・アンド・ベイリー方式の城郭は当時としては防御が固く、不意打ちを受けないよう住民からは離れて建てられました。こうした恐怖によってウィリアム1世はがちがちに構えてイングランドを支配しました。 優しくスマートに統治するのが理想でしょうが、時には恐怖に頼らざるを得ないこともあるものですというお話です。ウィリアム1世はそのせいか、あまり評判がいい王様ではなく、どちらかといえば侵略者として記憶されていると思います。
Category: 中世
アフリカ史のすゝめ
アフリカ史の魅力 はいはーいアフリカ推しのまりさです。 突然ですがアフリカ史というと皆さんは何が思い浮かびますか? そもそもアフリカ史とは歴史書においてちら裏にしか載らず、試験やテストにも出てこず、知ろうと思ったり、知る機会がなかったりするため、自発的に興味を持つことは難しいと思います。 そこで今回はアフリカ推しの私がアフリカ史の魅力をご紹介させていただこうと思います。 各地に存在していた交易国家 アフリカというとサバンナにジャングル。閉鎖的な場所で、ヨーロッパ人が足を踏み入れるまで外部との接触がなかった遅れた地域…そんな風に思われがちです。 しかしそれはいわゆる偏見であり、例えばインド洋交易の要衝となっていたアフリカ東部のザンジバル島を中心とした商業都市連合「キルワ王国」や西アフリカと北アフリカの中間貿易で栄えたサヘルの王国、マリ王国やソンガイ王国。ザンベジ・リンポポ川に跨る鉄器農業社会の早期形成や金の加工品輸出で栄えた「グレートジンバブエ」といった国々が存在していました。 彼らは元々この広大なアフリカの地で多種多様な文化を形成。 閉鎖的なアフリカというのはまさにヨーロッパ的な見かたであり、ヨーロッパ人到来以前から外部との交渉はすでに行われており、いうなれば開放的なアフリカがそこにあったのです。 ヨーロッパという仇敵 ヨーロッパ諸国というのはアフリカ史を話すにおいて切っても切れない関係です。 16世紀から始まった大西洋奴隷交易において、アフリカは南北アメリカ大陸への奴隷供給地としての役割を担わされ、働き手と兵士を失い、さらには大量の加工品の輸出攻勢を受け現地の製造業が壊滅。19世紀に イギリスが奴隷貿易を禁止にするまでの間、奴隷貿易はアフリカに深い傷跡を残しました。 また1878年にドイツ・ベルリンで行われたベルリン会議にてヨーロッパ列強によりアフリカ大陸は分割・植民地統治を受けることになります。 ヨーロッパとアフリカとは搾取する側と搾取される側であり、幾度となく対立してきたのです。 そんなアフリカ諸国が独立するまでの過程というのは、西欧諸国という”敵”との戦いであり、ある種の我慢比べでもありました。 最終的に1960年以降多くのアフリカ諸国が独立を達成するわけですが、この独立までの過程というのもまた面白い。 独立運動家らは国や地域も関係なく、全員横の繋がりを持ち、独立したアフリカを目指し、全員で独立を達成しようと連携していたのです。 独立の光と影 独立を達成することが出来たアフリカ諸国のその後というのは苦悩と絶望の連続でした。 多くのアフリカ諸国が独立した1960年の翌年には、同じく独立を果たしていた現在のコンゴ民主共和国(昔だとザイールとも)にて分離独立を掲げるカタンガ国が反乱。さらにはソ連に接近した中央集権派の首相 パトリス・ルムンバとアメリカ寄りの大統領ジョゼフ・カサブブとの対立をも生み、コンゴは混乱に陥っていきます。 またアフリカ諸国はどちらを支持するかと2つの派閥に分裂してしまったのです。 さらに苦難は続きます。 政治的に独立できたアフリカ諸国ですが、それは必ずしも経済的自立を伴うわけではありません。 独立時のアフリカ諸国の経済構造は、植民地期から継承した植民地経済でした。そのためこれはヨーロッパ人が生産・流通に大きく踏み込んでいた経済体系であり、イギリスやフランスといった宗主国の経済に必要な原材料を調達し、また廉価な工業製品を輸出しうる市場を確保するための搾取の経済構造です。 この結果アフリカ諸国は経済開発の財源確保のために、植民地時代に開発された少数の輸出産品の輸出を増大して外貨を獲得せねばならず、植民地期からの経済構造から脱出するために植民地経済に依存するという矛盾を抱えることになりました。 また多くのアフリカ諸国の基幹産業は農業であるにもかかわらず、食料自給が困難。というのも食糧作物の開発が植民地期になおざりにされ、コーヒーやカカオといった輸出用換金作物の生産が食糧生産を圧迫していたのです。 本来自国で供給可能なはずの食料を輸入すれば、その分、他産業の開発に振り向けるべき外貨が減少することになるのです。 こういった不利な状況が宗主国により押し付けられたことにより、皆さんも知るようなアフリカ諸国の低開発化を招くことになってしまったのです。 そんなわけで今回はここまで、また機会があればお会いしましょう。ばいばいヨーロッパ~
国王陛下戴冠記念第二回イングランド史動画投稿祭参加作品参考文献リンク集
※本ブログはメスキィタ主催による動画投稿祭のまとめ的なものです。投稿祭開催告知動画はこちらです→https://www.nicovideo.jp/watch/sm41574665 ご挨拶 今回も多くの動画投稿者の方にご参加いただけました本投稿祭でございますが、前回よりも参考文献数の多い動画が目立っております。好奇心旺盛な視聴者の皆様方に置かれましては、すべて読んで動画の内容の正否を確認したいと思われることでしょう。しかし、それぞれ文字をタイプして検索するのは大変面倒であります。そこで今回主催が参考文献のリンク集を作成しました。本リンク集をご活用いただき、イングランド史に対する関心が世でさらに高まることを期待しております。 なお参考文献の書式については統一するのが面倒であったので、各投稿者のもの及び、主催者によるフリーダムな書式としました。ネットで無料で閲覧できるものは太字としています。 学生か先生か、学術系データベースにアクセスして情報を入手していると思われる投稿者もいらっしゃいますね。つまり一般人が容易にアクセスできないものも含まれています。 リンク集 【英蘭祭】ケルトの要塞ヒルフォート【VOICEROID解説】 https://www.nicovideo.jp/watch/sm42150520 Hillfort survey – notes for guidance ヒルフォート現地踏査に関する手引書 https://hillforts.arch.ox.ac.uk/assets/guidance.pdf MAIDEN CASTLEについてのEnglish Heritageのサイト https://www.english-heritage.org.uk/visit/places/maiden-castle/ 木村正俊編著『ケルトを知るための65章』明石書店、2018 https://www.akashi.co.jp/book/b351970.html 高野美千代「17世紀好古学文献の変容と読者の受容」『山梨国際研究 : 山梨県立大学国際政策学部紀要』第8巻、2013、pp.46‐pp.56 https://www.yamanashi-ken.ac.jp/media/kgk2013005.pdf 新納泉『鉄器時代と中世前期のアイルランド』岡山大学文学部研究叢書37、2015 https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/5/53167/20160528120953688360/pso_37.pdf 久末 弥生「イギリスの考古遺産法制と都市計画」 『創造都市研究e』 12巻1号、大阪市立大学大学院創造都市研究科電子ジャーナル、2017 https://e-journal.gsum.osaka-cu.ac.jp/ejcc/article/view/774 Campbell, Lorrae”The Origins of British Hillforts: A comparative study of Late Bronze Age hillfort origins in the Atlantic West”. PhD thesis, University of Liverpool,2021 https://livrepository.liverpool.ac.uk/3135296/ 孫文、清国公使館に囚わる!?~倫敦被難記~【第二回イングランド史投稿祭】 https://www.nicovideo.jp/watch/sm42161162 Sun, Yat-sen(1897) Kidnapped… Continue reading 国王陛下戴冠記念第二回イングランド史動画投稿祭参加作品参考文献リンク集
歴史好きだった私が、中国文学・思想を専攻に選んだワケ
模擬授業「道教はいつ成立したか?」 さて、共通テストもまもなくという時候となりました。 (いちおう当チャンネル視聴者の1~2割はこれから大学、という世代です) そうした若い「歴史好き」のみなさんの参考に、私の進路選びのことを述べたいと思います。 「世界史」をうたっているチャンネルですが、私は中国学(文学・思想哲学)を専攻としています。 (「中国史」は「中国学」含まれることもありますが、ここでは別個とします) 1月7日に挙げた動画も、 中国思想及び、その隣接分野である日本思想・仏教・神道を取り上げたものです。 しかし、中高生の頃の私は「歴史好き」であり、史学を専攻するつもりだったのです。 オープンキャンパスの思い出 「中国学の方がいいかも」と思ったキッカケは 高校二年時のオープンキャンパスで受けた「道教はいつ成立したか?」というテーマの模擬授業でした。 (以下、記憶だけでなく、現時点の学問的知識に基づきます) 先生が受講者に問いかけ、私を含む3名が回答します。 ①私は「老子」②ある者は「後漢」 ③またある者は「3~4世紀」 先生はどれも「正解」とおっしゃいました。 ①老子 道家(老荘)思想は黄帝・老子を開祖と称して、漢代には「黄老」とよく併記されます。 (黄帝はもちろん、老子も実在があやしいですが) そして道教においてこの両者は開祖のような位置づけとなっています。 道教側の主張として「道教が老子にはじまる」から、私の「老子」という回答を正解としてくださいました。 しかし、歴史的にいえばこれは事実とは異なります。 道家思想も道教もどちらも「Taoism(タオイズム)」ですが、道教は道家思想とは区別します。 ②後漢 道教は道家の延長線上にあるのは間違いなく、老子及び書物『老子』を重んじますが、 不老不死を目指す神仙説や陰陽五行に道家思想が混ざって宗教性・神秘主義色が濃くなっています。 そのために道家の哲学とははっきり区別されます。 厳密な正解とは「②後漢」です。最初の道教教団といえるのは、『三国志演義』でもおなじみの太平道と五斗米道です。 ③3~4世紀 しかし、同じく後漢に中国に伝来した仏教、「国教」として地位を確立した儒教とくらべると稚拙な存在でした。 仏教教団を参考に教団組織をつくり、これらと「三教」として肩を並べさせたのは、北魏の寇謙之です。よって先生は「③3~4世紀」も正解とされました。 (「確立」だったら寇謙之で間違いないですね) この模擬授業は、複数の大学で聞いた歴史学よりも遙かに面白く感じました。 いざ受験という時、史学科も受けましたが、中国文学とか、東洋哲学とかいうような名前の学科も受け、 結果、中国学の道を歩んでいくこととなりました。 難しい学科選び 「中国史好き」の方には『史記』ファン、「三国志」ファンが結構いると思いますが、 歴史学よりも中国文学を専攻にした方が幸せだったろうなという人をたまに見かけます。(その逆もしかり) 「史学」「文学」「哲学」は隣接領域であり、ある程度はどうにかなりますが 最初に学ぶのは、その分野の概説です。「イメージしてたもの、やりたかったことと違う」ということはめずらしくありません。 (文学研究者が歴史について書いたり、歴史学者が思想について語ったりなんてよくあるので、本当にどうにかなるのですが、最初に興味持てないと続けるのは難しい思います) 選ぶ前に本を読もう! 今年受験生、これからが正念場ですね。見事複数の学科に合格されたとして、「そのまま第一志望を選ぶ」前にちょっと待った! 学問領域が異なるなら、決める前にその学問に関係する新書本を数冊読んでみてください。 「イメージと違った」「こっちの学科の方が面白そうだ」ということが十分あり得ます。 来年以後受験生という方も、オープンキャンパスの模擬授業もいいですが、ついで担当教員にお勧め本を聞いてみてください。 転学・転学の制度もありますが、面倒ですからね。
昔のかんたんな暗号を試してみる
暗号について 暗号と聞くと色々なことを思い浮かべることができる。例えば、現代社会のコンピュータを使った通信には暗号技術が使われている。これを破ることができれば、自分の銀行口座の預金額を5000兆円に書き換えることもできるかもしれない。また歴史関係で言えば、ドイツ国防軍が使用していたエニグマ暗号機は有名だ。しかし、例によってこのエニグマは連合国側によって解読されてしまっている。 暗号は送信者と受信者以外の第三者に情報が渡らないようにするための工夫である。しかし、暗号は常に解読される定めにある。どんなに巧妙な工夫を凝らして暗号化しても、解読者はあらゆる工夫を凝らして解読を試み、歴史上のあらゆる暗号は解読されてきた。現代でよく利用されている、非常に強固なRSA暗号ですら解読可能である。(具体的には、鍵長1024bitであれば現代の技術と莫大なリソースを割けばおそらく解読できるだろう、というもの) ここでは歴史上で昔から使われてきた暗号を実際に使ってみて、昔の人の気分を少しだけ感じてみようというものである。今回は分かりやすいように、アルファベット大文字を暗号文、アルファベット小文字を平文としている。また、ピリオドやコロン、空白文字などは無いものとして考える。 (暗号と復号の例文は十分注意を払って作成しているが、間違えているかもしれないのでご注意ください) シーザー暗号 シーザー暗号は、おそらく世界で一番有名で簡単な暗号である。暗号化の手順は、平文の文字を任意の数ずらすだけだ。復号化するときは、任意の数を鍵として暗号とは逆方向にずらせば良い。アルファベットを使用するとして任意の数を「3」とすれば、「a」という文字は「D」となり、「i」という文字は「L」となる。そして、「z」という文字は一周回って「C」になる。 例えば、鍵を「3」として「sekaishibeta」を暗号化すると、「VHNDLVKLEHWD」となる。パッとこの文字列を見せられると、意味のない文字列としか思えないが、「暗号化の手順」と「鍵」がわかっているのであれば復号できる。つまり、「シーザー暗号」という手順と「3」という鍵が渡されると、それぞれのアルファベットの3つ前を書き出せばいいことがわかる。最初の文字「V」は「s」と復号でき、「H」は「e」に対応する。 この暗号の問題点は第三者が暗号化手順を知っていた場合、すぐに解読されてしまうところにある。 ここに「TDWJRQJQNWCJR」という暗号文があったとする。もしあなたが「これはどうやらシーザー暗号で暗号化されている」と知っていた場合、どのくらいの時間で解読できるだろうか? アルファベットであれば文字の種類は26であるため、0文字ずらしたものから25文字ずらしたもの全てを書き出して意味を持ちそうな文章を見つけてしまえばいいのだ。つまり、総当たりで人間が解読できる程度には短い時間で可能である。この問題点を解決するために工夫したものが、次の暗号化の手順である。 (ちなみに、上記に書いた暗号文は重要機密であるため、ここで複合した文章は示さない。間違っても復号することのないように!) ちなみに、暗号化の手順が知られてしまうがゆえに脆弱なのであるから、その手順を秘密にしてしまえばいいのではないかと思った人もいると思う。しかし暗号界隈では、この手順を秘密にすることは機密性に全く関与しないことが指摘されている。その理由は、その手順が本当に安全であるかどうか検証ができないことにある。わざわざ自作するくらいなら、世界中の研究者が解読を試みて検証され続けてきた暗号化手順を使用した方がよっぽど安全である。 単一換字式暗号 単一換字式暗号は平文の文字と暗号文の文字が一対一に対応する暗号である。平文「a」が「C」であるなら、暗号文「C」は必ず「a」になる。つまり、シーザー暗号も単一換字式暗号の一種であるが、ここではシーザー暗号を少し改良したものをつかう。 シーザー暗号は暗号化のパターンが単純で、26種類しかなかったのが問題であった。そのため、第三者の解読者が総当たりを試みる場合、その試行回数をべらぼうに増やすことを考える。 今回は、アルファベットそれぞれに対応する文字をランダムに決めた表を作成し、その表に従って暗号化と復号化を行うこととした。この場合、「a」に対応する文字を「D」と決めても、必ず「b」は「E」になるわけではなく、D以外の文字のどれかということになる(「a」に対応する文字が「D」であることがわかってるため)。もちろん、たまたま「b」が「E」に対応することもあるだろう。 これも実際に試してみよう。「sekaishibeta」を下記の表を鍵として暗号化すると「PQMFUPIUNQGF」となる。当然復号した文は、この表を見ながら文章を作っていけば良い。 さて、前提として第三者は暗号化手順はわかっているが鍵である対応表は持っていない。手順だけ分かっている解読者が、この暗号を解読するために総当たりで検証すると一体どれほどの時間がかかるか? シーザー暗号はずらすことしかしていないため26パターンであった。しかし、今回の方法は全部で26の階乗パターン存在する。つまり、最大「26 x 25 x 24 x … x 2… Continue reading 昔のかんたんな暗号を試してみる
中世イングランドの国体で考えてみたこと
まず最初に断っておくと中世に国民体育大会はありませんでした。国体は国のありようと言うことです。考え方としては戦前でよく言われてたのような国体に近いのですが、イングランドでは文字通り「体」のように考えられていたようです。国王を頭として軍隊や貴族、忠誠、臣民、税、宮廷、修道院、さまざまな構成物がまるで人体のように相互に支え合って国体が動くというわけですね。 さてこうした国体は中世を通じて同じであったわけではありません。ローマ帝国崩壊後の異民族の侵入の頃の状況はよくわかっていないのですが、この時期の族長の周囲が国体のもとになり、次第に膨れ上がっていったのです。 まず族長の周囲には長老だとか人望のある人だとかが集まってあーするべきだとかこーするべきだとか意見を聞くための集団がいます。ノーサンバランド王のエドウィンはキリスト教に改宗したヘプターキー時代の人物ですが、改宗に当たって重臣たちを説得しているシーンが年代記に残されています。こうした重臣たちの集まりは後にウィタンと呼ばれていたそうです。イングランド議会はHPでこのウィタンがルーツの一つであると説明していますが、中世に三権分立などと言う概念があるわけがなく、最初の実態としては全ての権限が混然一体となった偉い人たちの会議でしょう。もっとイメージしやすく言うなら会社の重役会議だとかヤクザの組長の舎弟たちなわけです。 組長=王 舎弟=貴族 子分=宮廷の使用人など 舎弟がいれば子分もいます。こんな風に書くと仁義なきイングランド史というタイトルが頭をよぎりますが、実際未発達で暴力に頼らざるを得ない社会だったので自然と似てくるものなのだと思います。子分の仕事は組長の身の回りの世話となるでしょう。今と違って家事労働は大変なこと、一人暮らしなんて修行者の域だったかもしれません。衣装を管理し、財産を管理し、食事の場をセッティングし、馬を世話し…いろんな仕事がありますね。こんなの家政婦の仕事で子分の仕事じゃないなんて思わないでください。今だって弟子が師匠の身の回りの世話をするような芸事があったりするでしょう。実際王のトイレの世話は貴族たちの間でも特に信頼の厚い人物にしか任されなかったのですから。 さて、子分たちの話に移りましょう。ヘプターキー時代も終わりが近づくと族長と言うか王の支配領域は広がります。市町村レベルから大きめの県レベルまで大きくなります。王は広い領土を旅しながら治めました。各地の諍いを解決するために、住民の忠誠を引きとどめておくために、反乱の芽が出ていないか確認するために。この移動に伴って王の衣装も財産も動くのです。と言うわけでチェンバレンが生まれました。チェンバレンは王の寝室に関連する仕事をしていたのですが、今でも寝室には重要なものが置かれることが多いように(ネットで元空き巣の証言を読んだところ、基本的にリビングか寝室には現金があるなどと言ってました)、重要な書類や財産の管理を任されました。しかし王たるものそういったものは山ほど抱えることになります。膨れ上がった貴重品をすべて寝室には置いておけません。そこでトレジャリが生まれます。トレジャリは宝物庫を管理する役職ですが、あまりにも多い財宝はウィンチェスターに定着しました。そしてこのウィンチェスターにある財産を適切に管理しているか調査をしたり、王の収入を把握するためにエクスチェッカー(財務府裁判所)が作られるのです。この辺りの歴史はまだ私の中では腑に落ちないし分からないことも多いので、立ち入った話はできませんが、どうもただの会計ではなくて裁判もしていたようなのです。ちなみに行政面についても多方面にわたって活躍したようです。イギリス史ではやたら不思議な裁判所がたくさん出てくる気がするのですが、そもそも三権を分立させていない状態だとすべては司法の下に属するらしいです。一方で金勘定して一方で会計をごまかした人物に罰を与え、しかも同じ会合で全く財政とは関係のない事務処理や裁判までついでにやっていたのかもしれません。学級会で掃除当番を決めていたら突然弾劾裁判が始まってしまうような…カオスな役所だったのでしょう。このあたり、名前に引きずられて組織の仕事を判断してはいけないなとよく思います。あと、コートの法廷に代わる様ないい訳はないのかと思いますね。 舎弟に話を移しましょう。組長は多くの舎弟を従えることになります。特にノルマンコンクエスト以降の重役会議はクーリア・レギスと呼ばれます。ここも会議で掟を決めているかと思えば裁判もしているところです。クーリア・レギスめちゃくちゃいろんな人が出席するようになったので、大会議と小会議に分かれました。小会議が様々な行政機関や専門裁判所として成長し、大会議は議会として国体の土台に変貌していきます。まるで胚が細胞分裂で一つの細胞から様々な臓器に変わっていく様子みたいですね。ちなみに小会議は枢密院を生み出し、枢密院は内閣を生み出しています。そう、そしてその内閣の下に教育省だとか運輸省だとか国防省があるんです。 ところでノルマン朝やアンジュー朝はフランスを本拠地とした勢力です。いくらイングランドの土地が豊かでも本拠地はフランスです。そのため、イングランド王はノルマンディーにいるのが基本でした。なのでイングランドの統治を担当したのはジャスティシアー(最高法官)と呼ばれた人です。このジャスティシアーがいた頃がちょうどクーリア・レギスの分裂が活発だったころでもあり、王の不在と言うのはイングランド独特の行政制度の発展に大きく寄与したと思われます。ジョン王がノルマンディーを失い、イングランド王の本拠地がイングランドになるとその発達した行政機構や裁判所が王を迎え入れることになりますが、そこで王と貴族の確執がマグナ・カルタを生み出し、議会が税の承認をする伝統が生まれました。 議会と言うのは今でこそ立法府ですが、中世においては課税の承認をする機関で、その代償として各地域の陳情を持ち込んでいたようです。上納金を納めるからには自分の組のいざこざや困りごとの面倒は見てほしいですからね。この陳情が時には権利の請願だとかウェストミンスター条項、改革勅令になるわけで、議会を強くしていきます。しかし議会は王を懲らしめたいわけではなく、やはりその権威に依存しましたので持ちつ持たれつ、議会の中にあって王は主権を有するなどと言うあいまいな国政論となるのです。このぼんやりした制度は王を体の一部とした、つまり王が単独では生きていけない状態を作り、国体と言う発想になったのかななどと思ったりもします。 イングランドの複雑な政治史の驚くべきところは、大きな切れ目なく現在まで続いていることです。私たちの暮らしを支える国のシステムは近代(この言葉のせいで18世紀以前の世界と必要以上に距離を感じますね。同じ体を持つ人々だというのにまるで違う生き物のようにさえ感じてしまいます)に突然生まれたものではなく、中世から脈々と受け継がれてきた、秘伝のたれのようなものです。私たちを取り巻くシステムは、暴力渦巻く民族移動の時代から、試行錯誤や改良を重ねて生まれてきたもの。この知恵はもちろん現代の制度を知ることでも得られるでしょうが、その神髄は歴史に触れることでより一層分かるのではと思って、ずっとイングランド史を続けています。たぶん。
『草燃える』はいいぞ。(おすすめ大河ドラマ紹介 第1回)
※今回は、とある大河ドラマ紹介文です。 ネタバレ注意! こんにちは、いのっちです! 「世界史べーた(仮)」開設からはや半年近く経ちました。 少しずつ活動の幅も広がり、チャンネル登録者も増えて嬉しい限りです♪ 今日は私が歴史好きになった理由の一つ「大河ドラマ」の御紹介をさせて頂きたいと思います。 といっても好きな作品は山ほどございますので、今回は現在放送中の『鎌倉殿の13人』と同じく、鎌倉幕府草創期を描いた作品『草燃える』(1979年[昭和54]放送、草生えるじゃないよ)を紹介します! (リアルタイムで視聴していたわけではなく、総集編を観たことがあるだけですが💦) 『草燃える』は永井路子さんの小説や随筆が原作で、「源頼朝」と「北条政子」夫婦を主人公に「頼朝の挙兵」から「承久の乱」までを描いた作品です。 まさに『鎌倉殿の13人』と同じ時代ですね♪(主人公は違いますが) おそらくこの作品を観たほとんどの方が最初に抱く印象は「口調の癖が凄い」でしょうね。 そう、この作品の登場人物(主に東国の人々)は時代劇口調ではなく、露骨に現代口調で話すんです。(「嫌だわ、お姉さま♪」「あらごめんなさい♪」みたいな感じ) 他にも権力者が女性を手籠めにする、男色、盗賊によるカニバズムなどの描写も好き苦手が分かれそうなところですね…💦
男いのっち一人旅! in 鎌倉 その3(お墓参り編)
さあ前回のブログ(リンク)の続きです! 約1か月ぶりの続編投稿になってしまい大変申し訳ございません💦 「鎌倉弾丸旅行記」は今回がラストになります!✨ 「鶴岡八幡宮」の正門をくぐると正面に広がっているのは参道にあたる「若宮大路」です(何故か写真紛失という大失態💦)。 因みに大路の中央、一段高くなっている歩道は「段葛(だんかずら)」。頼朝が妻・政子の安産祈願の為に御家人たちに築かせた道が原型になっているそうです。 因みにこの「若宮大路」、ただの一本道というわけではなく、八幡宮側に近づくにつれて「道幅が狭く」なっております。「遠近法」を利用して実際以上に距離を長く見せているとか。ほえ~ それはさておき、一旦八幡宮の東側に徒歩で向かいます。「頼朝時代の御所(大倉幕府)」があった方向ですね(現在は小学校になってます♪)。 というわけでまずは「源頼朝」のお墓(いきなりのビックネーム)! 住宅地の奥にある丘の上、そこまで目立つ場所ではなかったのですが、大勢の観光客の方がいらっしゃってました。大河パワー恐るべし!✨ 更にその付近には「北条義時」や「大江広元」など御家人たちのお墓がありました! 反抗的な御家人たちが多い中(ドラマ設定)、頼朝を献身的に支えている御二方は、今でも鎌倉殿の側で眠っているんですね♪ 主人公の義時は勿論、広元もドラマ終盤まで活躍する重要人物ですのでこれからの活躍に注目です! さあ、次は八幡宮を挟んで反対側(西側)に徒歩で移動します。そろそろ足が悲鳴を上げ始めました…💦 次の目的地は鎌倉五山の第三位「寿福寺」です。 「北条政子」が、頼朝の父「源義朝」の館があった場所に建てた禅宗のお寺です。(例によってコロナの為に御朱印は頂けませんでした…) このお寺には「北条政子」とその次男「源実朝」のお墓があります(裏手の山腹)。頼朝と違う場所にお墓があるのはちょっと意外でしたが、息子と一緒なら寂しくないでしょうね。 頼朝夫婦は八幡宮を挟んで東西から今でも鎌倉の街を見守っているのでした(しみじみ)。 最後に徒歩で向かった(本日最長の距離)のは、有名な「鎌倉大仏(高徳院)」です。 鎌倉を代表する寺院ですが、実は誰がどういった経緯で建立したのかよく分かっていないミステリアスなお寺だったりします(鎌倉時代に建てられたのは間違いないようです)。 あと現在大仏様は野ざらしですが、かつては大仏殿があったそうです。 この時点で足は限界、時間も迫っていましたので今回の「鎌倉弾丸旅行」は終了となりました💦(心地よいクタクタ)。 それぞれの場所は巡って歩き回る間にも「和田義盛」や「畠山重忠」など大河ドラマにも登場する人々ゆかりの地を偶然発見するなど、街中至る所が歴史を感じる場所で、九州民の私としては非常に貴重で楽しい時間を過ごすことが出来ました♪✨ 実は、今月末に再び関東への出張が決まっておりまして、その際はまた「旅行記」のようなもの執筆できればと思っています。 それでは今回はここまで。 最後までお読みいただきまして、本当にありがとうございました!✨ 〇(><)
男いのっち一人旅! in 鎌倉 その2(「鶴岡八幡宮」周辺編)
さあ前回のブログ(リンク)の続きです! 本当は前後編にまとめようと思っていたのですが、後編が長くなりそうでしたので「全3回」でお届けすることにしました♪💦 北鎌倉駅から「巨福呂坂(縁起良さそうだけど、鎌倉幕府滅亡時の激戦地)」を徒歩で超え、ついに鎌倉の中心といっても過言ではない「鶴岡八幡宮」に向かいます! それにしても学生の集団の多いこと多いこと(修学旅行?)。 大河ドラマが放送中ですし、人気のスポットなのでしょうか? 彼らの中から新しい「歴史好き」が生まれるといいですね♪✨ さあ、そしてあの「鶴岡八幡宮」(公式HP)です! 鎌倉を発展させた「源頼朝」はこの鶴岡八幡宮の社殿を中心に「鎌倉の街路」や「幕府の中枢」を整備していきました。つまり文字通り「鎌倉の中心」というわけです。 因みに鶴岡八幡宮の基になった「由比若宮(元八幡とも、鶴岡八幡宮とは別の場所にあります)」(紹介ページ)を創建したのは頼朝から見て約100年前の先祖にあたる「源頼義」という人物です。 その辺りのお話については下記の拙作動画にまとめておりますので是非御覧になってください(ダイマ)♪ リンク:3分で歴代天皇紹介シリーズ! 「70代目 後冷泉天皇」 早速「世界史べーた(仮)」の更なる発展を祈願した後、境内を散策しました(幸せ)。 そして、今年限りの観光スポットにも足を延ばしました。 それは「大河ドラマ館」(公式HP)です! 八幡宮の境内にあるんですね。✨ 「作中で使用された衣装や小道具」、「ドラマ制作の裏側を紹介するムービー」など大河ドラマファンなら興奮必至の展示の数々。九州民の私が2年連続で「関東の大河ドラマ館」を訪問することが出来るとは夢にも思いませんでしたが、素敵な思い出になりました。✨ 今年鎌倉を訪れる予定がある方は是非足をお運びください♪ しかし、「鎌倉弾丸旅行」はまだ中盤。 名残惜しいですが、これからドラマにも登場する人々ゆかりの地を歩いて回らねばなりません!💦 というわけで次回は「お墓参り」編です! (そんなタイトルでいいのか💦)
男いのっち一人旅! in 鎌倉 その1(北鎌倉編)
皆さん、こんにちは「いのっち」です! 今回は初の「旅行記」です♪ 実は絶賛関東出張中の私ですが、大河ドラマの影響で「鎌倉に行ってみたい!」と思い立ち、普段あまり使うことがない電車やバスを乗り継いで、人生初の「鎌倉」に行ってまいりました。 (九州民にとって、こういう機会が無いとなかなか行くことが出来ませんから💦) 普通なら「鎌倉駅に到着後、若宮大路を通って鶴岡八幡宮を目指す!」というのが王道なのでしょうが、ひねくれ者の私は敢えて一つ手前の「北鎌倉駅」で下車、歩いて鎌倉の中心部を目指すことにしました♪ ※因みに北鎌倉駅周辺は「山ノ内」という地名でして、室町時代に活躍した「山内上杉氏」の館があった場所です(豆知識)。 最初に訪れたのが駅のすぐ側にある「円覚寺」(公式HP) 元寇の時の執権「北条時宗」が、戦争の犠牲者を供養する目的で建立した寺院です。 鎌倉五山の「第二位」としても有名ですね♪ 「九州民としては是非お参りせねば!」と早速参拝しました。 ありがたやありがたや~(因みに私の宗派は「浄土真宗」です。) 次に路線は挟んで反対側にある「浄智寺」(公式HP)に向かいます。(五山の第四位) … と思ったのですが、その手前に縁切り寺として名高いあの「東慶寺」(公式HP)が!? (豊臣秀頼の娘「天秀尼」が住持を務めたことでも有名ですね) 流石は鎌倉、有名な寺院が歩ける範囲にたくさんあります♪✨(幸せ) 今のところ切りたいような御縁は御座いませんが(むしろくださいお願いします)、折角なのでお参りしました。 因みに浄智寺ですが、コロナのせいで御朱印は頂けませんでした… おのれコロナぁ!!! (# ゚Д゚) さあ次はいよいよ鎌倉五山の第一位「建長寺」(公式HP) ! 時宗の父である「北条時頼」が南宋の禅僧「蘭渓道隆」を御招きして創建した「禅宗(臨済宗)」のお寺です(日本史の御勉強)♪ (高校時代、京都の「建仁寺」とゴチャゴチャになっていたのはいい思い出…💦) 流石は第一位、規模が大きい….(絶句)! 壮大な「三門」を通って「仏殿」でお参りしてきました。 時間が限られていたのが本当に惜しかったです(一ヵ月くらい滞在したい)💦 というわけで、どちらかというと神社に行くことが多い私にとって、立て続けに寺院を参拝する(しかも鎌倉五山のうち三寺を含む)という貴重な経験をすることができた「北鎌倉」でした♪ (因みにこの時点でだいたい約1km歩いてます) しかし、余韻に浸っている時間はありません! 休む間もなく建長寺を出発、『太平記』や『梅松論』にも登場する激戦地「巨福呂坂」を超え、いよいよあの「鶴岡八幡宮」を目指します!(建長寺から約800m) というわけで、次回「鎌倉中心部編」です♪(続く) (`・ω・´)ゞ