アフリカ史の魅力 はいはーいアフリカ推しのまりさです。 突然ですがアフリカ史というと皆さんは何が思い浮かびますか? そもそもアフリカ史とは歴史書においてちら裏にしか載らず、試験やテストにも出てこず、知ろうと思ったり、知る機会がなかったりするため、自発的に興味を持つことは難しいと思います。 そこで今回はアフリカ推しの私がアフリカ史の魅力をご紹介させていただこうと思います。 各地に存在していた交易国家 アフリカというとサバンナにジャングル。閉鎖的な場所で、ヨーロッパ人が足を踏み入れるまで外部との接触がなかった遅れた地域…そんな風に思われがちです。 しかしそれはいわゆる偏見であり、例えばインド洋交易の要衝となっていたアフリカ東部のザンジバル島を中心とした商業都市連合「キルワ王国」や西アフリカと北アフリカの中間貿易で栄えたサヘルの王国、マリ王国やソンガイ王国。ザンベジ・リンポポ川に跨る鉄器農業社会の早期形成や金の加工品輸出で栄えた「グレートジンバブエ」といった国々が存在していました。 彼らは元々この広大なアフリカの地で多種多様な文化を形成。 閉鎖的なアフリカというのはまさにヨーロッパ的な見かたであり、ヨーロッパ人到来以前から外部との交渉はすでに行われており、いうなれば開放的なアフリカがそこにあったのです。 ヨーロッパという仇敵 ヨーロッパ諸国というのはアフリカ史を話すにおいて切っても切れない関係です。 16世紀から始まった大西洋奴隷交易において、アフリカは南北アメリカ大陸への奴隷供給地としての役割を担わされ、働き手と兵士を失い、さらには大量の加工品の輸出攻勢を受け現地の製造業が壊滅。19世紀に イギリスが奴隷貿易を禁止にするまでの間、奴隷貿易はアフリカに深い傷跡を残しました。 また1878年にドイツ・ベルリンで行われたベルリン会議にてヨーロッパ列強によりアフリカ大陸は分割・植民地統治を受けることになります。 ヨーロッパとアフリカとは搾取する側と搾取される側であり、幾度となく対立してきたのです。 そんなアフリカ諸国が独立するまでの過程というのは、西欧諸国という”敵”との戦いであり、ある種の我慢比べでもありました。 最終的に1960年以降多くのアフリカ諸国が独立を達成するわけですが、この独立までの過程というのもまた面白い。 独立運動家らは国や地域も関係なく、全員横の繋がりを持ち、独立したアフリカを目指し、全員で独立を達成しようと連携していたのです。 独立の光と影 独立を達成することが出来たアフリカ諸国のその後というのは苦悩と絶望の連続でした。 多くのアフリカ諸国が独立した1960年の翌年には、同じく独立を果たしていた現在のコンゴ民主共和国(昔だとザイールとも)にて分離独立を掲げるカタンガ国が反乱。さらにはソ連に接近した中央集権派の首相 パトリス・ルムンバとアメリカ寄りの大統領ジョゼフ・カサブブとの対立をも生み、コンゴは混乱に陥っていきます。 またアフリカ諸国はどちらを支持するかと2つの派閥に分裂してしまったのです。 さらに苦難は続きます。 政治的に独立できたアフリカ諸国ですが、それは必ずしも経済的自立を伴うわけではありません。 独立時のアフリカ諸国の経済構造は、植民地期から継承した植民地経済でした。そのためこれはヨーロッパ人が生産・流通に大きく踏み込んでいた経済体系であり、イギリスやフランスといった宗主国の経済に必要な原材料を調達し、また廉価な工業製品を輸出しうる市場を確保するための搾取の経済構造です。 この結果アフリカ諸国は経済開発の財源確保のために、植民地時代に開発された少数の輸出産品の輸出を増大して外貨を獲得せねばならず、植民地期からの経済構造から脱出するために植民地経済に依存するという矛盾を抱えることになりました。 また多くのアフリカ諸国の基幹産業は農業であるにもかかわらず、食料自給が困難。というのも食糧作物の開発が植民地期になおざりにされ、コーヒーやカカオといった輸出用換金作物の生産が食糧生産を圧迫していたのです。 本来自国で供給可能なはずの食料を輸入すれば、その分、他産業の開発に振り向けるべき外貨が減少することになるのです。 こういった不利な状況が宗主国により押し付けられたことにより、皆さんも知るようなアフリカ諸国の低開発化を招くことになってしまったのです。 そんなわけで今回はここまで、また機会があればお会いしましょう。ばいばいヨーロッパ~
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超ゆるいフランス旅行記
パリに行ってきました 皆様いかがお過ごしでしょうか?現在10月25日21時49分、私は今、夕食後の満腹感を味わいながらこのブログを書いています。実は、私は9月の下旬にフランスの首都、パリへ行ってまいりました。今回は旅の中で書いた手記を紹介したいと思います。元大関、鳴門親方のブログを見るような感覚でお読みください。 日記 1日目 機内食うまい。クリームキノコソースが最高。うま味がやばい。ソーセージの肉々しさが凄い。ヨーグルトの全てが甘い。フルーツが新鮮だった。 シャルル・ド・ゴール空港の周りがマジでなんもない。草原、畑、林しかない。滑走路もでかい。そりゃコンコルドも飛ばせるわ。 なんかいい匂いがする。野花の匂いかな?多分香水だな。 解説:調べてみたらシャルルドゴール空港は羽田空港の2倍の大きさだそうです。 2日目 路上喫煙パーティだな。いいなぁ。火の貸し借りが結構軽い。 パリは左岸がいい。落ち着く。なんか黒人の方が親切な気がする。 ベジタリアン食うまい。やさいの出汁が効いてる。 解説:この日の昼食はパリ左岸「Torre di pizza」のイタリア料理店に行き、ベジタリアン用の野菜パスタを食べました。昼間は空いていますのでお勧めです。 3日目 バスが広くて助かる。 ベビーカーと一緒にバスに乗る人がおおい。 メトロに広いスペースはない。メトロでベビーカー持ってきている人いて大変だな。 レストランの親父がいい人だった。凄い嬉しい。でも量が多いわ。残してごめんね。 解説:夕食はホテルの近くのレストラン「Madame Gen」に行きました。店員さん全員がとても親切でしたので近くに行かれる際はお勧めします。 4日目 マツケンサンバを聴きながら迎えるパリの朝は格別。思ったよりおしゃれな人少ない。 オランジュリー美術館最高。モディリアーニ良か。セザンヌいっちゃん好き。 メトロ快適。治安は案外大丈夫。 解説:美術館系は当日券を買うにはすごく時間がかかることが多いので、有名な美術館はネット予約がお勧めです。 5日目 バス停に立っていた人がチェンソーマンのパーカー着てた。しかもアニメ版。理解かっている奴がフランスにいたとは。 シャルル・ド・ゴール空港の出発ゲート豪華すぎる。椅子が豪華すぎてビビった。ここがエコノミーが待つ席だと思えなかった。 出発ゲート内の売店で、本のコーナーの3分の1がフランス語訳された日本の漫画だった。なんか嬉しい。 解説:本のコーナーでは「ブルーロック」が一番目につく位置に置かれていました。サッカー大国のフランスで、日本サッカーの話が人気になるんだと驚きました。
紅毛城、台湾北部の要塞
ふらふらと散歩に行ってきましたので軽いお話をさせてもらいましょう。 地元にもいろんなお城がある私ですが、たまには遠くの城でも見に行こうと思い、行ってきました「台北」に!! 紅毛城は17世紀にスペインが1632年にサント・ドミンゴ城(聖多明哥城)を台湾北部(現在の新北市の淡水地区)に建築したのが始まりと言われます。なんかちょうどいい拠点が東シナ海に見つからなかったからできたらしいです。ついでに淡水は台北盆地への入り口にあたり、現在でも交通の要衝です。海巡署分署は現在も淡水にあり、淡水河は台北に至る重要な道でもあります。台北に入る船を打ち払うこともできる高台に築かれたわけです。しかしフェリペ2世のいないスペインは弱く、世界最初のヘゲモニー国家として語られるネーデルラントが1642年に城砦を占拠し、アントニー要塞(安東尼堡)として1646年に生まれ変わります。この当時建築された部分は鮮やかな橙色の部分で、手前煉瓦部分は日帝時代らしいです。 1662年、今度は鄭氏が台湾を征服し、本格的に漢族の入植がはじまります。漢族は西洋人を紅毛と呼ぶものですからこの城も紅毛城と呼ばれるようになりました。その後鄭氏は清朝に帰属しますがそのころから城は多少使われもしますが放棄されます。そして19世紀、アロー戦争の講和条約、1858年の天津条約により淡水が開港され、英国領事館がこの要塞に入りました。二回の出窓みたいなところはイギリス時代の増築のようです。 領事のお部屋 その後日本が台湾を占領すると改めて日本と交渉して領事館を設置し、戦後には在中華民国領事館として機能します。1972年に中華民国は日本をはじめ各国と国交断絶し、領事館の役割を終えました。アメリカやオーストラリアの管理を経て1980年に返還、84年に公開施設となった歴史があります。 そんな歴史のあるお城にふらふらと行きましたが、お城っていうのはどこも高台にあるものでして(小諸城などは例外)、軽い運動にはもってこいなところです。 近くには清仏戦争の頃に使われた清軍の砲台跡もあり、うろつくにはうってつけな場所でしょう。城は地形とセットと思いますが、それもよく感じられるところでした。
孔子の子孫を皇帝に? ~パラドのVIC3に採用された辛亥革命の和平案~
10月10日は辛亥革命の記念日 10月10日は辛亥革命の始まりとなった1911年の武昌蜂起(起義)の日。10が2つということで「双十節」と言われ、中華民国の建国記念日のように位置づけられ、現在の台湾では「国慶節」として祝日となっています。 (実際に中華民国が建国宣言をしたのは1912年の1月1日であり、こちらも「開国記念日」として祝日である) 孔子の子孫を皇帝に? さて、今回は辛亥革命において持ち上がった「孔子の子孫を皇帝にする」という突飛な案を取り上げます。 (私個人としては)極めてマイナーだと思っていましたが、 歴史ゲーマーおなじみのParadox Interactiveの「Victoria3」に採用されていて大変驚きました。 発案は変法派(維新派)のリーダー康有為 この発案者は康有為。弟子の梁啓超とともに1898年の戊戌変法の主導者として知られます。 以下、主に竹内弘行氏の研究を元にご紹介します。 (竹内弘行『康有為と近代大同思想の研究』汲古書院2008年) 康有為と梁啓超ら弟子たちは変法に失敗した(戊戌政変)後はお尋ね者となって日本ほか世界各地で亡命生活をしていました。 とは言え清朝体制の改革派として最も名高く、華僑は留学生たちの支持をめぐって、革命を目指す孫文らとと激しく争っていました。 お尋ね者であるものの、あくまで体制内の改革の主張であるために、義和団事件等を経て清朝が近代化に積極的になると、康有為と弟子たちは清朝側から注目されて国外から協力しています。 武昌蜂起後に袁世凱が内閣総理大臣として起用されると、梁啓超が法部副大臣として入閣しました。 清朝の立憲君主制と革命派の共和制の折衷「虚君共和」構想 さて、清朝の体制派と革命軍の内戦が膠着する中、康有為が両者の合意のために主張したのが「虚君共和」という案です。清朝の立憲君主制と革命派の共和制の間をとったもので、君主を神聖なだけで実権を無くして内紛を防ぎ、実質的には共和制を行うというものです。 その君主の候補者が一人が現皇帝の愛新覚羅溥儀、もう一人が「孔子の嫡流」である第76代衍聖公の孔令貽でした。 なぜ孔子の嫡流を君主とするのか? 孔子の嫡流は歴代王朝が封爵しており、宋以後は「衍聖公」として封じられていました。 康有為は儒教を孔教(孔子教)と改めて、キリスト教をモデルに国教に適する形に改革する主張を続けていました。例えば年号表記において、清朝の元号(光緒○年、宣統○年)だけでなく、西暦や皇紀のように孔子の生誕から数える「孔子紀年」を用いるということをしていました。 (彼が政治的、または学問的主張に用いた春秋公羊学そのものが、儒教の中でも特に孔子を神格化する学説を有する学派でした) この孔子の嫡流を君主とするのは、単に康有為本人の思想に適ったものというだけでなく、漢族の復興を掲げる革命派に向けたものです。衍聖公は漢族の文化の中核として尊崇されてはいるがが政治的権力を持っていませんでした。 ただ、漢族のための象徴であるために重大なデメリットもあり、満洲ほか、モンゴル、チベットといった諸民族の離脱を生じるリスクがありました。そのために従来通り清朝の皇帝をいだき続けるのも捨て難いとしました。 虚君共和構想の結末 康有為の「虚君共和」の案は弟子を通じて清朝側、革命軍側の双方に伝えられ、12月18日からの講和会議(南北和議)の中で、実際に案の一つとして清朝側代表の唐紹儀から革命軍側の黄興に伝えられたようです。(革命軍は明確な代表者が定まっていない) しかし革命軍側の主張は絶対に民主共和制とすることでした。革命軍にとって敵側の袁世凱に大総統に譲るまでして合意にこぎ着け、清朝は滅亡し中華民国が代わって中国を受け継ぐこととなりました。 章炳麟の衍聖公を皇帝とする案 なお、孔子嫡流の衍聖公を皇帝とする案は康有為が最初というわけではありません。孫文・黄興とならび辛亥革命の三尊である章炳麟が、戊戌変法の翌年である1899年に『客帝論』の中で提唱していました。「客」とは満洲族のことです。『客帝論』は武力で満洲族を駆逐したい気持ちを表明します。しかしそうすると満漢共倒れして欧米の白人を利するため、満洲族から衍聖公への政権の委譲を主張します。 章炳麟は戊戌変法の頃は康有為に共鳴してしていました。そして徐々に満洲族の支配を打倒と、共和制樹立の革命を目指すようになります。1899年は康有為の改革路線から革命への過渡期でした。 後に章炳麟は『客帝論』を誤りとします。満洲族と妥協すること、孔子嫡流を皇帝とすることを自己批判する短文を加えて『匡謬客帝』(「客帝」のあやまりを正す)を発表しました。 『「客帝」のあやまりを正す』は岩波文庫の『章炳麟集』( 西順蔵ら編訳 1990年)に収録されています。 おわりに こちらは約1年前にツイッター上でつぶやいた内容を詳細にしたものです。冒頭で述べたように「辛亥革命」の記念日だからというのもありますが、近々、世界史べーた(仮)にて「革命」に関係した発表を予定しています。どうぞお楽しみに!
AtCoderで茶色になりました
はじめに 私は毎学期ごとの長期休みに、何かに取り組むことにしています。去年の夏は基本情報技術者の勉強を、冬は応用情報技術者の勉強をしました。残念ながら応用情報技術者の春季試験は午後問題の点数が59点で落ちてしまったので、来月に秋試験を受ける予定です。けれども、今年の夏も冬にやったものと同じことをしても、打ち込んだとは言えないような気がしたため、今年の夏はAtCoderを少し頑張ってみようと思いました。 取り組む前 さて、AtCoderをやろうとして最初にABC(AtCoder Beginner Contest)に何回か参加しましたが、まず気づいたことがありました。私が全くプログラムを書けないということです。一番痛感したのは、単純なソートの実装を標準ライブラリを叩くのではなく、愚直にバブルソートで書いていた点です。遅くてTLEします。そのため、最初にやった競技プログラミングの勉強は、標準ライブラリを用いてソートを行う方法でした。これがおそらく7月の真ん中辺りだったと思います。 何をしたか 最初の方は、有名な「競技プログラミングの鉄則」の星4までの問題をヒューリスティクスを除いて9割くらい解きました。そして、AtCoderのサイト上で常設されている「競プロ典型 90 問」の星4までを30問目まで進めました。その後は実際の問題を解いた方が良さそうと考え、直近のABCの過去問を少なくともC問題まで、できればD問題までを解くようにしました。「AtCoder Problems」によると、7月終わりから1ヶ月間でおよそ150問くらい解いたみたいです。いつの間にか「Longest Streak」という値が1ヶ月分を超えて、結構順位が上がってきたので、最近は忙しくても最低1問解くようにしてます。多分、どこかでやり忘れるとは思いますが…… 結果 一回レートがあまり伸びなかった回がありましたが、それ以外では50前後ずつ順調に伸びていき、9月2日のABCで茶色になることができました。しかし、まだ本番でD問題を通したことがないので、もう少し勉強しないとすぐに頭打ちになってしまいそうな感じがします。 最初の方は、Go言語のスライスの意味のわからなさや文字列の扱い方に悩まされましたが、個人的なライブラリの整理や簡単なドキュメントの整備などをして対応しました。他の言語では標準ライブラリを叩くだけのものが、Go言語では結構な分量を書いて実装しなければいけない点は少し大変でした。 プログラムの問題を解くサイトではAtCoderの他にPaizaもやっていましたが、このサイトは一回Sランクを取ってしまうと、頑張るインセンティブがなくなってしまって、それ以降は全く開いていません。PaizaでSランクを取れても、当時のAtCoderランクは灰色だったので、いかにAtCoderのレベルが高いかがわかりますね。 ・AtCoder https://atcoder.jp/users/kunaisn
国王陛下戴冠記念第二回イングランド史動画投稿祭参加作品参考文献リンク集
※本ブログはメスキィタ主催による動画投稿祭のまとめ的なものです。投稿祭開催告知動画はこちらです→https://www.nicovideo.jp/watch/sm41574665 ご挨拶 今回も多くの動画投稿者の方にご参加いただけました本投稿祭でございますが、前回よりも参考文献数の多い動画が目立っております。好奇心旺盛な視聴者の皆様方に置かれましては、すべて読んで動画の内容の正否を確認したいと思われることでしょう。しかし、それぞれ文字をタイプして検索するのは大変面倒であります。そこで今回主催が参考文献のリンク集を作成しました。本リンク集をご活用いただき、イングランド史に対する関心が世でさらに高まることを期待しております。 なお参考文献の書式については統一するのが面倒であったので、各投稿者のもの及び、主催者によるフリーダムな書式としました。ネットで無料で閲覧できるものは太字としています。 学生か先生か、学術系データベースにアクセスして情報を入手していると思われる投稿者もいらっしゃいますね。つまり一般人が容易にアクセスできないものも含まれています。 リンク集 【英蘭祭】ケルトの要塞ヒルフォート【VOICEROID解説】 https://www.nicovideo.jp/watch/sm42150520 Hillfort survey – notes for guidance ヒルフォート現地踏査に関する手引書 https://hillforts.arch.ox.ac.uk/assets/guidance.pdf MAIDEN CASTLEについてのEnglish Heritageのサイト https://www.english-heritage.org.uk/visit/places/maiden-castle/ 木村正俊編著『ケルトを知るための65章』明石書店、2018 https://www.akashi.co.jp/book/b351970.html 高野美千代「17世紀好古学文献の変容と読者の受容」『山梨国際研究 : 山梨県立大学国際政策学部紀要』第8巻、2013、pp.46‐pp.56 https://www.yamanashi-ken.ac.jp/media/kgk2013005.pdf 新納泉『鉄器時代と中世前期のアイルランド』岡山大学文学部研究叢書37、2015 https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/5/53167/20160528120953688360/pso_37.pdf 久末 弥生「イギリスの考古遺産法制と都市計画」 『創造都市研究e』 12巻1号、大阪市立大学大学院創造都市研究科電子ジャーナル、2017 https://e-journal.gsum.osaka-cu.ac.jp/ejcc/article/view/774 Campbell, Lorrae”The Origins of British Hillforts: A comparative study of Late Bronze Age hillfort origins in the Atlantic West”. PhD thesis, University of Liverpool,2021 https://livrepository.liverpool.ac.uk/3135296/ 孫文、清国公使館に囚わる!?~倫敦被難記~【第二回イングランド史投稿祭】 https://www.nicovideo.jp/watch/sm42161162 Sun, Yat-sen(1897) Kidnapped… Continue reading 国王陛下戴冠記念第二回イングランド史動画投稿祭参加作品参考文献リンク集
空母機動部隊のなおしかた。(日本海軍の場合)前編
何もしてないのに機動部隊が壊れました。 1942年6月5日、日本海軍はミッドウェー海戦において空母四隻を失う大敗北をしました。 この敗因は、米軍が暗号を解読したことによる待ち伏せだったのですが、日本海軍は「攻勢に使える手札が大きく減った事」と「米空母部隊を撃破しない限り作戦行動が不可能になる」という点で大きな衝撃を受けていました。 なにせ、本海戦も前のポートモレスビー攻略作戦も米空母部隊の反撃により頓挫しており、これを撃破してしまえばそもそも待ち伏せを受けることもないという考えに至ります。 この時点では、後年に言われるような「攻勢から守勢に変わった転換点」と日本軍は考えておらず、あくまで「攻勢」を諦めていなかったのです。 その為、以後の日本海軍は「待ち伏せする米空母部隊の排除」を念頭に置いた対空母戦に特化した艦隊編成や搭載編成へと変わっていくのです。 さぁ、空母を緊急で増産しませう。 ミッドウェーでの敗戦で海軍は空母の緊急増勢計画を研究し、⑤計画等既定の軍備計画修正の中に含められることになり『戦艦、超甲巡の建造は全て取りやめ、航空母艦の建造を優先する。軽巡洋艦の建造隻数を減少し、駆逐艦、潜水艦、掃海艇、海防艦、駆潜艇の建造を大幅に増加する。』という内容の改⑤計画に改められていきます。 この改⑤計画で新造される空母は 5021号艦(改大鳳型)5隻 302号・改302号艦(雲龍型)13隻 となっていました。 ですが、空母の新規建造は最低でも2年の年月を必要とし、今すぐに空母が欲しい現状では即効性に欠けました。 それらに対し、比較的短期間で戦力化が望めそうだったのが使い道のなくなった水上機母艦・甲標的母艦を軽空母に改装することと、艦爆による先制攻撃の母艦として低速戦艦を改装することでした。 軽空母は、当時すでに飛行甲板の狭さから現行の機体を運用するのがやっとであり、次期新鋭機(彗星や天山など)の運用は困難なのは火を見るよりも明らかだったのですが、上層部は現状の対空母戦に対処できればいいと考えていたのだと思われます。 まぁ、その結果、軽空母が空母部隊に増えていくことで現地部隊は扱いに困ることになるのですが、それはまた別のお話。 さらに言うと、使い道がないと思われていた甲標的母艦が、直後のガダルカナル島輸送作戦で一番必要とされていた高速輸送艦の要件を満たしており、投入の機会を空母改装により逸したのもまた別のお話。 さぁ、ある物で機動部隊を再編しませう。 1942年6月12日に軍令部に出頭した源田実中佐はミッドウェー海戦の戦訓も取り入れた空母部隊再建案を提出します。 その内容は、一個航空戦隊の空母を大型空母2、小型空母1とし艦戦、艦爆の搭載数を増加させ代わりに艦攻減らすというものでした。 小型空母は主に艦隊の防御を担当し、大型空母を攻撃に専念させることを目的としており、空母の絶対数が不足している現状で使い道の限られている二線任務に割り当てられていた小型空母を艦隊で活用させようとしたのです。 また艦爆の増加は1939年頃の編成にあった機動航空隊の任務である敵機動部隊を先制攻撃し、飛行甲板を爆撃によって使用不能にするという方針に回帰した物でした。 また、戦前の艦隊決戦構想の最終目標であった米戦艦部隊の撃破は開戦劈頭の真珠湾攻撃により達成されており、日本の戦艦部隊はこの時にはすでにその存在意義を失いつつありました。また、艦隊決戦構想では空母部隊、巡洋艦部隊が前衛として進出し、決戦の障害となる米空母部隊を撃破した後に戦艦部隊同士の決戦に臨むといった方針でしたが、ミッドウェーではそれが逆に仇となり、航空決戦に敗れ制空権を喪失したために連合艦隊は戦艦などの有力な戦力を持ちながら撤退を余儀なくされただけでなく、その後の敵航空部隊の追撃に苦しみました。 その結果、当然の帰結ではありますが艦隊決戦のメインとなった対空母戦の艦隊編成として、巡洋艦部隊を進出させ、その後方に空母部隊を配置して米空母部隊を攻撃するという編成になり、たとえ先制攻撃を受けたとしても米空母艦載機の攻撃は前衛で吸収し、その間に後方の空母部隊の攻撃隊が米空母を叩くという構想になっていきます。 そして「艦隊決戦の主力艦隊」であった第一艦隊は解体が進み、伊勢、扶桑型の戦艦四隻は航空戦艦への改装が検討され、艦隊決戦の秘密兵器であった重雷装巡洋艦の大井と北上は南西方面艦隊への輸送作戦用として転出していくことになります。 こうして、戦前に日本海軍が夢見た「大艦巨砲主義による艦隊決戦構想」はここに崩壊したのでした。 そしてこの「航空機主体による艦隊決戦構想」がそのような結果を迎えたのかは次にお話することにしましょう。
フォンスティ音楽教室② 楽器分類法の話の続きとほか
こんちゃっす!!フォンスティーヴです。お久しぶりです。 ということでフォンスティ音楽教室の第二回です。前回は楽器分類法について話した途中で辞めちゃったんですよね……。なので今日は前回の楽器分類法の話の続きをしたのちにちょいとだけ近況報告、及びベートーヴェンの話などをしてしめようと思います。 ※記録や文献に則ってお話いたしますが一部主観が入りますのでご注意ください。 確か前回は楽器分類4+1属性のうち「体」「膜」「弦」についてお話ししたと思います。ですので残りは「気」と「電」です。ではまず気属性から行きましょう。 「気」についてですが、これはもう字から普通に推測できますね。「気」は気鳴楽器、空気そのものの振動が主となって音が発せられる楽器を指します。一般的に”管楽器”と表されるトランペット、クラリネット、リコーダーなどは基本的に全て気属性と考えてもらって構いません。また、私たちが普段から行っている「歌」という行為、それを行う「喉」は空気を体内で振動させて音を発しているのでこの分類法では気属性に入ります。他にも「パイプオルガン」や「アコーディオン」「ハーモニカ」なども空気そのものが発音体となっているのでこちらの気属性に分類されます。 ここまで楽器、音の四つの属性について学んできましたが、恐らく世の中の9割以上の音はこれを使えば分類分けすることができると思います。たとえば今私が打っているパソコンのキーボードの音はキーボードそのものが発音体となっているので体属性ですし、口笛は空気が発音体となっているので気属性に入ります。ですが、実はもう1つ、ごく最近登場した「第5の属性」があります。この第5の属性を持つ楽器は世の中にあふれている4属性に比べたらごくわずか、0.01%にも満たないと思いますが、恐らくさっきまで紹介した4つの属性以上に身近だと思います。それが「電」、「電鳴楽器」です。 「電」は主に電気楽器と電子楽器の二種類に分かれています。電気楽器はいわゆる「エレキギター」や「エレキベース」のような、従来の四属性の発音原理を電気信号を使って増幅させるものです。普通のギターならば楽器内に空洞を作り音を反響させる必要がありますが、電気を使うことで空洞を作る必要がなくなります。発音体は確かに弦なのですが、発音原理に電気を使用しているのでエレキギター、エレキベースなどは電属性、その中の電気楽器に入ります。そう、電属性は非常にめんどくさいのです!!!! では、もう1つの電子楽器についてもお話しておきましょう。電子楽器は電気楽器と同じように「電気」の力を利用して音を出していることに変わりないのですが、電気楽器のように発音体を用意する必要がありません。それだけで音や音階を作ってしまうのです。分かりやすい例で言うと「電子ピアノ」や「電子キーボード」などです。ここら辺になってくると電磁気学や量子力学などの分野になってくるので詳しく解説することは控えますが、電属性に関しては発音体、原理、振動方法などまだいくつか曖昧なところもあり、世界の至る所で議論が続いています。 「さて、ようやく楽器分類法を完走することができました!!」 (このために海外の文献を持ってきたりで結構骨が折れました……。) これを知ったからと言って明日から暮らしが楽しくなるわけでもなければ豊かになるわけでもないですが、これを一つ知っとくだけでいつの日か人生に訪れるモヤモヤを一つか二つ解消できるかもしれません……笑 それでは、少しだけ日本独自の音楽文化の話をちょこっとしてからしめましょうか。日本の音楽文化の中で、世界に比べて特に異質だと思うのは個人的には「声楽」ですね。声楽というのは見て分かるように「声」を主に使った文化です。一応「歌」というものに入るのでしょかね……?声楽はもう1つの日本独特の芸能文化、「舞」と融合しながら数百年をかけて「能」、「狂言」はたまた「歌舞伎」など、様々な形態に変化します。特に1603年(慶長3年)の江戸幕府時代に突如現れた「出雲阿国(イズモ ノ オクニ)」という女性は男装をしながら狂言や能などの要素を取り入れた舞を街で披露し、江戸の街に一大ブームを引き起こしました。(まあそのあと風紀を乱すとかなんやらで禁止令を出されてしまうのですが……。)他にも中国から伝来した「傀儡まわし」「傀儡子」などの人形を使った芸能も吸収するなど、日本人だからこそできた文化なのかなぁ……と、思いますね。 さて、ちょうどいい感じなのでここから先は次回に回しましょうかね。次回は日本の音楽文化について語る 後半、そして今度こそベートーヴェンとかの話をしたい!!の2本です。お楽しみに!!またどこかで!!フォンスティーヴでした!!
フロリダ旅行の備忘録
はい皆様ここではお久しぶりです。 新型コロナの流行も一段落はして、最近海外旅行に関する広告や案内が増えてきた気がします。 しかしまだまだ自由に旅行できる雰囲気ではない上、私自身としても年一で海外旅行ができた自由な身分ではなくなってしまったため、やはり今回も過去を懐かしみながらブログを書いていこうと思います。 今回紹介していくのはアメリカのフロリダ旅行の様子です。 フロリダには何がある? なにがあるでしょう。正解はディズニーランド。 ディズニーランドと言えば我々日本人には東京ディズニーリゾートが定番ですが、本場アメリカのフロリダにあるディズニーランドは何もかも桁違いです。 まず広さが110平方キロメートルあります。日本のは0.465平方キロメートルなので本当に桁違いです。その差は200倍以上! 私は一週間フルで回りましたが、半分も回りきれませんでした。おそらく隅から隅まで全制覇するには一ヶ月いるんじゃないかな。 しかしながら一週間しか猶予がない中で、私も面白そうなスポットを厳選して臨みました。 今回はその中でも特に面白かったアトラクションを3つご紹介します。 ロックンローラー・コースター エアロスミスの音楽に合わせて暗い空間をハイスピードで駆け抜けるジェットコースタータイプのアトラクション。(wikipediaより引用) スペース・マウンテンなどと異なり方向転換が少なくスイスイと大回転してくれるので色んな意味でノリやすかったです。 ディズニーパークで最もハードなアトラクションとの評価もありますが、恐怖感は少なく楽しいコースターだと思います。 エクスペディション・エベレスト 2つ目は通称エベレスト、これも絶叫系。名前の通りエベレストを模したコースを駆け抜けるアトラクションとなっています。 最初の上りのコースが長く、途中で線路がなくなったと思えば後ろ向きに超スピードで下るので良い意味で恐怖感満載のコースターでした。 ストーリーもタワー・オブ・テラー並に結構作り込まれていて、没入感もあるクオリティの高いアトラクションとなっていると思います。 ディズニーパークで最も高いアトラクションと言われており、山頂の高さは60.8mあります。 テスト・トラック 最後はテストトラック、名前の通りテスト用の自動車型のアトラクションに乗り、様々なテストを行っていきます。 そして最後には走行テストが待っており、これが最高時速105kmとディズニーパークで最も速いアトラクションとなっています。 ビッグサンダーマウンテンのように外を高速で駆け抜けるコースターなので、爽快感が最もあるアトラクションなんじゃないかな。 いずれのアトラクションも日本にはありませんが、Youtubeで検索すれば乗ってみた動画があがっているので気になる人は一度見てみてほしいです。 また、日本のディズニーランドのアトラクションで、私の中で評価が一番高いのはスペース・マウンテンですが、どうやら2027年までリニューアル工事で閉鎖されるみたいですね。 果たしてどんなアトラクションに進化するのか楽しみです。4年後か……。 そんなわけで今回はここまで、また機会があればお会いしましょう、ではでは~。
アメリカの裁判所について
お久しぶりです。せるヴぁんだです。今回のブログ担当ということで、「アメリカの裁判所」について徒然なるままに書き散らしたいと思います。 アメリカ「合衆国」というちょっと変わった国 The United States of America, 略してU.S.A。一昔前(?) に同タイトルの曲が流行りましたが、日本人としてよくよく考えてみれば、アメリカという国は奇妙な国家形態をしています。日本の場合、「国」と言えば日本国そのもの、その下の行政単位は県、市、区、群、町…というように刻まれていきます。(道州制万歳!) 一方のアメリカは、いわゆる連邦制国家なのです。2023年現在、全部で50州を抱える国ですが、この「州」という存在がいささか厄介なのです。おそらく、多くの人が州=県のようなイメージを持つのではないでしょうか。愛知県豊田市≒ミシガン州デトロイト市のように。 しかし、実際のところ、アメリカの各州は日本の都道府県よりもはるかに強い権限を持っています。なんたって「州の憲法」が作れてしまうのですから。(おまけに州兵という州知事直轄の軍事組織まで!そう、某Grand Theft Autoなゲームで手配度が最高になるとやってくる人たちですね)このため、アメリカという国には、連邦政府たる「アメリカ合衆国政府・議会・司法」と、小さな国家とも呼ぶべき、「州政府・議会・司法」が二重で存在しているのです。日本の地方自治体にもそれぞれ議会と行政は存在し、条例も制定できますが、さすがに憲法や法律(※1)は作れません。国の唯一の立法機関は国会のみと憲法で定められています。(第41条) ※1…多数ある「法」の中でも国会で制定された法を特に「法律」と呼びます。 一番の違いは「裁判所」の構造かも アメリカと日本は「三権分立」型の構造をしています。議会(立法)・行政・司法の三すくみですね。そのなかで、議会と行政については、上に見た通り、権限の強弱があるとはいえ、ある程度は似通っています。しかし、司法たる裁判所はまったく違う構造をとっています(なぜでしょうね?)この違いの原因を探るところまではパワーがないのですが(すみません。。。)ここでは組織構造の違いを簡単に紹介しようと思います。 1.日本 日本の場合、司法制度の頂点たる最高裁判所が1つあり、日本を八つの管区に分けて高等裁判所が設置されています。その下に第一審となる地方裁判所・簡易裁判所・家庭裁判所がたくさん存在することになります。このように、最高裁をトップとする単一ピラミッド構造が日本型司法制度ですね。 2.アメリカ アメリカはというと、裁判所も「連邦政府」と「州政府」の2つのピラミッド構造を取ります。アメリカの統治システムは原則として州政府が責任を負い、州政府ではできないことや特に必要とされる場合に、連邦政府に権限があるようになっています。たとえば、合衆国憲法の解釈・適用に関する問題は、州の裁判所ではなく連邦裁判所が審理する権限(管轄権)を持っています。このように、連邦裁判所が管轄権を持つのか・連邦と州いずれの裁判所にも管轄権があるのかなど、個々の訴訟問題の性質によって、どこで裁判するのかが決まります。連邦と州を比べると、連邦の方が力があり、上下関係があるようにも思えますが、州の裁判所システムが連邦の裁判所システムに従属しているようなことはありません。あくまでも「異なる別の裁判所システム」としてそれぞれ独立しており、管轄権の競合があった場合にのみ、個別に調整されています。(たいていは連邦法が優先します) A)州裁判所システム アメリカで提起される訴訟のほぼすべては、州裁判所へと持ち込まれます。州の裁判所システムは各州によって様々であり、特に統一されているわけではありません。基本的には州地方裁判所(District Court/Trial Court)・州控訴裁判所(Court of Appeals/Appellate Court)・州最高裁判所(Supreme Court)の三審制ですが、州によっては控訴裁判所がなく、第一審と最高裁判所の二審制を採る州も存在します。(デラウェア州、サウスダコタ州、ワシントンD.C.など) さらに、州によって憲法や法律の内容、蓄えられた経験(先例となる判例法)も違うため、同一の訴訟を別々の州で提起すると、必ずしも同じ結論や量刑にならない可能性もあります。有名な話では、国際的な企業が準拠法と管轄裁判所(※2)を選ぶ際、アメリカではニューヨーク州とデラウェア州が多いそうです。(デラウェア州なんて何もないのに!)これは、2州が企業紛争に関する豊富な先例を蓄えているからと言われています。 ※2…事件・紛争が起きた時、どの国・州の法律に基づいてどこの裁判所で審理するかということ。 また、アメリカ裁判所制度の最大の特徴と言ってよいのが、「巡回裁判所(Circuit Court)」の存在です。巡回裁判所はその名の通り、管轄する地区をぐるぐると巡回して移動式の裁判をしていたのです。残念ながら今はもう存在しませんが、馬に簡易的な審理台を引かせて、判事が裁判をして回っていたそうですよ。(当時は上等なクッションもなかったので、長時間の移動と審理で判事のお尻が破壊されたとの説も) (画像引用:HJ Erasmus, Circuit courts in the Cape Colony during the nineteenth century: hazards and achievements,Fundamina… Continue reading アメリカの裁判所について