まず最初に断っておくと中世に国民体育大会はありませんでした。国体は国のありようと言うことです。考え方としては戦前でよく言われてたのような国体に近いのですが、イングランドでは文字通り「体」のように考えられていたようです。国王を頭として軍隊や貴族、忠誠、臣民、税、宮廷、修道院、さまざまな構成物がまるで人体のように相互に支え合って国体が動くというわけですね。 さてこうした国体は中世を通じて同じであったわけではありません。ローマ帝国崩壊後の異民族の侵入の頃の状況はよくわかっていないのですが、この時期の族長の周囲が国体のもとになり、次第に膨れ上がっていったのです。 まず族長の周囲には長老だとか人望のある人だとかが集まってあーするべきだとかこーするべきだとか意見を聞くための集団がいます。ノーサンバランド王のエドウィンはキリスト教に改宗したヘプターキー時代の人物ですが、改宗に当たって重臣たちを説得しているシーンが年代記に残されています。こうした重臣たちの集まりは後にウィタンと呼ばれていたそうです。イングランド議会はHPでこのウィタンがルーツの一つであると説明していますが、中世に三権分立などと言う概念があるわけがなく、最初の実態としては全ての権限が混然一体となった偉い人たちの会議でしょう。もっとイメージしやすく言うなら会社の重役会議だとかヤクザの組長の舎弟たちなわけです。 組長=王 舎弟=貴族 子分=宮廷の使用人など 舎弟がいれば子分もいます。こんな風に書くと仁義なきイングランド史というタイトルが頭をよぎりますが、実際未発達で暴力に頼らざるを得ない社会だったので自然と似てくるものなのだと思います。子分の仕事は組長の身の回りの世話となるでしょう。今と違って家事労働は大変なこと、一人暮らしなんて修行者の域だったかもしれません。衣装を管理し、財産を管理し、食事の場をセッティングし、馬を世話し…いろんな仕事がありますね。こんなの家政婦の仕事で子分の仕事じゃないなんて思わないでください。今だって弟子が師匠の身の回りの世話をするような芸事があったりするでしょう。実際王のトイレの世話は貴族たちの間でも特に信頼の厚い人物にしか任されなかったのですから。 さて、子分たちの話に移りましょう。ヘプターキー時代も終わりが近づくと族長と言うか王の支配領域は広がります。市町村レベルから大きめの県レベルまで大きくなります。王は広い領土を旅しながら治めました。各地の諍いを解決するために、住民の忠誠を引きとどめておくために、反乱の芽が出ていないか確認するために。この移動に伴って王の衣装も財産も動くのです。と言うわけでチェンバレンが生まれました。チェンバレンは王の寝室に関連する仕事をしていたのですが、今でも寝室には重要なものが置かれることが多いように(ネットで元空き巣の証言を読んだところ、基本的にリビングか寝室には現金があるなどと言ってました)、重要な書類や財産の管理を任されました。しかし王たるものそういったものは山ほど抱えることになります。膨れ上がった貴重品をすべて寝室には置いておけません。そこでトレジャリが生まれます。トレジャリは宝物庫を管理する役職ですが、あまりにも多い財宝はウィンチェスターに定着しました。そしてこのウィンチェスターにある財産を適切に管理しているか調査をしたり、王の収入を把握するためにエクスチェッカー(財務府裁判所)が作られるのです。この辺りの歴史はまだ私の中では腑に落ちないし分からないことも多いので、立ち入った話はできませんが、どうもただの会計ではなくて裁判もしていたようなのです。ちなみに行政面についても多方面にわたって活躍したようです。イギリス史ではやたら不思議な裁判所がたくさん出てくる気がするのですが、そもそも三権を分立させていない状態だとすべては司法の下に属するらしいです。一方で金勘定して一方で会計をごまかした人物に罰を与え、しかも同じ会合で全く財政とは関係のない事務処理や裁判までついでにやっていたのかもしれません。学級会で掃除当番を決めていたら突然弾劾裁判が始まってしまうような…カオスな役所だったのでしょう。このあたり、名前に引きずられて組織の仕事を判断してはいけないなとよく思います。あと、コートの法廷に代わる様ないい訳はないのかと思いますね。 舎弟に話を移しましょう。組長は多くの舎弟を従えることになります。特にノルマンコンクエスト以降の重役会議はクーリア・レギスと呼ばれます。ここも会議で掟を決めているかと思えば裁判もしているところです。クーリア・レギスめちゃくちゃいろんな人が出席するようになったので、大会議と小会議に分かれました。小会議が様々な行政機関や専門裁判所として成長し、大会議は議会として国体の土台に変貌していきます。まるで胚が細胞分裂で一つの細胞から様々な臓器に変わっていく様子みたいですね。ちなみに小会議は枢密院を生み出し、枢密院は内閣を生み出しています。そう、そしてその内閣の下に教育省だとか運輸省だとか国防省があるんです。 ところでノルマン朝やアンジュー朝はフランスを本拠地とした勢力です。いくらイングランドの土地が豊かでも本拠地はフランスです。そのため、イングランド王はノルマンディーにいるのが基本でした。なのでイングランドの統治を担当したのはジャスティシアー(最高法官)と呼ばれた人です。このジャスティシアーがいた頃がちょうどクーリア・レギスの分裂が活発だったころでもあり、王の不在と言うのはイングランド独特の行政制度の発展に大きく寄与したと思われます。ジョン王がノルマンディーを失い、イングランド王の本拠地がイングランドになるとその発達した行政機構や裁判所が王を迎え入れることになりますが、そこで王と貴族の確執がマグナ・カルタを生み出し、議会が税の承認をする伝統が生まれました。 議会と言うのは今でこそ立法府ですが、中世においては課税の承認をする機関で、その代償として各地域の陳情を持ち込んでいたようです。上納金を納めるからには自分の組のいざこざや困りごとの面倒は見てほしいですからね。この陳情が時には権利の請願だとかウェストミンスター条項、改革勅令になるわけで、議会を強くしていきます。しかし議会は王を懲らしめたいわけではなく、やはりその権威に依存しましたので持ちつ持たれつ、議会の中にあって王は主権を有するなどと言うあいまいな国政論となるのです。このぼんやりした制度は王を体の一部とした、つまり王が単独では生きていけない状態を作り、国体と言う発想になったのかななどと思ったりもします。 イングランドの複雑な政治史の驚くべきところは、大きな切れ目なく現在まで続いていることです。私たちの暮らしを支える国のシステムは近代(この言葉のせいで18世紀以前の世界と必要以上に距離を感じますね。同じ体を持つ人々だというのにまるで違う生き物のようにさえ感じてしまいます)に突然生まれたものではなく、中世から脈々と受け継がれてきた、秘伝のたれのようなものです。私たちを取り巻くシステムは、暴力渦巻く民族移動の時代から、試行錯誤や改良を重ねて生まれてきたもの。この知恵はもちろん現代の制度を知ることでも得られるでしょうが、その神髄は歴史に触れることでより一層分かるのではと思って、ずっとイングランド史を続けています。たぶん。
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日本財政は持続不可能だった? Bohn検定による検証
財政の持続可能性とは? ドーモ、読者=サン。赤字スレイヤーです。 ああ待って、ブラウザバックなさらないでください。 ……こほん。改めまして、※(米印)です。 今回は、Ihori et al.(2001)(以下、「井堀ら」と記します)を参考に、戦後日本(~98年)の「財政の持続可能性」を検討してみたいと思います。 ただし、ひとつ注意していただきたいのは、これは政治的意図があるものではないということです。あくまでも「歴史」として捉えてくだされば。 ではでは、本題に入りましょう。 財政が持続不可能であるとはどういうことかというと、財政が持続可能ではないということです(小泉構文)。 ……いやいや、大真面目な話なんですって。というのも、「持続可能」の基準は決して明確ではないのです。 とくに近年の計量分析の進歩もあり、「○○が××だから持続可能!」みたいなことを安易に言ってしまうと、「素人質問で恐縮ですが……(素人ですらわかるとこに欠陥があるように見えますが)」とか「基本的な質問ですが(基本的な部分に落ち度があるんだが)」とか、「私もよくわからないのですが(え、そんな初歩的なミスやらかすとは信じられないんですが)」とかが飛んで来ますから…… それを踏まえて井堀らの議論を紹介しますと(責任逃れ)、主に 「公債の中立性」を確認する Bohn(1998)の検定を用いる の2段階によって評価しています。 以下では、この2つについて紹介してゆきましょう。 バーロー、バローの中立性が保たれてなきゃしょうがないんだよ 公債の中立性(中立命題)というのは、「財源に公債を使っても、増税を行っても、結局一緒だよね」という議論です。 え、そんなことあるわけないじゃないか、と思うかもしれません。正直私もそう思います(え しかし、事実として公債はいずれ返さなければならないわけで、結局は増税を行うことになります。ですから、もし人類がめちゃくちゃ合理的な存在だとしたら、この増税を見越して経済活動を行うでしょう。そうなれば、「全然違わないじゃん!」となるわけです。 もしこれが満たされていれば、公債をいくら発行しても、国民は賢明なことに「どーせ増税するんでしょ?」と考えて行動するので、ほぼ持続不可能にはならないはずです。 これが中立性のおおまかな内容です。 さらに細かい議論に入ってゆくと、中立性には「リカードの中立性」と「バローの中立性」があり、一般にバローの中立性の方が「強い」概念だとされています。 バローの中立性は、子孫代々に対して遺産を残したい、という思いを想定していますから、「いやいや、どーせ増税するんでしょ?」が100年200年先にも適用できるという主張なわけです。 ……うん、ちょっと過剰ですよね。 ちなみに、リカードの中立性はその世代で返すという条件なので、もう少しマイルドです。 で、日本財政はどうなのか、という話です。 井堀らはこれらについて検討したところ、リカードの中立性についてはある程度認められるものの、バローの中立性は不十分であると指摘しています。 リカードの中立性で保証されるのはあくまでも同一世代の間だけですから、クソデカ債務を抱えている日本の例ではちょっと物足りないと言わなくてはならないでしょう。 つまり、公債の中立性という観点からは、持続可能性を担保できないという結論です。 ククク……Bohn検定が敗れたか。奴は我らの中でも最強…… 次にBohn(1998)の検定(Bohn検定)について紹介しましょう。 これは簡単に言うと、「借金が増えたら、それを返そうとしているかどうか」ということの判断です。つまり、債務残高が増えたら、歳入を増やしたり歳出を減らしたりして、収支を改善しようとしているかどうかを見るわけです。具体的な説明はBohn(1998)、和文なら土居・中里(2004)などを参照してください。 先にこのことを強調しておきますが、Bohn検定は決して一部の研究者のみが用いているものではなく、むしろ21世紀に入って支配的になってきた手法です。ですから、旧来の単位根検定、共和分検定などよりも優れた特性を有している、とされています。手法に対する疑念は(持たないこともまた不健全ですが)過剰に評価されるべきではありません。 さて、井堀らの議論です。Bohn検定によって導き出された結果は、まず56年~98年、65年~98年のいずれの場合についても、前述の収支改善の反応は有意に観測できなかったということです。これは財政が持続可能であるという主張を支持しません。 ただし、喜ばしいことに、長期的に見るともう少し事情が異なります。 歴史をさらってみると、70年代、とくにオイルショック後に財政支出が大いに増えました。田中角栄内閣はもとより公共事業を盛んに行い、さらには福祉の充実も試みていましたし、もっと悪いことに(選挙対策として)合理性のない減税も行ってしまいました。このような減税は70年代を通じて見受けられますが、ひっくるめて言えば、与党が減税を唱えれば野党はさらなる減税を主張する、という悪循環に陥っていたわけです。 しかし、80年代の行政改革、さらには消費税の導入をもって、90年代初頭には財政状況は大きく改善しました。これらの時期の財政収支を縦軸に、債務残高を横軸に取ると、井堀らが「二次関数的」と言ったような関係が成り立っています。 少なくとも70年代~90年頃までは、一時的な債務拡大こそあれ、概ねにおいては「借金が増えたら、それを返そうとする」意識が保たれていたと言えるでしょう。 ところが、井堀らの議論には続きがあります。バブル崩壊後、いよいよもって政府債務は手が付けられなくなりつつあるというのです。 先ほどの財政収支と債務残高の関係で見てみると、98年には大きく悪化しています。 これでは、「持続可能」と言うことはできません。井堀らは、「近い将来において、財政赤字を削減することが重要である」と結論付けています。 つまりどういうことだってばよ 以上、井堀らの議論からは、70年後半と90年代後半の日本財政は、持続可能ではなかったと言う必要があるようです。70年代の場合はその後に回復期が一応ありましたが、90年代の場合は(井堀らには)それは示されていません。 では、日本財政は破綻してしまうのでしょうか? しかし、実際そうはなっていません。この理由はなんでしょうか。 たとえば、藤井(2010)は、同様の検定を行った結果、90年代以降の財政収支と債務残高の関係に同じく「二次関数的」関係を見出しており、持続可能と結論付けています。 これを解釈するならば、小泉政権下での改革などによって、財政収支が(少なくとも一時的には)改善した可能性があります。井堀らの提言した「近い将来の財政赤字削減」は、まさにその直後に行われたのでした。… Continue reading 日本財政は持続不可能だった? Bohn検定による検証
やあやあ!我こそは(中略)なり!!!
はじめに動画の話をしよう。 お久しぶりです。一ケ月ぶりくらいですかね? さて、無事にロレンス解説、全四回が終了しました!(予定より一回多いのはナイショ) にしても、全然まだまだ紹介できるお話は残っているんですけれどね…… 例えばヒジャーズ鉄道の爆破の際に、導火線が短すぎて爆風をモロにくらって血まみれになったり、ロレンスの「人生初の殺人」を味方のアラブ部族のいがみ合いを解決するために決断して行ったりと本当にたくさんのエピソードがあるんですよ。君はもっと落ち着いて第一次世界大戦を生き抜くことはできないのか? そう、生き抜くと言えば、大戦に従軍したロレンスの兄弟たちはどうなったのかと言いますと。 ロレンスの弟であるフランクは1915年5月9日、フランス北部のアラスにて塹壕内にいたところ、爆弾の破片によって即死。 同じく弟のウィルは英国航空隊の監的手(砲撃の着弾観測)に志願し、1915年10月23日ウィルの乗った飛行機はフランス上空にて撃墜されて戦死。26歳の彼は前線に出て一週間という短さで天に召されてしまいました。 五ヶ月の間に二人の弟を失ったロレンスの心境は内向きとなってしまい、それから数ヶ月の両親に対する手紙は間隔があいていき、その内容もぶっきらぼうなもので、フランクの事は書かなくなり、ウィルの事は一回漠然とほのめかした以外はそれを認めた記録もないそうです。 参考文献とか貼っていきませう。 という事で、今回の動画に使用した参考文献です。 ・コット・アンダーソン 著 ・山村 宣子 翻訳 ・出版社 白水社 ロレンスがいたアラビア(上)・(下) はい、これだけです。 あとはフサインのウィキペディアを少々といった感じですかね?資料少なくて恥ずかしくないの?(恥ずかしい) 次は何をやるんだい!? 次の動画ですけれど……今度はお家芸ともいえる兵器開発なんかをやったりやらなかったりしようかなと、思ったり思わなかったりしています。 ですので、来月以降も適当に待っていただけると幸いです。
スティーヴさんが好きな漫画について語るだけ② 「アド・アストラ編」
どうも皆様こんにちは、お久しぶりです。作曲家をしていますスティーヴと申します。今回も例のごとく書くネタが見つからなかったので、私の好きな漫画について語ろうと思います。 ということで今回ご紹介する漫画はこちら!! 『カガノミハチ』様、著の、『アド・アストラ スキピオとハンニバル』です。スキピオとハンニバルと言うと、おそらく聞いたことがある人もいるでしょう。この漫画は紀元前ローマ、共和政ローマ時代の『第二次ポエニ戦争』を描いた漫画です。第二次ポエニ戦争というのは、紀元前200年頃に地中海沿岸に位置していた『共和政ローマ』と『カルタゴ』の間で起きた戦争です。この戦争は第一次、第二次、第三次と、計三回にわたって行われ、結果的に海洋貿易国家カルタゴは滅亡の一途をたどりました。このポエニ戦争は、世界史の教科書では一ページにも満たない、約三行ほどでしか語られていないのですが、調べてみたら意外と奥が深いものです。 現在このような形で世界史べーた(仮)様に所属して活動をさせてもらっていますが、実は私は一年ほど前は、文化史なんてもってのほか、歴史が大っ嫌いな人間でした。おそらく学生時代に古代史、中世史でつまずいてしまったのが原因だと思っています。ですがある時、Youtubeにて、この漫画でも登場する、『ハンニバル・バルカ』について語った漫画動画を目にしました。そして、私は少しですが、このポエニ戦争に興味を持ちました。そしてネットでこのポエニ戦争を描いた漫画、アニメはないものかと探していた中出会ったのがこの漫画でした。この漫画は、私の歴史好きへの扉を開いた漫画と言っても過言ではありません。今でも何度かこの漫画は読み直しています。 と、これ以上語ったらネタバレを漏らしかねないので、今回はこんな感じで締めようと思います。ご視聴ありがとうございました。 とても面白い漫画ですので、皆様も是非読んで見てください!! お相手は、作曲家:スティーヴでした。
日本の「インダストリアル」revolutionと「インダストリアス」revolution
日本の「産業革命」 皆さんは、「industrial revolution」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。日本語に訳せば「産業革命」です。 「バカを言うな、それくらい誰だって知ってらぁ」という声が聞こえて来そうですが、ちょっとばかしindustrial revolutionの話を聞いてってくだせえ。 「それはいいけれど、英語にしてるのがしゃらくさい」ですって? それにもちゃんと超重要な意味がありますから、しばしお付き合いをば。 さて、皆さんは、「産業革命」と聞いて、どんなものを思い浮かべるでしょうか。機械の導入、飛躍的な生産効率向上、労働者の誕生…… おそらくは「革命」という言葉に引っ張られて、まるで天地がひっくり返るかのような大転回をイメージしがちなのではないかな、と思います。しかし、この世の大概の物事については(クソデカ主語)、「革命」などと大上段から論じるのはナンセンスと言わざるを得ません。 むしろ、緩やかな、しかし着実な変化にこそ注目しよう……というのが、近年の政治史や経済史研究の潮流なのです。 極端な話になると、いわゆる産業革命否定論なんてのも出てきますけれども、とりあえずのところ、本稿では少なくともその時代に起きた進歩の行程は肯定してあげましょう。行程だけに。 在来産業「私のこと、忘れちゃった……かな。あはは……私、影薄いもんね……」 では、そのindustrial revolution、「産業革命」というやつはいつ日本で始まったのでしょうか。ほとんどの人は、明治期だろうと答えると思います。事実として、この時期の殖産興業政策などを経て、日本には機械化の波が押し寄せてきました。その結果、有名な富岡製糸場なんかがにょきにょき生えてくるわけです。 しかして、皆さんがイメージするような、でっかい機械がガッコンガッコン動くような工場労働というのを、みんながみんなやっていたわけではありません。 この辺りはマルクスファンクラブの皆さんが喧々諤々の議論をやっていらした分野で、彼らが言うには工場での機械工業の前に、「マニュファクチュア」(工場制手工業)という段階があるという話になっています。で、さらに彼らの議論を紹介するのですが、日本は幕末期には「厳密な意味でのマニュファクチュア」に達していたのではないかと言います。 厳密がどうこうってのについては神学論争が掃いて捨てるほどあったのですけれども、ともあれ、幕末期に一部では工場制手工業が見られていたのは事実です。 もしかすると勘の良い方は気づかれているかもしれませんが、この「一部では」という文句が重要です。というのも、結局のところ、「いっせーの」で工場が降ってきたり、機械がぽこじゃか湧いてきたりするわけがないんですよね。ファンクラブの方々が「マニュファクチュア」よりもさらに前段階だとしていた家内工業までも、明治期以降も随所にみられるわけです。なんなら、大隈財政期ころならば、工業製品の大部分は江戸期以来の技術によってつくられていたのです。 日本経済は、工場で機械を動かすような近代産業と、旧来の在来産業が併存しながら発展しました。在来産業は読んで字のごとく江戸期から存在した産業ですから、私たちが注目したい対象そのものです。 それでは、近代産業は江戸期からの連続性がなく、西欧からどんぶらこ、カイコクシテクダサーイとやってきただけのものなのでしょうか。もちろん違います。そこには江戸期からの連続性ももちろんあります。 それこそが、日本における近代産業発展の要因の一つ、industrious revolution(勤勉革命)なのです。 ただの言葉遊びなんだ。すまない 賢明な読者の皆様は既にお気づきのことかと思いますが、速水らが唱えた「industrious revolution(勤勉革命)」の「インダストリアス」は、「industrial revolution(産業革命)」の「インダストリアル」にかけているのです。だから、私は先ほど「超重要な意味」があると述べたのですよ。 ……あんまりこんなことをやっていると、そのうち批判的なトマトがカイコクシテクダサーイと飛んで来そうですので、本題に行きましょう。 速水らの主張は次のようなものです。 江戸期には、長時間の労働を行うことで生産量を高めるという「勤労」が、人々の間に広まりました。これは彼らが「独立した経済主体として行動し得るようになった」ことによるものであり、より具体的には、生産量を高めることで生活水準を高められる、という信頼が生まれたことによるものです。 何を当たり前のことを、そんなのオセアニアじゃ常識なんだよ! と仰る方もいるかもしれません。 たしかに、私たちはふつう、働けば働くほど豊かになると信じています。もちろん部分的にはそうでないこともありますが。たとえば3人分の仕事がなぜか1人に押し寄せているとか、それを下手に頑張っちゃうと補充が来ないとか…… んんっ、ともあれ、少なくとも社会の大部分にはその信念が成り立ちます。成り立つことにしておいてください。成り立たなかったら悲しいので。 ところが、前近代の、とくに農業セクターでは必ずしもそうではありませんでした。 というのも、「胡麻の油と百姓は絞れば絞るもの」などと言われたように、農業従事者のもとには最低限を残して、それ以外を全部年貢でとってしまう、というようなシステムも珍しくはなかったのです。 しかし、近代に向かうにつれ、「勤勉革命」が起きてゆきました。 そのためのひとつの画期は、速水らも提示している「定免法」の導入です。 それまでの、生産量に応じて年貢量を決める「検見法」に対して、毎年一定量の年貢を取るシステムを「定免法」といいます。すなわち、米俵で10俵と年貢が決まっていれば、15俵収穫しても、20俵収穫しても、あるいは100俵収穫しても、10俵以外は全部自分のものにできるのです。 これは経済学者の大好きな「インセンティブ」(動機)というものに他なりません。定免法は生産量を増やすインセンティブとして機能したと考えられています。 そして、生産量を増やせば、余分な分を生活水準向上に使ったり、あるいはさらに翌年の生産量を増やすための肥料を買ったり、なんてこともできるようになるのです。そこで、先に述べたような、「生産量を高めることで生活水準を高められる」という信頼が生まれます。これが「勤勉革命」です。 維新後の近代産業導入の中で、「勤勉革命」は様々な形で表出します。たとえば職工の勤労はわかりやすい例でしょうし、あるいは庶民の教育への意欲もこの文脈に位置づけられるかもしれません。 既成の経済成長モデルであるSolow-Swan modelなどは、もっぱら資本蓄積と技術進歩(と人口)に着目しますから、速水の労働力の投下への着目は非常に鋭い指摘だったのです(と私は思います)。 まとめにかえて 今回は、主に「産業革命」前後の連続性に着目して論じました。ただし、私が「一部」や「~もある」という言い方を繰り返してきたように、これらは連続性「だけ」で語れるものでもありません。そこには断絶だって存在しますし、さらには連続性と断絶性がミックスされたような分野もあります。 経済は複雑なのです。それを言っちゃあおしめえよ、という感じですが、論文一本や書籍一冊なんかで語り切れるものでは到底ありません。いわんやこんなブログをや。 けれども、他のブログでも言及したと思いますが、それを理解した上でどのような視角で見るのか、というのが大切になってきます。… Continue reading 日本の「インダストリアル」revolutionと「インダストリアス」revolution
『草燃える』はいいぞ。(おすすめ大河ドラマ紹介 第1回)
※今回は、とある大河ドラマ紹介文です。 ネタバレ注意! こんにちは、いのっちです! 「世界史べーた(仮)」開設からはや半年近く経ちました。 少しずつ活動の幅も広がり、チャンネル登録者も増えて嬉しい限りです♪ 今日は私が歴史好きになった理由の一つ「大河ドラマ」の御紹介をさせて頂きたいと思います。 といっても好きな作品は山ほどございますので、今回は現在放送中の『鎌倉殿の13人』と同じく、鎌倉幕府草創期を描いた作品『草燃える』(1979年[昭和54]放送、草生えるじゃないよ)を紹介します! (リアルタイムで視聴していたわけではなく、総集編を観たことがあるだけですが💦) 『草燃える』は永井路子さんの小説や随筆が原作で、「源頼朝」と「北条政子」夫婦を主人公に「頼朝の挙兵」から「承久の乱」までを描いた作品です。 まさに『鎌倉殿の13人』と同じ時代ですね♪(主人公は違いますが) おそらくこの作品を観たほとんどの方が最初に抱く印象は「口調の癖が凄い」でしょうね。 そう、この作品の登場人物(主に東国の人々)は時代劇口調ではなく、露骨に現代口調で話すんです。(「嫌だわ、お姉さま♪」「あらごめんなさい♪」みたいな感じ) 他にも権力者が女性を手籠めにする、男色、盗賊によるカニバズムなどの描写も好き苦手が分かれそうなところですね…💦
やあやあ!我こそはロレンス(中略)なり!!!
はじめに お久しぶりです。ニケ月ぶりくらいですかね? なんか二ヶ月の間に同人誌即売会に二回ほどサークル側で参加していたらいつの間にかこんな時期になっていました。なんか早いですね、時が経つのって ちなみに9月にも即売会に出る予定です。会場でジークさんと握手だ!!! そんなことより、動画の話をしよう そうです。動画の話ですよ。 といっても前回は第一次大戦序盤、発言力が無かったばっかりに傍観者でしかなかったロレンス君。 それが今回では、自信のあるアラビア半島でのゆめ作文が思ったより評判が良く、本人は不本意ながらもアラビア半島へ行くって感じですね。 ちなみに、動画では尺の都合でほとんど触れていませんけれど、ロレンスがアラビアでフサインの息子たちに会っている間、どっかのカエル国家が虎視眈々とアラブの土地を狙ってたり狙ってなかったりするんですよね。 そして、そんなカエル君の右手には悪名高き英国三枚舌外交の産物「サイクス・ピコ協定」が…… この時期になってくると同盟国である英国ですら眉を顰めるほどフランスのアラブに対する領土欲が露わになってきます。なんせ本土の北部がジャガイモ国家と地下足袋だけになって泥遊び(総力戦)してたら砲弾や毒ガスまみれでもうめちゃくちゃですからね、その補填としてオスマンの土地を欲しがったのでしょう。知らんけど。 そのせいでロレンスもなかなかに妨害されたりされなかったり……(ここら辺も動画に出せたらいいな。多分無理) そんなわけで、恐らく次回にはロレンスの解説動画も完結になる予定です! ……終わるよね? 終わらなかったら7月も画面の向こうでジークさんと握手だ!!!!!
歴史総合について
2022年度から学習指導要領が大きく変わったのはご存じでしょうか?新しい指導要領ではすべての教科に「主体的・対話的深い学び」が重視され、歴史分野では「歴史総合」が必修化されました。 中学、高等学校において社会科、地歴科は「暗記科目」であると考えられてきました。この歴史=暗記科目から脱却するのために近現代の世界史と日本史を統合して「歴史総合」が生まれました。この教科では知識を学ぶだけではなく、知識を活用して歴史的思考力を身につけさせることが求められています。 歴史総合の教科書では、最初の章において「近代とは何か」という問いが設定されています。皆さんにおいて、近代というのはどのような時代だと思いますか?色々な観点があると思いますが、私は時間という概念が大きく変化した時代だと思います。今日、私たちは時間に縛れています。学生は授業時間、社会人は就業時間を意識して生活を送っています。それは、工業化が進み、時間規律を重視した労働慣行が成立したことが背景にあります。そして、この変化には学校教育も大きな役割を果たしてきました。 明治時代の小学生徒心得には次のように書かれています。「第二条 毎日参校は授業時限10分前たるべし。第七条 もし授業の時限に後れ参校するときは、みだりに教場に至るべからず。遅刻の事情を述べて教師の指示を持つべき事」 「時限に後れ参校する」というのは、今風に言うと「遅刻」するということです。つまり、労働条件の変化、学校制度の進展などを通じて、時間規律が強化されて、その結果「遅刻」をするという概念が生まれたのです。 さて、長くなってしまいましたが、これからも進化を続ける世界史ベータを今後ともご贔屓のほどよろしくお願いします。
男いのっち一人旅! in 鎌倉 その3(お墓参り編)
さあ前回のブログ(リンク)の続きです! 約1か月ぶりの続編投稿になってしまい大変申し訳ございません💦 「鎌倉弾丸旅行記」は今回がラストになります!✨ 「鶴岡八幡宮」の正門をくぐると正面に広がっているのは参道にあたる「若宮大路」です(何故か写真紛失という大失態💦)。 因みに大路の中央、一段高くなっている歩道は「段葛(だんかずら)」。頼朝が妻・政子の安産祈願の為に御家人たちに築かせた道が原型になっているそうです。 因みにこの「若宮大路」、ただの一本道というわけではなく、八幡宮側に近づくにつれて「道幅が狭く」なっております。「遠近法」を利用して実際以上に距離を長く見せているとか。ほえ~ それはさておき、一旦八幡宮の東側に徒歩で向かいます。「頼朝時代の御所(大倉幕府)」があった方向ですね(現在は小学校になってます♪)。 というわけでまずは「源頼朝」のお墓(いきなりのビックネーム)! 住宅地の奥にある丘の上、そこまで目立つ場所ではなかったのですが、大勢の観光客の方がいらっしゃってました。大河パワー恐るべし!✨ 更にその付近には「北条義時」や「大江広元」など御家人たちのお墓がありました! 反抗的な御家人たちが多い中(ドラマ設定)、頼朝を献身的に支えている御二方は、今でも鎌倉殿の側で眠っているんですね♪ 主人公の義時は勿論、広元もドラマ終盤まで活躍する重要人物ですのでこれからの活躍に注目です! さあ、次は八幡宮を挟んで反対側(西側)に徒歩で移動します。そろそろ足が悲鳴を上げ始めました…💦 次の目的地は鎌倉五山の第三位「寿福寺」です。 「北条政子」が、頼朝の父「源義朝」の館があった場所に建てた禅宗のお寺です。(例によってコロナの為に御朱印は頂けませんでした…) このお寺には「北条政子」とその次男「源実朝」のお墓があります(裏手の山腹)。頼朝と違う場所にお墓があるのはちょっと意外でしたが、息子と一緒なら寂しくないでしょうね。 頼朝夫婦は八幡宮を挟んで東西から今でも鎌倉の街を見守っているのでした(しみじみ)。 最後に徒歩で向かった(本日最長の距離)のは、有名な「鎌倉大仏(高徳院)」です。 鎌倉を代表する寺院ですが、実は誰がどういった経緯で建立したのかよく分かっていないミステリアスなお寺だったりします(鎌倉時代に建てられたのは間違いないようです)。 あと現在大仏様は野ざらしですが、かつては大仏殿があったそうです。 この時点で足は限界、時間も迫っていましたので今回の「鎌倉弾丸旅行」は終了となりました💦(心地よいクタクタ)。 それぞれの場所は巡って歩き回る間にも「和田義盛」や「畠山重忠」など大河ドラマにも登場する人々ゆかりの地を偶然発見するなど、街中至る所が歴史を感じる場所で、九州民の私としては非常に貴重で楽しい時間を過ごすことが出来ました♪✨ 実は、今月末に再び関東への出張が決まっておりまして、その際はまた「旅行記」のようなもの執筆できればと思っています。 それでは今回はここまで。 最後までお読みいただきまして、本当にありがとうございました!✨ 〇(><)
道真第二回の参考文献と、寛平遣唐使問題の諸説
文人官僚の限界を超えて♪ 道真は来たんだよ おひさしぶりです。「みっちざねにしてあげる♪(してやんよ)」という曲(捏造)が頭から離れない※(米印)です。 菅原道真解説の第二回、ご覧いただきありがとうございます(見ろよ、という圧)。 さて、今回は文献紹介と補足解説を行っていきます。前回も言いましたが、私は平安期日本史の専門家ではありませんので、参考程度にしてくださいね。 参考文献紹介 渤海使関連 上田雄(2004)『渤海国 東アジア古代王国の使者たち』講談社学術文庫。 ※文庫本なのでお手軽。渤海使の基礎情報はほとんどこれが網羅しています。ちなみにこれは1992年の『渤海国の謎 知られざる東アジアの古代王国』(講談社現代新書)を元にした本なので、どっちかが見つかればぜひ読んでください。 古畑徹(2018)『渤海国とは何か』(歴史文化ライブラリー 458)、吉川弘文館。 ※渤海の国自体についてはこれがおすすめです。ただ、渤海使についてはそこまで詳しく扱っていないのです…… 上田雄(2002)『渤海使の研究 日本海を渡った使節たちの軌跡』明石書店。 ※専門書です。各回の渤海使(違期入朝含む)を詳細に記しています。ちなみに都言道くんの下心もこれのおかげで知りました。 寛平遣唐使問題 渡邊誠(2013)「寛平の遣唐使派遣計画の実像」『史人 5号』広島大学大学院教育学研究科下向井研究室。 ※論文です。増村~石井の議論がよくまとまっています。寛平遣唐使問題に興味を持った方はまず読んでみてください(リポジトリに公開されているので無料で読めます) 石井正敏著、村井章介、榎本渉、河内春人編(2018)『遣唐使から巡礼僧へ』(石井正敏著作集 第二巻)、勉誠出版。 ※石井の論文集です。「いわゆる遣唐使の停止について」と「寛平六年の遣唐使計画について」、それから「寛平六年の遣唐使計画と新羅の海賊」が寛平遣唐使問題を扱っています。「いわゆる~」は「其日」問題、「~新羅の海賊」は「新羅賊」説まわりの否定なので、もし個別に論文を探すなら「~計画について」(道真の二つの文章の読解)をどうぞ。 増村宏(1988)『遣唐使の研究』同朋舎出版。 ※結構古いですが、だいぶ先進的な議論を行っています。ただし、他説批判がメインなので増村自身の説は見えにくいかもしれません。だいたいの古い説は「増村を見ろ」で終わります(え 滝川幸司(2019)「菅原道真と遣唐使(一) 『請令諸公卿議定遣唐使進止状』『奉勅為太政官報在唐僧中瓘牒』の再検討」『詞林 65』大阪大学古代中世文学研究会 滝川幸司(2020)「渡唐の心情は詠まれたのか 寛平の遣唐使と漢詩文」『語文 115』大阪大学国語国文学会。 ※滝川先生の論文です。直前までこれに気づかずに作ってしまって、「まぁどうせそんな変わらんやろ」と読んでみたら論理でぶん殴られてしましました。上のやつはweb上で公開されてますので、ぜひ読んでみてください。 道真の再検討要請の理由の諸説(紹介しきれなかったもの) 鈴木靖民の「新羅賊」説 石井らが否定。そもそも、史料を素直に読めば道真が理由にしたのは「唐に着いてからの困難」だったはずなので、唐に着く前(渡航)を問題にするのはナンセンスだと私は思う。 「大義名分説」や「社会経済説」などなど。 増村によくまとまってるからそっちを読んでください……でよろしいでしょうか。早期の説なのでちょっと…… 「藤原氏陰謀説」 藤原氏が道真を遠ざけようとして、というのは明らかに無理筋。ただし、個人的には、本編で述べたような「意思疎通不足」は陰謀に求めることもできなくはないのかなと思ったり。というのも、道真は結構全方面から嫌われていたので(悲しい)、宇多の近臣に道真を疎む者が居てもおかしくはない。ただ、あえて陰謀があったと考える必要性は薄いと思う。 ほか、私の個人的な雑感 滝川は遣唐使再検討の根拠は「中瓘の録記」と断じているが、個人的には早計な感がある。道真が個人的に持っていた伝手を辿ったり、(場合によってはあまり公にできない)商人などから得た情報をもとにしていた可能性は考えられる。その場合は森説に近いものがあるのかもしれない。 ただ、中瓘録記未読説を取らないなら、中瓘の録記で既に渡唐停止を勧めているわけで、それ以上に何か決め手となる情報とは一体なんぞや、という疑問は残る。やはり本編で出したようなコミュニケーション不足に求めた方が無難な気が……しかし根拠はないわけで。やっぱりわからん。 今回は寛平遣唐使問題をかなり深堀りできたと思います。たぶん最新研究とそこそこ同じ景色が見られているのではないかと。ただ、そのせいでちょっと次回の目途が立っておりません……6月に投稿できたらいいなぁ……(そして今回に比べたら薄味でも許して下さい。むしろ今回が異常なんです)