紫電改part1参考資料兼一部詳しく 今回は紫電改解説動画part1の参考資料や動画ではマニアックすぎた内容の一部をご紹介します。 参考資料 ・碇義朗「最後の戦闘機 紫電改 起死回生に賭けた男たちの戦い」光人社 ・野原茂「海軍局地戦闘機」潮書房光人新社 ・海鳥の今までの取材内容一部 非公開の内容 紫電改の改造前機「紫電」では元になった十五試水戦(強風)から多くの変更点がありました。こちらは動画でご紹介しました、発動機、カウリング形状、側面形、垂直尾翼周辺など多くの変更点がありましたが動画で紹介していないものでは、「水銀式センサー自動空戦フラップ」、「操舵比変更装置」はさらに改良を重ねたものを搭載していました。 水銀式センサー自動空戦フラップ 水銀式センサー自動空戦フラップとは、フラップを空戦時に下ろし揚力を高め、旋回半径を小さくする、すなわち運動性能を向上させる空戦機動を”自動的に”最適の舵角をとれるようにしたものです。 作動のメカニズムは、発信機と称した、センサーの下部にある水銀槽の中の水銀が、ピトー管から入る静圧、動圧、および、旋回時の機体にかかる重力によって、上方に伸びる硝子筒の中を上下動します。 この上下動により硝子筒内の二つの電極に水銀が触れると電流が流れ、フラップが作動するメカニズムになっていました。 ちなみに、フラップの最大下げ角は30度となっており、零戦の60度に比べると半分ほどしかありません。 この自動空戦フラップに加え、川西技術陣が、操縦系統に採り入れたメカニズムがもう一つの技術「操舵比変更装置」です。 操舵比変更装置 通常、航空機は高速になるにつれ、各動翼の受ける風圧も強くなり、操作が重く、強い力が必要となります。速度が上がれば舵の動きが少しでもよく効くようになります。 逆に低速飛行時は、舵の受ける風圧が弱いと、操作が軽く、強い力を必要としなくなります。しかし、舵を大きく動かさなければ舵は効きません。 零戦の場合、各操縦索を通常よりあえて細めにし、剛性を低下、つまり伸びやすくし、一定の操縦感覚にしていました。 これを零戦より1tも重い紫電、紫電改で採用するのは不遇であったので、川西航空機は「操舵比変更装置」を作りました。 これは、操縦桿、および方向舵踏棒と昇降舵、方向舵操作索の間に、油圧で連動桿の固定位置を移動できる操舵比変更部を組み込み、フラップの動きに連動し、離着陸時(低速)、飛行時(高速)の二段階に切り替わるようにしたメカニズムです。 これにより、低速飛行時は操縦桿。方向舵踏棒を少し動かすだけで大きな舵角がとれ、高速飛行時はその逆になる、まさにパイロットにとって理想的な操舵感覚が得られました。 実はこれらの「自動空戦フラップ」、「操舵比変更装置」は当時の欧米各国に例がなく日本航空技術として十分誇れるものでした。すごいね 武装 強風 7.7mm機銃二梃 20mm機銃二梃 紫電、紫電改 20mm機銃四艇 上記のように20mm機銃四艇に武装が強化されていました。 まとめ 紫電改part2は紫電→紫電改まで行ければいいなって思ってます。頑張ります。 今週土曜日は神戸に撮影に出かけ「神戸戦跡巡り動画」を作ります。こちらはリアル映像なので私のチャンネル「海鳥のカフエラテ(カフェラテ)」で投稿します。こちらのチャンネルでは毎週土曜日21時から競馬予想配信してるので是非~ 紫電改part1もぜひご覧ください!
Category: 年代
それでもケインズは死んでいる。
いいかげんケインズ経済学をやめよう 今回のブログは、どちらかというと私の思想(?)的な部分が結構出ております。ただ、これはどちらかといえば経済学の世界では主流の考え方ですので、そんなに偏った思想にはなっていないはずです。というかむしろ現実世界が偏りすぎ(は?)。 まぁ前置きはこの辺にしまして。タイトルの通り、「ケインズはもう卒業してくれ」という話です。 ただ、それだけでなく、「なぜケインズが過度に持て囃されるのか?」ということにも触れてゆきます。その辺で少しばかり経済政策史に触れますから、「歴史」の一部ということでお許しくだせえ。 ケインズの理論は、「ケインズ革命」以来かなり長いこと力を持っていました。もしみなさんが経済を学んでいる学生さんなら、学部1年生で習う「IS-LMモデル」などが有名なケインズ的なモデルです。 そのようなモデルも、もちろん、ごくごく初歩的なインプリケーションについて、平易に説明するという意味においては使用することもあります(実際、私も「日銀の金融政策」の動画の補足解説ではIS-LMモデルの解説を行いました)。 ただし、経済学の世界においては、現在IS-LMをはじめとした旧来型のケインズ的モデルが用いられることはありません。 これはもうほとんど断言してしまってよいことだと思います。いわゆる「ルーカス批判」を経て、今は「ミクロ的基礎付け」に基づくマクロ経済学モデルが主流となっているのです。 もっとも、名前の上では「ニューケインジアン」という立場があり、現在もかなりの影響力を持っている学派(有名なDSGEモデルはニューケインジアン的なモデルです)ではあるのですが、彼らもまたミクロ的基礎付けの上に立っています。決して、彼らがIS-LMモデルを採用して議論を行っているわけではないのです。 (なお、この記事で「ケインズ」とか「ケインジアン」というときは、原則として旧来型のケインズ的な立場を指すこととします) そのような意味において、間違いなくケインズは死にました。 ところが、驚くべきことに、経済学から一歩外に出ると、いまだにケインズが大股で闊歩しています。 それも、ケインズの限界を知った上で、妥当な範囲の含意を得るために使われているのならばよいのですけれど、残念ながら、いまだにまるで万能薬かのように使われていることが多いのです。 といって、私も彼らをあれこれと非難しようというわけではありません。そこには興味深い(イギリス風味)構造的な問題が存在するのです。それは後に触れましょう。 ケインズ、そもそも生きていたのか? ここで、改めてケインズの死亡確認を行っておきましょう。 ケインズ理論が(短期的に)財政支出や減税を正当化する根幹は、「乗数」にあります。 財政支出と減税では若干の違いがありますが、結局のところは「100万円支出したら、100万円より大きな経済効果があるんだ!」ということを、ケインズ(およびその後継者たち)は主張しました。 もしそれが本当なら、たしかに魅力的な提案です。 が、多くの実証研究が示すのは、その乗数は「1」未満であるということです。 ケインズを信じる人々には残酷な話ですが、「100万円支出しても、100万円より小さな経済効果しかない」というのが、事実なのです。 たとえば、コロナ禍における例の10万円の給付金は、3.5兆円の経済効果があったと言われます。 しかし、給付金は1.2億×10万円ですから、支出は12兆円。つまり、乗数は「0.3」程度です。 さらに悪いことに、この給付金はインフラなどへの投資と異なり、公共財の供給という観点からは正当化できず、一方で所得減税のように労働のインセンティブの観点からも正当化できません。 平たく言ってしまえば、これは失敗でした。 他の例、たとえば戦間期の諸国でもまた、ケインズは生きていなかったようです。 「ニューディール」の効果は、最近になって見直しが進み、想定されていたよりもずっと小さなものだったと判明しています。 ドイツの経済が復活したのはケインズ政策ではなく、通貨の安定が最も重要であった可能性が高いと見られています。 そして日本も、「高橋財政」成功の要因は通貨レートの(疑似的な)切り下げが功を奏したのだという意見が出てきています。 (申し訳程度の歴史要素。でもこの辺の研究はすごく活発で面白いので、よければぜひ) もはや、現在においてケインズが死んでいることだけでなく、「そもそもケインズは生きていたのか?」(有効であったことはあったのか?)という話にまで発展してしまうのかもしれません。 「大きな政府」というケインズ主義、「小さな政府」というケインズ主義 皆さんは「大きな政府」と「小さな政府」という言葉をご存じでしょうか。 政治学の方に怒られるのを承知でざっくりと言うと、文字通り大きな政府は色々なことを政府がやって、小さな政府は色々なことを民間に任せるスタイルです。 誤解して欲しくないのですが、これはどちらが良いとか、どちらが正しいとかいうものではなく、単なる政治的な態度の区別です。最もわかりやすいのがアメリカで(毎回アメリカの話してる気がするな?)、民主党は「大きな政府」、共和党は「小さな政府」をそれぞれ志向する立場に立っていると言われています。 ここで皆さんに質問です。民主党と共和党、つまりは「大きな政府」と「小さな政府」、ケインズと親和性が高いのはどちらだと思いますか? たぶん、多くの人は民主党の「大きな政府」だと答えると思うのです。ニューディールなんかも民主党でしたからね。たしかに、民主党はケインズ的政策を重視し、行ってきました。 ところが、実際の所、共和党もまた(場合によっては、意図せざる形で)ケインズ政策を繰り返してきたのです。 これは、共和党が「小さな政府」を放棄して、「大きな政府」を志向したということではありません。 むしろ、「小さな政府」のための政策――減税――こそが、本質的な小さな政府主義者にはおそらく不本意な形で、ケインズ政策として機能してきたのです。 … Continue reading それでもケインズは死んでいる。
マイナーローマ人紹介 そのⅠ(ティベリウス)
どうも~、いのっちです♪( – ω – )♪ 約3ヵ月ぶりのブログ参戦ですね~ さて、何書こうかしら… おや? 今月19日(4日前)は「アウグストゥス(ローマ帝国初代皇帝)」の命日じゃないか。 よっしゃ、古代ローマクラスタ(自称)としては語らない訳にはいかねえよなぁ? というわけで2代皇帝「ティベリウス」の話をします!(ここまで前振り) まあほとんどの方が「who?」となっていることと思いますが。 (どの世界でも言えることですが、2代目って大体影が薄いですからね~) 今回は個性派揃いのローマ皇帝たちの中でも、個人的にお気に入りの一人である彼について少し語ろうかなと思います。(アウグストゥスくん、ごめんね) 一言でいえば彼は「色々と不憫だった陰キャ」です。 (あくまで私個人のド偏見ですが)。 たぶん、本人は皇帝になんてなりたくなかっただろうし、帝国の為に尽くしても各方面から不満の嵐だし、心の癒しになり得る家庭は完全に崩壊してるし… (ほんとにもう、よく最後まで匙を投げなかったねというレベル) ティベリウスは共和政時代から続く名門「クラウディウス一門」に生まれます。そのままでも貴族の御曹司として裕福な一生を送れたんでしょうが、5歳の時に母が「オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)」と再婚したことで彼の人生は一変しました。 初代皇帝の継子となったティベリウスは内政や軍事、外交など皇帝一族の一員として様々な経験を積んでいきます。 ただしアウグストゥスは自分の血を引く者を後継者にすることに執念を燃やし続けた人だったので、彼は後継者候補とは見做されてなかったわけですが。 そして、この「継父の執念」がティベリウスの人生を狂わせます。 アウグストゥスは、あろうことかティベリウスを無理やり離婚させ、自分の娘と無理やり結婚させました。 元の妻を心から愛していたティベリウスは相当ショックを受けたようで、街中で彼女を見かけたときは涙を浮かべたといいます(可哀想)。 そんな経緯もあってこの結婚は長続きせず、彼は妻と別居して隠居、エーゲ海のロードス島に引き籠ります(引き籠り1回目)。 権力争いに巻き込まれると命の危険もあるという理由もあったんでしょうが、彼の性格的に家族に振り回されること自体が嫌だったんでしょうね。 ロードス島では趣味を嗜みながら悠々自適に過ごしていたとか(羨ましい)。 まあ、そんな生活もアウグストゥスにぶち壊されるんですが。(アーくんさあ…) 血の繋がった孫たちに先立たれてしまった彼は、ティベリウスを後継者に指名したのです。 まあ、正確にはアウグストゥスの親戚の若者が成長するまでの中継ぎ扱いだったわけですが。(遺言の中でも「かわいい孫たちに先立たれたので、仕方なくティベリウスを後継者に指名した(意訳)」といわれる始末) 無理やり引っ張り出しといてそれはないぜ、アーくん… ともあれ「2代皇帝になってしまった」ティベリウスですが、即位早々に様々な難問に直面します。 例えば30年以上一進一退を繰り返していた「ゲルマン人との戦争」 自国の被害も甚大だった泥沼の戦争を終わらせるべく、ティベリウスは「ゲルマニア(ゲルマン人の居住区)」からの撤退を決断するのですが、そのせいで「情けない皇帝」だと元老院や市民たちから不満を抱かれてしまいます。 更に故アウグストゥスの積極財政の反動で破綻しかけていた財政を立て直す為に、市民への見世物などの膨大な支出を徹底的に削る、いわゆる「緊縮政策」を断行するのですが、「ケチな皇帝」だと一層評判を落としてしまいます。 帝国的には必要なことをやっているのに、支持率はどんどん暴落する一方… なんというか政治ってホント難しいですね💦… Continue reading マイナーローマ人紹介 そのⅠ(ティベリウス)
【うみどり旅行記】東京放浪の旅
お久しぶりです。海鳥です。先日東京に行ったのでその話でもしましょうか。 と言いましても特にこれといったことはしてないんですが… いざ東京へ!~東海道本線終点「神戸」~ 今回の旅の始まりは東京駅から続く589.5kmの鉄道路線の終着点、兵庫「神戸駅」からスタートです! このいかにも古そうな駅舎をしており東京駅や上野駅を感じさせるのが東海道本線の終点として古くから多くの優等列車の停車駅となっていた「神戸駅」です。 この建物は1930年に建築され神戸の駅舎としては三代目となっています! 実は神戸駅のある神戸線は戦前より高架区間になっている路線で現在まで当時の橋脚や駅舎、ホームが使われています。そのこともあって神戸、元町、三ノ宮、阪急神戸三宮の駅では戦争の傷跡が見れたりします。こちらはまた機会があれば動画にします。 そして今回神戸に寄ってますが目的の駅は二つ隣の三ノ宮。この神戸では写真を撮ってお別れです。 まさかの遅延!?~出発編~ というわけで神戸の二つ隣にある三ノ宮はすべての列車が止まる駅になっているので関西の化け物普通列車「新快速」にのり三ノ宮へ。まだ時刻は21時私が乗る列車の案内表示はまだありません。まだまだ時間があったので近くのネットカフェに入り一人カラオケをしていました。 これがまさかのめちゃめちゃいい場所を見つけました!三ノ宮、阪急神戸三宮のホームを真上から眺めることができました!鉄道好きにはたまらないのではないでしょうか?私も見ているだけで飽きませんでした!しかしネットカフェの”喫煙所”というのがネック…喫煙者ではないと入りにくいですよね… そんなこんなで時間になり三ノ宮の駅に向かうと… まさかの遅延!って言っても10分ですけど。この前日には2~3時間遅れで東京に到着したみたいですしまだマシな方です。(実際にホームに入線したのは20分ほど遅れてましたが…動かしてもらってる分に文句は言えません!それも旅行の楽しみです!) と思っているとやってきました!私の乗る寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」号です! 特徴的なX字のライトを煌々と照らしながら列車は入線してきます! 来たら早々に乗り込み自分の部屋に向かいます!今回私が予約した部屋はシングルでお値段は寝台料金7,700円+乗車券9,460円で17,160円でした。新幹線より少し割高にはなりますが、東京駅に朝7時に到着するので朝から動けるメリットがあります! 窓がでかく景色がよかったですね。 三ノ宮を出発すると次は大阪に向かいます。そして大阪を出発すると次の停車駅は静岡です!まさに新幹線!しかしその何倍もの時間をかけながらゆっくり東京へ向かいます。静岡に到着は4時40分です。夏の時期だと日が昇りだし朝のきれいな富士山が見ることができます。 そんなこんなでだんだん町が大きくなり気が付けば東京です! 暑さに負けず横須賀観光~ほぼ敗北~ 二日目暑さに負けず横須賀に向かいます。横須賀バーガーを食べ、三笠を見て、帰る。過密スケジュールで行きあまり観光できませんでしたが場所の様子見はできました。また行くと思うのでその時は資料集めを行いたいですね。 新宿で遊び秋葉原へ~オタクをする海鳥~ 横須賀から新宿に向かい二日目は新宿で宿を取りました。夜はかなり人が多く楽しくご飯を食べることができました。 次の日昼から秋葉原に向かいオタクしてきました。東方projectの原作ゲーム「東方紺珠伝」、オリジナルサウンドトラック「蓬莱人形」を手に入れることができました! 帰りは成田空港発の航空機なので上野から京成電鉄さんのスカイライナーに乗りました!日本で新幹線以外の鉄道では最速の160kmで走ります! まとめ 今回はあまり横須賀に滞在できなかったのでまたの機会に全力で楽しみます! 東京は観光もいいですがショッピングが楽しかったのでまた行きたいです。次回のブログでは兵庫県の鶉野飛行場について書くか神戸周辺の戦跡についてまとめるかもしれません。まだ神戸にも慣れてないのでこれから慣れていきたいですね。 そして私事ではありますが映画の脚本も再開しました是非そちらもTwitterやどこかで公開するのでよろしくお願いします! では最後までありがとうございました!
19世紀後半に中国に銀が入るようになったワケ
18世紀後半に、アジア海域で盛んに用いられていた銀貨は、スペイン領メキシコで鋳造された八レアル銀貨 (別名ドル) でした。乾隆時期の清の好景気は、海外貿易の収支決算が黒字で、スペイン銀貨などが国内に流入していて貨幣が豊富にあったことが背景にあると考えられます。清代に流通していた貨幣は、銅貨と銀でした。清朝は、比較的少額の取り引きに用いられる銅貨だけを鋳造していました。 これに対して、清朝は銀貨を鋳造せず、銀は塊にして用いられ、その価値は主に純度と重さに基づいて決まっていたのです。ただし、スペイン銀貨は、中国市場で歓迎されて、ややプレミアムがついて高めに評価されていたようです。19世紀初め、世界的に銀貨の不足が問題となり初めていました。その理由については、諸説があって論争が続いています。一説では、当時 最大の銀産地だったラテンアメリカのスペイン領において独立運動が進んで、銀の生産や銀貨鋳造に影響があったとも指摘されています。 こうして、広州で茶などを買い付けていたイギリス商人は、銀貨の入手が困難になり、代わって禁制品のアヘンを密輸しようとしたのです。南京条約の後に上海などが開港されたあと、決済手段としての銀が足りず、中英貿易が物々交換 (バーター交易) によって行われることもありました。しかし、19世紀半ばにカリフォルニアおよびオーストラリアで金山が発見されると事態が大きく変わります。 欧米では金貨も用いられるので、金が豊富にあれば銀はそれほど必要ではなくなります。しかも、銀の世界的な産出量も回復してきました。このようななか、中国では依然として銀を貨幣として用いていたので、銀は中国に集まってきやすいことになりました。19世紀後半には、銀の価格は下落していくので、銀を貨幣とする中国からの輸出には有利で、特産品 (茶・生糸)の貿易も順調に進みました。 それでも中国の貿易収支は赤字だったものの、欧米による投資や華僑による送金のため、結局は、中国に銀が流入することになったのでした。このように銀を貨幣として用いることは、1930年代前半まで続きました。1935年、国民政府は幣制改革を行い、銀ではなく特定銀行の発行する紙幣 (法幣) を流通させることで、新たな貨幣制度を作ろうとしたのでした。
ハワイ料理がおいしい! 飯テロの話
飯テロがしたいです みなさんはハワイに行ったことはありますか? 私はハワイどころかアメリカの地を踏んだこともなかったです。 今回はたまたまハワイに行く機会があったので、とりあえず飯テロがしたいハワイの料理についてご紹介します。今回訪ねたのはハワイの中でも一番知名度の高いオアフ島でしたので、オアフ島の文化も少し交えながら飯テロをしていければと思います。 マヒマヒ 日本にも居る魚「シイラ」をグリルやソテーしたお料理になります。魚の名前がそのまま料理名になっていて、シイラはハワイ語で「MAHI MAHI(強い 強い)」という名前になります。高級魚に分類されるシイラは成魚では1.5m〜1.8mほどになるようです。もうそれってほぼ人間サイズでは? 日本では高知でよく食べられているそうですね。 白身魚なのでクセが少なく、ジューシーな食べ応えのある身に濃厚なホワイトソースがかけられていました。ハワイでは魚が出ると大体レモンかライムが添えられるのですが、量が多いのである程度食べたところで柑橘系のものを絞ると、程よくさっぱりとした味に味変できて良いですね。 ハワイでは白米も食べられているので、お米がついています。日本からの移民が多かったこともあり、今でもプレートランチにはお米が添えられることもあるようです。 パイナップルが添えられているのですが、このパイナップルはオアフ島のドールプランテーションから来ているようで、この1切れで満たされるほどの新鮮で甘いものでした。 ガーリックシュリンプ ハワイの代名詞とも言えるほど有名なガーリックシュリンプですが、本場のガーリックシュリンプはガーリックがしっかりと効いていて、スパイスの存在感が強いです。 そもそもハワイでガーリックシュリンプが人気料理になったのは、ハワイ オアフ島の北部カフクで1970年台に海老の養殖を始めたことがきっかけです。とれたてのエビにオリーブオイルと大量のガーリックをなどで味付けしたB級料理が広まって今にいたります。養殖しているから食材に困らない、うまい特産料理ですね。 今ではお店ごとにエビとガーリックを使う以外は大胆なアレンジをしているようで、使っているスパイスもソースもどこで食べるかでかなり違います。他店との食べ比べをする観光客も多いとか。 余談ですが、ガーリックシュリンプやエビチリのようにエビに味を染み込ませたい料理に関しては、エビの背に沿って包丁をいれると良いとされています。味がよく沁みる上にくるりと丸まって可愛くなりますよ。 ハンバーガー ハワイもアメリカの一種ですので、もちろんハンバーガーがおいしいです。 バンズの上に棒が刺さっているのは、ウェイターさんが運ぶときにあまりの具の多さにバーガーが崩れてしまわないようにするためのようです。写真の撮り方でわかりにくいですが、実はこのバーガー、手から簡単にはみ出るぐらい大きくて、齧り付くのが大変なぐらいのサイズでした。 (コメントが少ないのはあまりの質量に食べるのが大変だったからです。美味しかったです) ポケ・ボウル ポケ(ハワイ語:poke)は”切り分ける・スライスする”を意味する言葉で、切り身魚を白米にのせたものをポケ・ボウルと言うそうです。日本のマグロ丼のような醤油ベースの味付けのものから、ハワイらしい香辛料の効いた味付けのものまで多種多様な味のものが販売されていました。 ハワイ語での表記から察せられるように島国のハワイには生魚を食べる習慣が古代からあったようです。元々は採れたての魚に塩や海藻を混ぜていたものを、西洋から持ち込まれた玉ねぎや日本や中国から持ち込まれたごま油や醤油を使うようになり今の形になりつつあるのだとか。 写真のものは日本出身の方が経営される「マグロブラザース・ワイキキ」さんで購入したポケ・ボウルです。マグロにアボカドが合うのは最早常識ですが、それに辛味の効いたスパイスとライムの酸味の組み合わせがたまらない逸品でした。 パンケーキ&コーヒー パンケーキの発祥は本当にハワイなのか(?)という議論はパンケーキの定義によって意見が分かれることでしょう。しかし、一般的に先日日本で流行った所謂”パンケーキ”の発祥はハワイであります。 (森永のホットケーキ粉で作ったホットケーキに比べると)少し脂分が多い生地にクリームやシロップ、バター・果物を添えていただきます。 写真は世界3大コーヒーと言われるハワイ原産のコナコーヒーで有名な「ホノルル コーヒー エクスペリエンス センター」さんでいただいたパンケーキになります。店内に充満する挽きたてのコーヒーの香りと、ハンドドリップでいただくコナ・コーヒーの組み合わせがとても素敵でした。(尚、コナ・コーヒーの写真は撮り損ねました) 話はそれますが、ハワイでは犬と一緒にお店に入ることができるお店があるようで、この「ホノルル コーヒー エクスペリエンス センター」さんにも犬連れのお客さんがいました。大きな犬が可愛くて思わずたどたどしい英語で話しかけてもふもふさせてもらいました。 まとめ まだ数品しか紹介していないにも関わらず、土着のネイティブ・ハワイアンの文化から日本やアメリカ移民によってもたらされた文化までを融合させて旅行者に”実にハワイらしい”料理を提供していることがお分かりいただけたかと思います。 ハワイでは観光産業に重きをおいてから、ハワイの文化や地産地消にこだわったメニューを開発し続けています。特に顕著な動きとして1991年から行われた”食の革命”があります。「ハワイ・リージョナル・キュイジーヌ」という12人のハワイのシェフのグループが集まってハワイ独自の料理を世界の主要な料理として広げていくという目標をもった運動が社会に広まり、ハワイ全土に”ハワイ産の食物を使い、ハワイらしい料理をつくろう”という気運が広まっております。 旅行に来た人にハワイの思い出を食でも残してほしいという思いから郷土料理の”開発”に勤しんでいるハワイの人々の努力を感じることができるいい滞在でした。いえ、難しい話はやめましょう。ハワイ料理、美味しかったです。ここまで読んでいただきありがとうございました。 おまけ Dole(果物ジュースで有名なあのドールです)のプランテーションに立ち寄ったのですが、パイナップルが実際に育てられているところを見るのは初めてでした。 「パイナップル、ワレェ、そんななり方しとったんかぁ……!」 と衝撃でしたので貼らせていただきます。 もっとしっかりした巨木から実ができると思っていたのに、地面に近い硬度強めの雑草から生えてるんですね。ちなみにパイナップルはハワイが原産の植物ではなく、南米から持ち込まれたものだそうです。1920年代にハワイとアメリカ本土を繋いだ定期客船の広告モチーフとして用いられたことで、一気にハワイ=パイナップルの印象ができたとのこと。 広告の力はすごいですね。 [参考記事] 「Hawaii… Continue reading ハワイ料理がおいしい! 飯テロの話
中世イングランドの国体で考えてみたこと
まず最初に断っておくと中世に国民体育大会はありませんでした。国体は国のありようと言うことです。考え方としては戦前でよく言われてたのような国体に近いのですが、イングランドでは文字通り「体」のように考えられていたようです。国王を頭として軍隊や貴族、忠誠、臣民、税、宮廷、修道院、さまざまな構成物がまるで人体のように相互に支え合って国体が動くというわけですね。 さてこうした国体は中世を通じて同じであったわけではありません。ローマ帝国崩壊後の異民族の侵入の頃の状況はよくわかっていないのですが、この時期の族長の周囲が国体のもとになり、次第に膨れ上がっていったのです。 まず族長の周囲には長老だとか人望のある人だとかが集まってあーするべきだとかこーするべきだとか意見を聞くための集団がいます。ノーサンバランド王のエドウィンはキリスト教に改宗したヘプターキー時代の人物ですが、改宗に当たって重臣たちを説得しているシーンが年代記に残されています。こうした重臣たちの集まりは後にウィタンと呼ばれていたそうです。イングランド議会はHPでこのウィタンがルーツの一つであると説明していますが、中世に三権分立などと言う概念があるわけがなく、最初の実態としては全ての権限が混然一体となった偉い人たちの会議でしょう。もっとイメージしやすく言うなら会社の重役会議だとかヤクザの組長の舎弟たちなわけです。 組長=王 舎弟=貴族 子分=宮廷の使用人など 舎弟がいれば子分もいます。こんな風に書くと仁義なきイングランド史というタイトルが頭をよぎりますが、実際未発達で暴力に頼らざるを得ない社会だったので自然と似てくるものなのだと思います。子分の仕事は組長の身の回りの世話となるでしょう。今と違って家事労働は大変なこと、一人暮らしなんて修行者の域だったかもしれません。衣装を管理し、財産を管理し、食事の場をセッティングし、馬を世話し…いろんな仕事がありますね。こんなの家政婦の仕事で子分の仕事じゃないなんて思わないでください。今だって弟子が師匠の身の回りの世話をするような芸事があったりするでしょう。実際王のトイレの世話は貴族たちの間でも特に信頼の厚い人物にしか任されなかったのですから。 さて、子分たちの話に移りましょう。ヘプターキー時代も終わりが近づくと族長と言うか王の支配領域は広がります。市町村レベルから大きめの県レベルまで大きくなります。王は広い領土を旅しながら治めました。各地の諍いを解決するために、住民の忠誠を引きとどめておくために、反乱の芽が出ていないか確認するために。この移動に伴って王の衣装も財産も動くのです。と言うわけでチェンバレンが生まれました。チェンバレンは王の寝室に関連する仕事をしていたのですが、今でも寝室には重要なものが置かれることが多いように(ネットで元空き巣の証言を読んだところ、基本的にリビングか寝室には現金があるなどと言ってました)、重要な書類や財産の管理を任されました。しかし王たるものそういったものは山ほど抱えることになります。膨れ上がった貴重品をすべて寝室には置いておけません。そこでトレジャリが生まれます。トレジャリは宝物庫を管理する役職ですが、あまりにも多い財宝はウィンチェスターに定着しました。そしてこのウィンチェスターにある財産を適切に管理しているか調査をしたり、王の収入を把握するためにエクスチェッカー(財務府裁判所)が作られるのです。この辺りの歴史はまだ私の中では腑に落ちないし分からないことも多いので、立ち入った話はできませんが、どうもただの会計ではなくて裁判もしていたようなのです。ちなみに行政面についても多方面にわたって活躍したようです。イギリス史ではやたら不思議な裁判所がたくさん出てくる気がするのですが、そもそも三権を分立させていない状態だとすべては司法の下に属するらしいです。一方で金勘定して一方で会計をごまかした人物に罰を与え、しかも同じ会合で全く財政とは関係のない事務処理や裁判までついでにやっていたのかもしれません。学級会で掃除当番を決めていたら突然弾劾裁判が始まってしまうような…カオスな役所だったのでしょう。このあたり、名前に引きずられて組織の仕事を判断してはいけないなとよく思います。あと、コートの法廷に代わる様ないい訳はないのかと思いますね。 舎弟に話を移しましょう。組長は多くの舎弟を従えることになります。特にノルマンコンクエスト以降の重役会議はクーリア・レギスと呼ばれます。ここも会議で掟を決めているかと思えば裁判もしているところです。クーリア・レギスめちゃくちゃいろんな人が出席するようになったので、大会議と小会議に分かれました。小会議が様々な行政機関や専門裁判所として成長し、大会議は議会として国体の土台に変貌していきます。まるで胚が細胞分裂で一つの細胞から様々な臓器に変わっていく様子みたいですね。ちなみに小会議は枢密院を生み出し、枢密院は内閣を生み出しています。そう、そしてその内閣の下に教育省だとか運輸省だとか国防省があるんです。 ところでノルマン朝やアンジュー朝はフランスを本拠地とした勢力です。いくらイングランドの土地が豊かでも本拠地はフランスです。そのため、イングランド王はノルマンディーにいるのが基本でした。なのでイングランドの統治を担当したのはジャスティシアー(最高法官)と呼ばれた人です。このジャスティシアーがいた頃がちょうどクーリア・レギスの分裂が活発だったころでもあり、王の不在と言うのはイングランド独特の行政制度の発展に大きく寄与したと思われます。ジョン王がノルマンディーを失い、イングランド王の本拠地がイングランドになるとその発達した行政機構や裁判所が王を迎え入れることになりますが、そこで王と貴族の確執がマグナ・カルタを生み出し、議会が税の承認をする伝統が生まれました。 議会と言うのは今でこそ立法府ですが、中世においては課税の承認をする機関で、その代償として各地域の陳情を持ち込んでいたようです。上納金を納めるからには自分の組のいざこざや困りごとの面倒は見てほしいですからね。この陳情が時には権利の請願だとかウェストミンスター条項、改革勅令になるわけで、議会を強くしていきます。しかし議会は王を懲らしめたいわけではなく、やはりその権威に依存しましたので持ちつ持たれつ、議会の中にあって王は主権を有するなどと言うあいまいな国政論となるのです。このぼんやりした制度は王を体の一部とした、つまり王が単独では生きていけない状態を作り、国体と言う発想になったのかななどと思ったりもします。 イングランドの複雑な政治史の驚くべきところは、大きな切れ目なく現在まで続いていることです。私たちの暮らしを支える国のシステムは近代(この言葉のせいで18世紀以前の世界と必要以上に距離を感じますね。同じ体を持つ人々だというのにまるで違う生き物のようにさえ感じてしまいます)に突然生まれたものではなく、中世から脈々と受け継がれてきた、秘伝のたれのようなものです。私たちを取り巻くシステムは、暴力渦巻く民族移動の時代から、試行錯誤や改良を重ねて生まれてきたもの。この知恵はもちろん現代の制度を知ることでも得られるでしょうが、その神髄は歴史に触れることでより一層分かるのではと思って、ずっとイングランド史を続けています。たぶん。
マシュマロ回答『ぶっちゃけ今の円安って何が問題なんですか?』
これは何の記事? ちょっと前から設置している、世界史べーたのマシュマロに来た質問に答えよう! というコーナーです。 ……ええ、私が張り切り過ぎたせいで、Twitterで答えると「『世界史』じゃなかったんですか?」とか言われそうな長さになってしまったのです。申し訳ない。 あとは、マシュマロ投げやすくなるよう、どんな質問にも答えますよ~という姿勢を見せていきたいな、という思いもあります。ほんとにどんな質問でも、質問じゃなくても構わないので、ぜひぜひマシュマロをください。「生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え」とかでもいいですよ。ちなみにその答えは42です。 あ、言い忘れておりましたが、本マシュマロ回答はあくまでも※(米印)の見解であることをご承知おきください。 マシュマロ回答なので、ちょっと真面目寄りに行きます。 円安の原因 まず、(対米ドル)円安の原因についてです。今回の円安の原因は、主に日米の金利差によるものであろうと考えられています。金利差があると、資本が移転することによって為替相場が変動するのです。 もう少し詳しく言うと、現状のような金利差がある場合、日本の低い金利でお金を借りて、金利の高い米国に持って行くだけで利益をあげられてしまいますね(裁定取引)。すると、日本から米国に資本が移動しますから、為替相場は日本円を低く評価し、米ドルを高く評価します。これは円安ドル高にほかなりません。 (ただし、理論上は金利と為替相場が同時に、かつただちに調整されますから、裁定取引による利益はあげられないことが知られています) このことはいわゆるトリレンマの問題としてみなすことができます。今は自由な資本移動と、独立した金融政策(低金利)を維持しているので、安定的な為替相場が保てない、ということです。 もっとも、上記はあくまでも理論上の話であり、現実の金利や為替相場が必ずしもそうなっているわけではありませんが、現状の円安ドル高とは整合的です。 円安の問題点(悪い影響) 次に、円安の問題点について言及しましょう。直接的な影響としては、輸入産業が苦境に陥る可能性があります。 とくに、実質為替相場という概念を考えると影響は顕著です。「実質」とある通り、両国の物価も考慮した為替相場のことで、いわゆる購買力の変化を加味したものとも言えます。現状、物価上昇率は日本よりも米国の方が高いわけですから、日本の購買力は下落していると見なせます。つまり、実質為替相場はさらなる円安ドル高となっているのです。 ただし、他方で輸出産業は円安の恩恵を受けるであろうという指摘ももちろん成り立ちます。その意味では、円安が良いのか、円高が良いのかというのは、自国の経済構造に依存すると言えます。 とはいえ、現在の為替相場の変動は、急激かつ先が見えないという点で問題があるかもしれません。経済学ではしばしば取引費用がまったくないかのような言説を行いますが、結局のところ、現実において急激な変化に対応しようとするためにはコストがかかります。単純化して言ってしまえば、不安定な為替相場が良い影響をもたらすとは考えにくいでしょう。 また、市場は日銀が為替相場の変動を放任していると見ているようですから、いわゆるvolatilityは高い状態にとどまるかもしれません。ただし、動けない理由は「中央銀行の信認」などとも関連しますから、日銀がどうすべきかということは、簡単に判断できるものではありません。 まとめ まとめると、現在の円安の主要因は金利差であり、輸入産業は厳しい状況におかれています。円安や円高は必ずしも悪いものではありませんが、現在の急激かつ先行き不透明な変動は、悪い影響を及ぼしている可能性もあります。 ちなみに、本件について参考になるのは、ちょっと前(3月末)のものですが、この記事などでしょうか。 上野剛志「まるわかり”実質実効為替レート” ”50年ぶりの円安”という根深い問題」(ニッセイ基礎研レポート)、ニッセイ基礎研究所。https://www.nli-research.co.jp/files/topics/70706_ext_18_0.pdf というわけで、マシュマロに回答してみました。どうでしょう、答えになっているでしょうかね……? 私が言うのもなんですけれど、世界史べーたにはめっちゃ色んな人がいます。先史時代から今晩の活動まで、お気軽に質問してみてください。たぶん誰かしら回答できると思います。 (でも、あんまり政治的に敏感な話題は避けた方がいい……かも?) だから! マシュマロを! ください! 追記: 諸事情によりマシュマロからgoogleフォームでの募集に切り替わりました。以下のリンクからどうぞ! 世界史べーた(仮)への質問!
日本財政は持続不可能だった? Bohn検定による検証
財政の持続可能性とは? ドーモ、読者=サン。赤字スレイヤーです。 ああ待って、ブラウザバックなさらないでください。 ……こほん。改めまして、※(米印)です。 今回は、Ihori et al.(2001)(以下、「井堀ら」と記します)を参考に、戦後日本(~98年)の「財政の持続可能性」を検討してみたいと思います。 ただし、ひとつ注意していただきたいのは、これは政治的意図があるものではないということです。あくまでも「歴史」として捉えてくだされば。 ではでは、本題に入りましょう。 財政が持続不可能であるとはどういうことかというと、財政が持続可能ではないということです(小泉構文)。 ……いやいや、大真面目な話なんですって。というのも、「持続可能」の基準は決して明確ではないのです。 とくに近年の計量分析の進歩もあり、「○○が××だから持続可能!」みたいなことを安易に言ってしまうと、「素人質問で恐縮ですが……(素人ですらわかるとこに欠陥があるように見えますが)」とか「基本的な質問ですが(基本的な部分に落ち度があるんだが)」とか、「私もよくわからないのですが(え、そんな初歩的なミスやらかすとは信じられないんですが)」とかが飛んで来ますから…… それを踏まえて井堀らの議論を紹介しますと(責任逃れ)、主に 「公債の中立性」を確認する Bohn(1998)の検定を用いる の2段階によって評価しています。 以下では、この2つについて紹介してゆきましょう。 バーロー、バローの中立性が保たれてなきゃしょうがないんだよ 公債の中立性(中立命題)というのは、「財源に公債を使っても、増税を行っても、結局一緒だよね」という議論です。 え、そんなことあるわけないじゃないか、と思うかもしれません。正直私もそう思います(え しかし、事実として公債はいずれ返さなければならないわけで、結局は増税を行うことになります。ですから、もし人類がめちゃくちゃ合理的な存在だとしたら、この増税を見越して経済活動を行うでしょう。そうなれば、「全然違わないじゃん!」となるわけです。 もしこれが満たされていれば、公債をいくら発行しても、国民は賢明なことに「どーせ増税するんでしょ?」と考えて行動するので、ほぼ持続不可能にはならないはずです。 これが中立性のおおまかな内容です。 さらに細かい議論に入ってゆくと、中立性には「リカードの中立性」と「バローの中立性」があり、一般にバローの中立性の方が「強い」概念だとされています。 バローの中立性は、子孫代々に対して遺産を残したい、という思いを想定していますから、「いやいや、どーせ増税するんでしょ?」が100年200年先にも適用できるという主張なわけです。 ……うん、ちょっと過剰ですよね。 ちなみに、リカードの中立性はその世代で返すという条件なので、もう少しマイルドです。 で、日本財政はどうなのか、という話です。 井堀らはこれらについて検討したところ、リカードの中立性についてはある程度認められるものの、バローの中立性は不十分であると指摘しています。 リカードの中立性で保証されるのはあくまでも同一世代の間だけですから、クソデカ債務を抱えている日本の例ではちょっと物足りないと言わなくてはならないでしょう。 つまり、公債の中立性という観点からは、持続可能性を担保できないという結論です。 ククク……Bohn検定が敗れたか。奴は我らの中でも最強…… 次にBohn(1998)の検定(Bohn検定)について紹介しましょう。 これは簡単に言うと、「借金が増えたら、それを返そうとしているかどうか」ということの判断です。つまり、債務残高が増えたら、歳入を増やしたり歳出を減らしたりして、収支を改善しようとしているかどうかを見るわけです。具体的な説明はBohn(1998)、和文なら土居・中里(2004)などを参照してください。 先にこのことを強調しておきますが、Bohn検定は決して一部の研究者のみが用いているものではなく、むしろ21世紀に入って支配的になってきた手法です。ですから、旧来の単位根検定、共和分検定などよりも優れた特性を有している、とされています。手法に対する疑念は(持たないこともまた不健全ですが)過剰に評価されるべきではありません。 さて、井堀らの議論です。Bohn検定によって導き出された結果は、まず56年~98年、65年~98年のいずれの場合についても、前述の収支改善の反応は有意に観測できなかったということです。これは財政が持続可能であるという主張を支持しません。 ただし、喜ばしいことに、長期的に見るともう少し事情が異なります。 歴史をさらってみると、70年代、とくにオイルショック後に財政支出が大いに増えました。田中角栄内閣はもとより公共事業を盛んに行い、さらには福祉の充実も試みていましたし、もっと悪いことに(選挙対策として)合理性のない減税も行ってしまいました。このような減税は70年代を通じて見受けられますが、ひっくるめて言えば、与党が減税を唱えれば野党はさらなる減税を主張する、という悪循環に陥っていたわけです。 しかし、80年代の行政改革、さらには消費税の導入をもって、90年代初頭には財政状況は大きく改善しました。これらの時期の財政収支を縦軸に、債務残高を横軸に取ると、井堀らが「二次関数的」と言ったような関係が成り立っています。 少なくとも70年代~90年頃までは、一時的な債務拡大こそあれ、概ねにおいては「借金が増えたら、それを返そうとする」意識が保たれていたと言えるでしょう。 ところが、井堀らの議論には続きがあります。バブル崩壊後、いよいよもって政府債務は手が付けられなくなりつつあるというのです。 先ほどの財政収支と債務残高の関係で見てみると、98年には大きく悪化しています。 これでは、「持続可能」と言うことはできません。井堀らは、「近い将来において、財政赤字を削減することが重要である」と結論付けています。 つまりどういうことだってばよ 以上、井堀らの議論からは、70年後半と90年代後半の日本財政は、持続可能ではなかったと言う必要があるようです。70年代の場合はその後に回復期が一応ありましたが、90年代の場合は(井堀らには)それは示されていません。 では、日本財政は破綻してしまうのでしょうか? しかし、実際そうはなっていません。この理由はなんでしょうか。 たとえば、藤井(2010)は、同様の検定を行った結果、90年代以降の財政収支と債務残高の関係に同じく「二次関数的」関係を見出しており、持続可能と結論付けています。 これを解釈するならば、小泉政権下での改革などによって、財政収支が(少なくとも一時的には)改善した可能性があります。井堀らの提言した「近い将来の財政赤字削減」は、まさにその直後に行われたのでした。… Continue reading 日本財政は持続不可能だった? Bohn検定による検証
やあやあ!我こそは(中略)なり!!!
はじめに動画の話をしよう。 お久しぶりです。一ケ月ぶりくらいですかね? さて、無事にロレンス解説、全四回が終了しました!(予定より一回多いのはナイショ) にしても、全然まだまだ紹介できるお話は残っているんですけれどね…… 例えばヒジャーズ鉄道の爆破の際に、導火線が短すぎて爆風をモロにくらって血まみれになったり、ロレンスの「人生初の殺人」を味方のアラブ部族のいがみ合いを解決するために決断して行ったりと本当にたくさんのエピソードがあるんですよ。君はもっと落ち着いて第一次世界大戦を生き抜くことはできないのか? そう、生き抜くと言えば、大戦に従軍したロレンスの兄弟たちはどうなったのかと言いますと。 ロレンスの弟であるフランクは1915年5月9日、フランス北部のアラスにて塹壕内にいたところ、爆弾の破片によって即死。 同じく弟のウィルは英国航空隊の監的手(砲撃の着弾観測)に志願し、1915年10月23日ウィルの乗った飛行機はフランス上空にて撃墜されて戦死。26歳の彼は前線に出て一週間という短さで天に召されてしまいました。 五ヶ月の間に二人の弟を失ったロレンスの心境は内向きとなってしまい、それから数ヶ月の両親に対する手紙は間隔があいていき、その内容もぶっきらぼうなもので、フランクの事は書かなくなり、ウィルの事は一回漠然とほのめかした以外はそれを認めた記録もないそうです。 参考文献とか貼っていきませう。 という事で、今回の動画に使用した参考文献です。 ・コット・アンダーソン 著 ・山村 宣子 翻訳 ・出版社 白水社 ロレンスがいたアラビア(上)・(下) はい、これだけです。 あとはフサインのウィキペディアを少々といった感じですかね?資料少なくて恥ずかしくないの?(恥ずかしい) 次は何をやるんだい!? 次の動画ですけれど……今度はお家芸ともいえる兵器開発なんかをやったりやらなかったりしようかなと、思ったり思わなかったりしています。 ですので、来月以降も適当に待っていただけると幸いです。